教職員の方へ

TOP > 教職員の方へ > お知らせ・イベント一覧 > 詳細

お知らせ・イベント

キーワード検索
例)研究発表 生命科学科
[2010/02/12]
◇医学部風姿花伝シリーズ14

〈写真説明〉夢野が取材したころの精神病学教室。背後に病棟、広大な運動場などがあった。(九州大大学文書館提供)

小説「ドグラマグラ」と作家夢野久作の周辺

福岡在住の作家、夢野久作(明治22年-昭和11年、本名・杉山泰道)の代表作「ドグラマグラ」は、九大医学部精神科病棟を舞台にした小説で、昭和10年に出版された。精神科入院青年の自分探しの謎解き、精神科と法医学の両教授の学問的確執、過去のいくつもの複雑怪奇な事件と患者青年との関わりなど、難解、斬新なストーリーは猟奇小説、怪奇小説などと言われる。内容はさておいて、作品と作者にまつわる周辺を少し訪ねてみる。
小説の舞台は、大正8年に九州帝国大学福岡医科大から九州帝国大学医学部となった精神科の病棟である。現在の九大病院の元総合外来棟あたりにあった。当時夢野は九州日報の新聞記者として、同医学部を担当。精神科治療についてもかなりの勉強をしていたようだ。とりわけ精神科の諸岡存(たもつ)助教授(明治12-昭和21)から脳に関する学説などを学んだ。諸岡は九大医学部卒後、助手を経てイギリスに留学して帰国したころだった。
その後上京して他大学に教授として転出したが、彫刻家・詩人の高村光太郎の妻智恵子の精神病治療に当たった医師としても知られる。また諸岡は、中国茶の医学的効能に着目し茶経評繹」など茶に関する研究でも著名だった。夢野は「ドグラマグラ」の出版記念会に諸岡を招いている。
出版記念から半年後、父杉山茂丸(元治元年-昭和10年)が70歳で死去した。茂丸は明治、大正、昭和に渡って政界の重鎮、いわば黒幕として活躍した人物として知られる。同じく福岡出身で当時、在野に思想的な影響を及ぼした頭山満とも深い絆があった。国政だけでなく九州鉄道(現在のJR九州)敷設、博多港建設、八幡製鉄所(新日鉄の前身)建設などを推進したり、関門トンネル建設を提案するなど、地元にも稀有壮大な着眼と行動力を示した怪傑であった。葬儀委員長が頭山、副委員長が外務大臣・広田弘毅だった。献体推進者でもあり、妻幾茂と共にその人体骨格標本が今も東大医学部に保存されている。
夢野は父の死の翌年3月、父と同じ脳出血で急逝した。父の死去に伴う最期の後始末のため上京して、ようやく一段落した直後だった。享年47歳。
夢野の長男・杉山龍丸(大正8年-平成1年)もまた、スケールの大きな人物で知られ「インド緑化の父」として慕われている。夢野が茂丸から与えられて一家が暮らした福岡市東区唐原の3万3千坪もの広大な杉山農園を次々と投げ売って、インドの砂漠緑化に身骨を注ぎ続けた生涯であった。
夢野は小学時代から祖父に漢学を学び、能楽喜多流に入門。旧制修猷館中卒後に兵役志願、慶応義塾を中退して禅僧として出家したり、喜多流教授も務めた。新聞記者を経て作家活動に打ち込む。構想に10年、執筆に10年を要したとされる「ドグラマグラ」は、まさに夢野が生涯を賭した作品であった。
死の数年前、夢野が胃潰瘍で九大病院に入院したときの句がある。これが辞世の句とされているという。
われ死なば 形見に残す ものはなし 白雲悠々 山河遼々(注)
(注)多田茂治「夢野久作読本」
<参考文献>杉山茂丸「百魔」(大日本雄弁会講談社、大正15年)
「夢野久作~快人Q作ランド~」(夢野久作展実行委員会、平成6年)
多田茂治「夢野久作読本」(弦書房、平成15年)
その他

ページの先頭へ戻る