吉田とめ女史之像

 吉田とめ女史は、明治九年五月福岡県に生まれ、明治二十八年福岡県立病院看護養成所に入学、 当時の病院長であった医学博士大森治豊先生の信任厚く、直ちに東京赤十字病院へ内地留学に推され, 帰学後の明治三十六年四月、福岡医科大学創立されるや看護長を命ぜられ引きつづき総取締りとなり、歴代の 院長に仕えて看護婦養成所の発展に尽力されました。
 その後各科の新設に伴い、眼科、皮膚科、耳鼻咽喉科の看護婦長を歴任され、 明治四十一年、九州大学佛教育青年会を発足するや、しばしば看護婦にも修養講話会を催され若葉会と命名され、看護婦の修養と 親睦の会として今日に発展し本学看護婦の象徴となっています。女史は人格高潔、世人の信望も厚く又稀に見る俳人として句集 「木賊」「九十九集」を出版されるなど趣味の豊かな女性でございました。
 女史は昭和八年後進に道をゆずられ、余生は福岡市平尾山荘で読書、句作などに親しまれました。 退官後も雑誌「若葉」の発行など、生涯を本学の看護婦道の向上のため尽力されましたが、 昭和三十八年一月二十九日九十二才の高齢で没せられました。  同年五月、本会創立六十周年記念祝典に当り記念事業の一として胸像を建立し、創始者としての功績を讃えることになりました。 偉大なりし女史の温容は永遠に私共の敬慕の的となり、後進看護婦の進む道を示されるものと信じます。

昭和四十三年春 九州大学医学部附属病院看護婦若葉会建立
-台座 説明文より

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