九州大学病院検査部  2006年3月31日
検 査 だ よ り
第29号

検査の充実を目指して その5■ 検査部技師長 栢森 裕三

三寒四温を繰り返し、ようやく水ぬるむ季節になって来ました。
  個人的な事ですみませんが、小生は雪国生まれのためこの季節になるとうきうきした気分になります。かつては鹿の子斑の山の景色を見、木々の芽生えで春が来た実感が湧いたものです。3月で年度が変わり、4月から新しい年度になる一年のサイクルは日本人の生活習慣には向いているかもしれません。
 さて、検査部でもこの春に新たに動き出すことがあります。
 3月は北棟が完成し生理検査部門が北棟2階に移りました。これで、検査部の移転がすべて完成することになります。生理検査部門は最新鋭の検査装置とデータ処理コンピュータを備えた部門になり、心エコー検査、心電図検査などハートセンター等の他部門との連携により診療に大きく貢献できるものと考えております。さらに、検体検査部門においても将来の高度先進医療に対応すべく、新たな検査技術を見据えた「明日の検査」への動きを考えています。また、既刊の「検査だより」でもお知らせ致しておりますようにISO 15189がようやく射程距離に入ってきました。財団法人日本適合性認定協会による昨年12月の予備審査、本年2月の4日間に及ぶ本審査(現地審査)が行なわれ、3月末に認定審査が予定されています。約1年間の予備調査と部内における勉強会、そして昨年4月のキックオフに始まる品質マニュアル、各種規定類、文書類の整備、そしてISOモードへの体制作りなど、あっという間の一年間であったように思います。検査部全部員参加の文書類の作成、業務不適合に対する是正予防、内部監査などまだ十分に機能していない部分もありますが、今後は部員一同の「組織力」を発揮し、克服して行こうと思います。今回の活動を通して、部員の意識が大いに変化したと考えています。
 また、3月は別れの季節でもあります。濱ア直孝部長がこの3月で退職されます。濱ア部長への感謝の念は検査部一同が退任記念誌で縷々述べさせて頂いているので省略しますが、「今日の検査」のさらなる充実と検査技術の向上、「明日の検査」の技術開発と医療への貢献を通してご恩に報いたいと考えています。
新年度からも引き続き「一歩前へ」の検査部で、全部員頑張りたいと思います。

宜しくお願いします。

■正しい検体の採取から検査部まで ‐その18■ 濱崎直孝(現:長崎国際大学薬学部)

輸血検査

1.患者と輸血用血液の確認

 輸血の際に生じる溶血反応は患者、または、輸血用検査検体の取り扱いが適切でなかったことが原因になっており、約60,000 回の輸血に1回の割合でミスマッチが起こっている。輸血の依頼伝票には患者の姓名、生年月日そしてできれば患者番号をきちんと書き入れることが先決である。輸血検査用に採血を行う時は必ず患者の姓名と生年月日を確認し、採血管のラベルが間違っていないか確認する。献血者の名前も記録しておく。

2. 輸血検査の正しいやり方

 血液型判定検査には血清を用いる。血漿では少量のフィブリンが凝集の判定を紛らわしくする。EDTA やクエン酸はカルシウムをキレートするために補体の活性化を抑制する。このような状況では、補体が活性化された状態でのみ陽性にでるある種の抗体が偽陰性になる。抗体で誘発される溶血反応に対する判定ができ難くなるので、溶血検体を検査に用いてはならない。ひどい火傷の患者などで溶血検体しか用いられないときは、遠心で集まる赤血球塊(RBC button)を正常と比較して判定する場合もある。

 受血者の検体の血液型検査は輸血予定時間より前の72時間以内に採血して行わなければならない。(特に、妊婦や3カ月以内に既に輸血を受けている患者)患者の血液型判定検査用検体は検査後、1週間は4〜6℃に保存しておく。寒冷凝集素用検査の検体は血清分離まで検体を37℃に保っておかなければならない。赤血球に結合している抗体の検査にはクエン酸血を用いる。in vivo で赤血球に結合する補体の検査にはEDTA血を用い、特別な血液型判定用検査にはクエン酸血を用いる。ワルトン膠質(Wharton's jelly) が混入している血液は自然凝集を起こすことがある。このような血球は生理的食塩水で洗浄し洗い流しておく必要がある。

 連銭形成は凝集検査の妨げになる。内因性要因でも外因性要因でも起こる。形質細胞腫、肝硬変、高フィブリノーゲン血症など蛋白質異常血症の患者では連銭形成が観察される。デキストラン、フィブリノーゲンまたはポリビニールピロリドンなどを点滴した後に採血すると凝集検査が正しくできない。

 過凝集とは血液型が適合してる血清で多くの赤血球が凝集する状態を称するが、菌血症、ウイルス血症などで過凝集を起こすし、外因性に検査用検体に細菌の混入があっても過凝集を起こす。菌血症で過凝集が起こるのは細菌由来の酵素が赤血球型抗原構造に変化を起こすからである。微生物由来のシアリダーゼでT-抗原凝集が、β-ガラクトシダーゼでTK-抗原凝集が、デアセチラーゼの作用で後天性β-抗原凝集が起こる。デアセチラーゼはA 型活性を示すα-N-アセチル-D-ガラクトサミン分子のアセル基を除去し、その産物のα-D-ガラクトサミンがB 型活性を示すα-D-ガラクトースに構造が類似して抗B血清と凝集反応を起こすことになる。多能性血液幹細胞での体細胞突然変異によるものや、先天性遺伝欠損が原因で起こる過凝集反応が微生物由来でない過凝集反応として知られている。

 すべての輸血検査は別々の二人の検査技師が独立して検査をし、お互いの検査結果および結果の解釈を照合するシステムを作っておく。

3. 輸血用血液の保存

 輸血用血液は温度の記録ができるアラーム付の専用ショーケース型冷蔵庫に保存する。温度の下限は3.5±0.5℃上限は5.5±0.5℃でアラームが働くようにセットしておく。ショーケース正面は水滴が付かぬよう、内部が見えるようにしておき、いつも、内部は清潔に保っておく。血液バッグを傷つけるようなものや試薬、検査済みのパイロットチューブなどと一緒に輸血用血液を保存してはならない。

4. 輸血を行う直前に確認すること

 輸血用血液を運び出すとき、また、輸血を始めようとする時は輸血バッグに記してある血液型などの情報や輸血依頼票に書いてあることをすべて確認する必要がある。輸血用血液のABO 型は輸血直前にベットサイドで再確認をすること。自己血輸血の場合は、輸血用血液と患者の血液型の両方を再度ベットサイドで確認する。輸血後に残った血液は少なくとも24時間は2〜8℃で保存しておく。

以上、今回は輸血検査について述べた。

ちょっと一息♪                      ペンネーム:白いかもめ
 検査部鉄分検査室よりM

《お引越し》

    ♪  春一番が掃除したてのサッシの窓に

       ほこりの渦を踊らせています

       机 本棚 運び出された荷物のあとは

       畳の色がそこだけ若いわ

                キャンディーズ<微笑がえし>  作詞・阿木燿子/作曲・穂口雄右

 

 当院も引越しの時期にあたっている。既に引越し済みの外科系に続いて、今春内科系が、新病棟の北棟への移転でてんやわんや。検査部も、外来棟に一部残留していた生理部門などが今回新病棟へ転居となった。

 今回の引越しは、同じ敷地内でのことであるが、馬出の現在地に落ち着くまでの前史は、少々煩雑である。

 淵源を辿ると、福岡藩が慶応3年(1867)にオランダ医学の教授の目的で開設した藩校賛生館に行き着く。明治初期一旦廃止となったのち、明治10年(1877)東中洲に福岡病院として復活した。途中組織替えを経た後、明治21年(1888)同所に県立福岡病院が開院した。明治29年(1896)県立福岡病院が、東中洲から当時筑紫郡千代村であった現在地に移転した。東中洲に今も残っていればよかったのにとくやしがる人も多いかもしれない。

 その当時の現在地一帯は、千代の松原と呼ばれる松原が広がっていた。江戸期には博多町人たちは、料理や食器を詰めた長持を担ぎ松原に幔幕を張り宴会を行う<幕出し>を楽しんでいた。放生会の時期、博多町人文化連盟が今でもこれを再現している。現在では松原だった面影が殆ど残っていないが、福岡市地下鉄が走るようになる前、市電が走っていた頃まではまだ面影が残っていた。附属図書館医学分館3階に、東病棟や西病棟が建設される前の<九州大学医学部全景 復原之図>の版画が飾られている。街の佇まいの変貌は速度をつけてきていることをこの版画からうかがえる。

 明治33年(1900)の第14帝国議会で、九州・東北帝国大学設置決議案が可決された。そこで、九州帝国大学を何処に設置するかで誘致合戦が繰り広げられた。県立福岡病院の存在が効いたのか、明治35年(1902)第16帝国議会で福岡医科大学必要経費が可決され、福岡設置に決した。

 明治36年(1903)4月1日京都帝国大学福岡医科大学が開校し、大森治豊・福岡県立病院長が初代の福岡医科大学長兼付属病院長に就任した。現在南棟が建っている場所にあった旧事務棟前に初代病院長の像が建っていた。現在は、移転して百年講堂の近くにある。春先には、紅白の梅花に囲まれている。

 同年9月14日福岡医科大学第1回入学宣誓式が行われ、9月16日に授業が開始された。

 明治44年(1911)1月1日に九州帝国大学と改称となった。

 現在地移転の際当時としては破格の広大な敷地の確保がなされていたことは先見の明であった。同じ構内で新病棟工事を空間のゆとりをもって行う事ができることに対して先人に感謝しなければならない。

 

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 先月2月18日19日両日、佐賀駅移転30周年記念の催しが佐賀駅で行われた。駅構内で往年の佐賀駅舎の写真展が行われたり、ミステリー列車の運行が行われた。移転と同じ年の生まれである地元J2・サガン鳥栖のMF村主博正選手が、佐賀駅の一日駅長を勤めた。

 病棟の引越しも大変な作業であるが、鉄道駅の移転も大掛かりなものである。

 明治24年(1891)8月20日開業の佐賀駅は、現在地よりも佐賀城方である南へ約200mに位置していた。木造平屋の駅舎であった。昭和51年(1976)2月19日に長崎本線電化に合わせて佐賀の都市交通体系の整備として駅舎移転高架化が行われたのだった。地上線の佐賀駅のところで線路が曲線になっていた。高架化で直線化し、市内の道路交通の障害になっていた地上線を持ち上げるという目的であった。

駅舎の移転では、線路の付け替え作業を行わなければならないが、2月18日深夜最終列車を通した後、大人海戦術で付け替え作業が開始された。持ち時間は、早朝の始発列車の走り出すまでの時間である。

旧駅舎前の駅前の通りを高架駅まで延ばすため、旧駅舎での営業が終わるや否や駅舎の瓦が剥ぎ取られ始めた。ブルドーザーとパワーショベルを用いて駅舎と地上ホームが解体され、午前中までに高架駅まで仮説道路が開通した。

 佐賀県内初の高架駅の営業がこうして始まったのだった。滞りなく日常通りに列車が運行できるように限られた時間で大引越し作戦が行われたのだった。開業時佐賀駅北側は、農地が広がっていた。現在では、ビルが林立し、移転の頃の雰囲気は分かりにくくなっている。

 

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 ところで鉄分高値の人々の関心を集めている引越しがもう一つある。

 旧万世橋駅に位置する鉄分の凝集した<聖地>である交通博物館が、5月14日を最終日として閉館になる。

 御茶ノ水駅と神田駅の間にあった万世橋駅は数奇な運命を辿った駅であった。万世橋駅は、中央線の東京側のターミナル駅として誕生した。

 中央線の前身は、甲武鉄道である。甲武鉄道は、明治22年(1889)4月に新宿―立川間に列車を走らせ、その後も着々と路線を伸ばしていった。明治37年(1904)12月末に御茶の水まで延伸した。万世橋まで延伸する予定であったが、鉄道国有化法により明治39年(1906)10月に甲武鉄道は国有化され、官鉄が引き継ぎ明治45年(1912)に万世橋駅が開業した。

 万世橋駅舎は、大正3年(1914)開業の東京駅舎を設計した辰野金吾・葛西万司が設計した。二階建て赤煉瓦造りの駅舎は当時としては、最大級のターミナルをなしていた。駅構内には食堂が出店し、芥川龍之介や菊池寛等の文人が集まるサロンとなっていた。

 大正12年(1923)の関東大震災で万世橋駅舎も壊滅的被害にあった。この時既に、東京駅が開業し、中央線東京―万世橋間も開通しており、ターミナルの役割を終えることとなった。2代目の万世橋駅舎は、初代の壮麗な駅舎から小ぶりの駅舎として復旧されるにとどまった。昭和7年(1932)、御茶ノ水―両国間がつながり総武本線が現行の形態になるとますます万世橋駅の比重は小さくなっていっていた。

 一方、交通博物館の前身の鉄道博物館は、大正10年(1921)10月14日鉄道開業50周年記念として、東京駅北側の高架下に開館した。当初から手狭であったが、この移転先として万世橋駅が選ばれた。万世橋駅舎の規模を縮小し、初代駅舎の基礎部分と高架下の空間を利用して鉄道博物館が建設された。昭和11年(1936)4月25日に開業となった。当時の最先端を行くインターナショナル様式の3階建てのモダンな建物である。

 戦時中の昭和18年(1943)10月31日限りでついに万世橋駅は営業中止となった。

東京大空襲で神田一帯は焦土と化したが、駅があった神田須田町界隈はそれを免れていた。戦後は、日本交通公社が鉄道博物館の運営を引き継ぎ新たに交通分野の総合博物館<交通文化博物館>として昭和21年(1946)1月25日に再開した。昭和23年(1948)に現在の<交通博物館>に改称となった。

 交通博物館の正面に建物から飛び出すようにして、機関車のD51 426と新幹線0系が設置されている。鉄分の高い子供たちはこれらの車両の胴体はいったいどうなっているのだろうと館内を探索するものの残念なことに頭の部分のみしかない。展示空間が限界であることを象徴している。

 国鉄分割民営化後は、JR東日本が交通博物館を運営している。残り少なくなった5月14日の閉館まで、現在様々な閉館記念の催しが行われている。目玉は、旧万世橋駅遺構特別公開。人数限定予約で公開を行っている。もちろん<さよなら交通博物館特別展>の<特別資料展示・交博秘蔵 乗り物模型蔵出し大公開>も開催されている。閉館記念のライトアップも行われ赤煉瓦の高架橋が浮かび上がっている。
 

平成19年(2007)10月14日鉄道の日に、JR東日本20周年記念事業としてさいたま市に鉄道博物館が開館予定である。大宮駅から埼玉新都市交通ニューシャトルで一駅の大成駅前に立地し、既に昨年11月10日に起工式が行われて建設が現在進められている。

 現在の交通博物館の約8倍の広さとなり実物車両の収蔵展示が充実することになる。実物車両35両が展示予定である。現行の交通博物館より更なる鉄分凝集の地となりそうである。

 交通博物館閉館後、収蔵品の引越しが行われることになる。車両も多数あり大変な引越し作業となりそうである。

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 ところで、鉄分検査室もこのたび引越しとなり、北病棟に移転となった。

 心機一転<精度管理>に励み、更なる鉄分検査の向上に努めISO獲得の予定。





* 「鉄分」高値とは、鉄道趣味の程度が高い事の意。

検査医学教室よりお別れの言葉です
金 秀日
「複数回膜貫通タンパク質の生合成と構造解析」をテーマにした大学院の勉強が終わりまもなく福岡を去ることになった今、僕の気持ちは将来に対する期待(少し不安も感じる)と5年間僕を育てていただいた濱崎先生とあらゆる方面で助けていただいた検査部の皆さんと別れる寂しさでいっぱいです。今までいろいろお世話になり本当にありがとうございました。新しい神奈川県の職場でも精一杯頑張ります。最後に皆さんのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。フットサルは残念でしたね。次回は若手を中心にぜひ優勝してください。神奈川から応援に行きます。旅費を出してくれれば、、、
山口 知宏

 およそ3年半という短い期間でしたが、検査部の方々は暖かい人ばかりで、とても充実した日々を送ることができました。検査部の皆さんにはいくら感謝してもしきれません。いろいろ経験させて頂き、多くのものを得ることができた一方で、どれだけ自分が検査部に貢献できたのかを考えると心苦しいのですが、ここでの経験を生かし、今後もっと飛躍できるよう精進したいと思います。本当にありがとうございました。

隈 博幸

 94年の5月頃から検査部に出入りするようになり、早や12年になります。当時、私は福大の修士の学生で、赴任間もない濱崎先生には生化学の実験を手取り足取り教えていただきました。ニコニコしながら楽しそうに研究の話をされる濱崎先生を見て、「いい先生だなあ」と思い、博士課程はこちらにお世話になることにしました。あの頃は先生曰く「お客さん扱い」だったことを後で身をもって知る訳ですが・・・。とにもかくにも、これからも先生とは長い(?)お付き合いになりそうです。しばらくはまた出入りさせていただくかも知れませんが、とりあえず一段落です。長い間お世話になりました。

感染制御のために(6)       検査部助手  内田勇二郎

感染症迅速診断のためのグラム染色の有用性と細菌検査室の活用法

 細菌検査の基本は培養法であるが、1〜数日、菌種によっては数週間を要することがある。現在、迅速検査で有用性が報告されているものに、肺炎球菌尿中抗原検査やレジオネラ尿中抗原検査などがある。しかし、菌種が限られているためその他の菌を疑うときには問題がある。グラム染色は古典的な検査法であるが、染色性の違いは細胞壁の構造の違いによるものであり、菌の性質の一つも同時に表していることになる。グラム染色で比較的鑑別が可能な菌の一部を表1に示す。喀痰の検査の際に重要なことの一つに可能な限り膿性痰をとる必要がある(表2)。当院において、2005年に肺炎球菌が分離された喀痰のグラム染色による診断率(表3)は、全体で32%であるが、M&J分類でP3に限ると52%と高くなる。これは唾液様喀痰であると口腔内常在菌が混ざることにより有意菌が見つけにくくなることによる。肺炎球菌性呼吸器感染症診断における陽性率は、グラム染色63%、尿中抗原65%であったとの報告もある。当院におけるインフルエンザ桿菌が分離された喀痰のグラム染色による診断率(表3)は、全体で21%、P3に限っても33%と肺炎球菌に比べると低い結果であった。グラム陰性菌はピンクに染まった塗沫の背景との区別がしにくいことや他のグラム陰性桿菌が同時に分離されると判断しにくくなることが原因と考えられる。しかし、臨床側からの患者情報(基礎疾患の有無、市中感染か否か,など)が入ることにより更に精度があがると考えられる。喀痰検査以外の検体もグラム染色が役に立つことがある。2005年に髄液の検体174例について、培養陽性検体13件におけるグラム染色の感度は38%であったが、特異度は100%、偽陽性率0%であった。化膿性髄膜炎の起炎菌は患者の年齢や危険因子により異なることも情報に入れると菌種の推定がある程度可能となると考えられる。膿の検体も培養は陰性であってもグラム染色で陽性になることもあり、そのようなときも治療の参考になると考えられる。 検査をする立場から言うと、確実な結果を報告しようとするために割と早い段階である程度結果がわかっていても再検・精査をした後で報告することがよくある。コンピュータ画面上では言えないようなニュアンスの結果もあるため、細菌検査室としても電話で仮報告することもある。臨床側からも積極的に当検査室に連絡をとってもらい、お互いの情報を交換することがより良くより早い診断へと繋がると期待している。

綿貫祐司, 他:肺炎球菌性呼吸器感染症迅速診断における尿中抗原検査と喀痰グラム染色検査の有用性.感染症学誌 2004; 79(1): 13-19. 第79巻 第1号
■外注検査のお知らせ■

濱ア直孝教授退任記念祝賀会のご案内

 検査部をぐいぐいと引っ張ってこられました濱ア直孝先生が3月31日を持ちましてご退任されます。

 永年のご指導に感謝の意を込めて、下記の通り「濱ア直孝教授退任記念講演会・祝賀会」が開催されます。 どうぞご参加下さいますよう御案内申しあげます。

            記

    期日: 平成十八年四月二十二日(土曜日) 午後三時

    会場: 西鉄グランドホテル(092-771-7171

    会費: 2万円

・ 濱ア教授退任記念「臨床化学セミナー」  午後3時〜6

(一)         「私とATP合成酵素の三十年」 吉田賢右先生 (東京工業大学教授)

(二)         「臨床検査領域での標準化」 菅野剛史先生 (浜松市医療公社理事長、前浜松医科大学教授)

(三)         九大13年在任の思い出   濱ア直孝先生

・ 濱ア教授退任記念「祝賀会」  午後6時〜9

 参加ご希望の方は

  検査部副技師長 服部 (PHS2423

  までご連絡ください

編 集 後 記
日本の3月は別れの季節です。それは当検査部とて例外ではありません。なかでも、検査部に新たな思考法を持ち込み、検査技師たちに意識革命を迫った濱崎部長の退任を迎える年度末となりました。そのほか、検査技師の下村、検査医学教室では助手の山口、大学院生の金、高崎、そして公式の身分こそ検査医学所属ではなかったけれど事実上最も長く検査医学に在籍した隈など、思い出を多く残して旅立っていきます。出会いは別れの始まりと言いますが、その逆もまた真であり、去っていく人たちはその行く先で新たな出会いを作り、残った我々もここでまた新たな出会いを迎えるはずであります。別れと出会いは人に対してだけ有るわけではないようです。本号鉄分検査室のテーマも引越しですが、現在検査部は北棟へ最後の引越しをしているところです。長年親しんだ部屋や仕事台との別れもそれなりに感傷的な気分にさせてくれます。新たな場所で新たな出発ができることを幸いに思うべきなのかもしれません。濱崎部長をはじめ本当に長い間ご苦労様でした。4月からの新しい歴史は、この29号が発刊された時には、文字通りもう目の前に迫っているはずです。                                  (康)