九州大学病院検査部  2007年4月20日
検 査 だ よ り
第32号

新年度を迎えて■     検査部部長  康 東天

 平成19年度4月1日より検査部長へ就任しました。昨年度より事実上検査部の運営に責任を持って来ていましたので、検査部の運営方針に特に変わることは何もありませんが、これも一つの区切りとして、気持ちを新たに検査部の一層の充実のために頑張って行きたいと思います。以前にこの検査だよりですでに述べたこともありますが、あらためて検査部が目指す方向性を列挙します。
(1)一層の精度管理の充実を通して世界で最も信頼性の高い検査を提供する。
(2)中央診療部門として各診療科にとって利便性の高い検査システムを構築する。
(3)病院が必要とする検査に対してトータルに責任を持つ。
(4)ICTやNSTのような全病院的な取り組みに検査の立場から積極的に貢献する。
 
 これらに加えて現在の経済的に厳しい医療環境の中、検査にもコストに対する意識を今以上に持たざるを得ません。無駄を省き効率のいい検査のために各診療科へ協力をお願いしなければならないこともあるかもしれません。
 もちろんそのような日常診療への貢献に加えて、大学病院の検査部である以上、高度で新しい検査の開発を通して、特に九州大学病院検査部は日本ならびに世界の臨床検査医学をリードする存在でなければならないという気概も持って励んで行きたいと考えています。今後ともよろしくお願い申し上げます。
 

検査の充実を目指して その8■     検査部技師長 栢森 裕三

 <第3者評価>

 今年は2月と3月で季節が入れ替わったような気候でしたが、ここに来てようやく水ぬるむ季節になりました。
 昨年はISO 15189取得に向け、検査部一同が組織・業務の見直しと改善、SOPをはじめとする文書類の整備など、組織活性化と検査技術の向上を推進した年でした。今年も年初めから2年目のサーベイランスがあり、2日間の審査を受けました。これは取得したISOがその組織で十分に機能しているか、の審査です。
 近年多くの企業で組織の透明性、法令遵守、顧客サービスなど、如何に顧客の側に立った分かりやすい活動を行っているかを提示することが求められています。従来、顧客(患者)サービスとはあまり縁のなかった医療の世界でも透明性に加え、サービスが必要になってきました。今年10月に実施される病院機能評価機構による審査も将にこの顧客(患者)サービスを目的とした取り組みであり、組織全体として第3者評価に耐え得る病院を目指し、組織運営を始めとした透明性の確保と開かれた「病院」が求められています。
 最近ニュース等で毎日と言って良いくらい企業・団体の不祥事が報道され、経営責任者がお詫びする姿を目にする機会が多くなっています。先の某洋菓子メーカーの製造段階において、期限切れ材料を使用した製品が売られていたという報道、近いところでは電力会社による制御棒脱落による臨界点隠しなど事件の重要性の多寡はあるにせよ、透明性や法令順守の欠落が大きな社会問題ともなっています。今の世の中は一つ間違いを犯すと、一流といわれるような企業体でも簡単に顧客の信頼を失い、大きなダメージを被ることもある時代です。危機管理を十分に行う必要があります。
 横道に反れてしまいましたが、ISOのサーベイランスに話を戻します。
今回の審査を通していくつかの点を指摘されましたが、取得を目指した初年度よりはすべての面で遥かに進歩していると思っています。個々の部員の業務改善、危機管理に対する意識が大きく変化してきていることです。今後は検査部全部員が意識することなく、自然にPDCAサイクルが実施できるように業務全般に渡り目配りしてもらいたいものです。それと同時に、検査データの信頼性向上のために「機器管理」も徹底し、引き続き顧客(患者)サービスに努めて行きたいと考えています。なお本日、無事継続審査に合格した旨の連絡が(財)日本適合性認定協会からあったことを付け加えさせて頂き
ます

正しい検体の採取から検査部まで ‐その22 ■  濱崎直孝(現:長崎国際大学薬学部)
 
九大病院検査部を辞して、はや、1年が経過しようとしています。早かった様でもあり、もう、随分昔の出来事と思える時もあります。検査部の皆様は、相変わらず、忙しく働いておられることでしょう。体には留意して頑張ってください。今回は第22回目の「正しい検体の採取から検査部まで」です。厚労省の新しい指針:メタボリックシンドローム健診で、検体採取からの手順が急にクローズアップされています。今回は血球検査について書いてみます。

血液検査用検体についての諸注意

抗凝固剤は何を用いるか?
 血球算定用検体はK2EDTA(EDTAカリウム塩)を抗凝固剤として採血することを国際血液標準化委員会(International Council for Standardization in Hematology: ICSH)は勧告している。ナトリウム塩ではなくカリウム塩を用いるのはカリウム塩の溶解度が高いからである。EDTA溶液中では赤血球は小さくなりヘマトクリットが変化する。しかし、二ナトリウム塩(Na2EDTA)や二カリウム塩(K2EDTA)はpHが低いので、赤血球は少し膨潤し、結果的にヘマトクリット値に変化がでない。三カリウム塩(K3EDTA) はpHが高いので膨潤の程度は小さい。電気的にヘマトクリットから平均赤血球容積(MCV)を算出すると、Na2EDTAやK2EDTA採血の赤血球では正しい値が出るが、K3EDTA採血の場合は正しい結果が出ない。血球の算出、サイズの測定、白血球の5分類分画などを自動分析する機器がいろいろと開発されているが、それぞれの機種について、どのEDTA溶液が適しているか検討して利用しなければいけない。
 血小板はEDTA中では円盤状から球形に変化するので、平均血小板容積(MPV)が正確に測定できない。白血球の種類によってEDTAに対する安定性が異なる。リンパ球は比較的安定で、好中球や単球はEDTAの影響を受けやすい。

抗凝固剤と血液の混合比
 EDTAの最終濃度が至適になるように量を調節して採血しなければならない。EDTAは好中球形態に影響を及ぼすので、抗凝固剤と採血量との混合比や採血してから塗抹標本を作製するまでの時間に注意を払わないと血液塗抹標本の品質は一定に保てない。血液1 ml あたりEDTA量が1.50 mg までであれば1時間は好中球の形態にほとんど変化は出ない。それよりEDTA量が多くなると、1時間以内でも、好中球核小葉間の橋が消失したり、細胞質境界が薄れたり、形態が崩れてしまったりする。EDTAが至適濃度より濃くなると遠心で測定するヘマトクリット値が小さくなる。その程度はK2EDTA(二カリウム塩)よりK3EDTA(三カリウム塩)の方が強い。しかしながら、自動血球分析機器に適した抗凝固剤を用いる必要がある。至適EDTA濃度を使用し採血から分析までの時間が1〜4時間ならば血球形態は変化しない。

採血と採血後の処理
 採血したら数回転倒混和して、抗凝固剤と血液とを充分に混ぜる必要がある。撹拌器の種類によって抗凝固剤と血液の混和の程度が違ってくる。また、採血管の容量に比し採血量が多すぎると混和が不充分になり結果にバラツキができる。

検体の運搬・保存・安定性
 いろんな分析機器や試薬があるのでEDTA採血検体は、いくら長くても6時間以内には分析を完了すべきである。上述のケースも含めて、場合によっては、6時間以内でも既に長すぎる保存のこともある。検査項目によっては冷却保存をした方が良いものもある。血球はいろんな条件で変化するので、血液塗抹標本は採血後1〜2時間で作製すべきである。採血後一日も検体を保存することはしてはならない。

EDTA 依存性偽血小板減少症
 EDTA採血では、時に、血小板が凝集塊を形成したり、好中球に吸着(血小板衛星現象:platelet satellism)が起こる。このような現象は採血後から検査までの時間が長くなると起こりやすくなる。この現象では血小板数が見かけ上減少し白血球数が上昇する。血小板衛星現象を起こしている患者の血小板数を測定するには、指先の穿刺血を生理的食塩水で希釈するか、クエン酸採血を用いて検査を行えばよい。

血小板因子測定の注意点
 血小板の生体内(in vivo)での活性化状態を調べるのに、血小板第4因子(PF4)、β-トロンボグロブリン、フィブロネクチンや血小板由来増殖因子(PDGF)などを検査する場合は、採血後に血小板を刺激することは極力避けねばならない。トロンボキサンA2 の産生を阻害し、または、血小板中 cAMP レベルを高く保っていれば、血小板の刺激を抑制することができる。特殊な添加溶液 CTAD(0.11 mol/l クエン酸、15 mmol/l テオフィリン、3.7 mmol/l アデノシン、0.198 mmol/l ディピリダモールを含む pH 5.0 の溶液)が血小板刺激を抑制する添加剤として用いられる。血液をCTAD 溶液中に採血すると、PF4 のレベルは通常のクエン酸採血の場合より10分の1以下になる。

 

感染制御のために(10) ■     検査部助手  内田勇二郎

これからも結核
   ~当院の結核菌分離状況について~
 
 結核は毎年約900万人の新患者が発生する世界最大級の感染症であり、アフリカ等ではHIV/エイズ合併患者の増加の影響を受けて増えつづけている。日本の結核罹患率は戦後著明に減少したが、1970年代後半以降、罹患率の減少の鈍化が起こり、90年代終わりに逆転上昇を示した後、再び減少している。近年の問題点に、既感染率が極めて低い20~30歳代の罹患率が上昇していることがある。また、日本は先進国で唯一HIV感染が増えて続けている国であり、今後、結核罹患に対する影響に注意が必要である。

 当院における過去3年間(2004年~2006年)の結核菌分離もしくは結核菌群PCR陽性症例(全49症例)の状況を示す。30代と70代を中心に二峰性の分布を示しているのは全国の状況と同じ傾向であるが、女性の占める割合は当院と全国でそれぞれ45%、35%と当院ではやや女性の割合が多い傾向が認められた(図1)。

結核症における肺外結核の割合は、当院で16件(33%)と全国(2005年)5664件/22655件(20%)に比べ肺外結核がやや多く認められた。肺外結核ではリンパ節結核が8件と最も多く男女比は1:3であった。その他の肺外結核として関節結核や腸結核などの症例が認められた。基礎疾患のある症例は28件(53%)で、しかも20-30代でも約半数に基礎疾患があり(図2)、大学病院としての一つの特徴といえるかもしれない。具体的には、悪性腫瘍関連(既往、治療中、ATL発症6ヶ月前)11件、糖尿病9件、慢性呼吸器疾患5件などがあった。免疫抑制剤使用中の症例数は少なかったが、ステロイド長期使用中4件(8%)、免疫抑制剤1件(2%)の症例があった(放射線治療中1件、化学療法中0件)。糖尿病治療通院中の難治性肺炎、別疾患でステロイド治療中の発症、結核症に関する症状はないがたまたま検査した胸部CTで発見された症例、滑膜肉腫として転院してきた関節結核など、入院時に結核症を疑っていないもしくは発症していない症例もあり、結核症の診断治療だけでなく感染管理に注意が必要である例も認められた。

 結核の診断では結核菌の分離培養が確定診断にはなるが、症例によっては充分な検体が取れないこともあり、病歴、画像診断などの総合的な診断が必要となる。クオンティフェロンTB-2Gは平成18年1月から保険適用となっており、当院では平成19年3月1日からオーダリングにて外注検査として検査可能となっている。有用性を指摘されているが注意する点もわかってきている(表1)

ちょっと一息♪                      ペンネーム:白いかもめ
 検査部鉄分検査室より⑰

島原半島周遊

1585(天正十三)年3月23日15歳前後の日本人の少年3人が、ローマの街をローマ法王の差し向けた護衛を引き連れ馬に乗って行進した。彼らは、ヴァチカンでローマ法王グレゴリウス13世に謁見した。もう一人の少年は、病気のため欠席していた。この時、織田信長が狩野永徳に描かせた<安土城之図屏風>が、彼らから法王に献上された。

彼らが、長崎を出港したのは、1582(天正十)年2月のことであった。マラッカ海峡、喜望峰を回りリスボンに入港したのだった。現在のように空路を使い簡単にヨーロッパへ行けるわけではなく、途中マカオで半年風待ちをしたりしての命がけの長旅であった。ローマ法王との謁見を終えリスボンから帰途につき、長崎へ戻ってきたのは、1590(天正十八)年7月のことである。13歳前後で長崎を発した少年たちは、21歳前後の青年となって長崎に戻ってきた。ルイス・フロイスの記録によると親でも我が子の顔の見分けがつかなくなるほどであった。

いわゆる天正遣欧少年使節と呼ばれる伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの4人の少年は、有馬のセミナリヨの生徒の中から選抜された。8年余の彼らのローマ往還の時期は、日本史の中でも激変期に当たっていた。長崎出港の数ヵ月後に本能寺の変が起こり、彼らが屏風をローマ法王に献上した時には、安土城は焼失していた。天正十三(1585)年豊臣秀吉が関白になり、天正十五(1587)年バテレン追放令が発布された。帰国後の彼らには各々数奇な運命が待ち構えていた。

柴田南雄が、彼らを題材にしたオペラ<忘れられた少年―天正遣欧少年使節>を作曲したりと少年使節が近年再認識されつつある。


 3月いっぱいで、西鉄宮地岳線西鉄新宮―津屋崎間、茨城県の鹿島鉄道、宮城県のくりはら田園鉄道の3線区が廃止となった。<鉄分>欠乏症状を呈する出来事であった。これに追い討ちをかけるように来年平成20(2008)年3月いっぱいで、島原鉄道島原外港―加津佐間35.5 kmの廃止の発表があった。

 博多から長崎へ向かう885系の<白いかもめ>に乗車し、鳥栖で鹿児島本線から分岐し長崎本線に入ると佐賀平野越しに車窓から雲仙の山塊を望むことができる。肥前山口を発車するとすぐ佐世保線が右へ分岐する。平野が尽き、有明海沿いに入り組んだ海岸線を南下すると今度は大きく有明海越しに雲仙の山塊が車窓に飛び込んでくる。広大な諫早干拓地が見えてくるとやがて諫早に到着する。この諫早駅でJR九州の車両とは異なる意匠の車両を見ることができる。それが、島原鉄道の車両である。諫早駅0番ホームで島原鉄道の列車は発着し、島原半島東海岸をぐるっと南端の加津佐まで時計回りに78.5 kmを海岸線に沿って駆け抜ける。

 島原鉄道は、明治44(1911)年6月20日本諫早―愛野村(現・愛野)間の開業で営業を開始し、その後路線を徐々に延伸し、大正2(1913)年9月24日大三東―島原湊(現・南島原)が開業し、諫早―島原湊間が全通した。一方、島原湊以南は大正11(1922)年4月22日口之津鉄道によって島原湊―堂崎間が開業し、徐々に南進し昭和3(1928)年3月1日南有馬―加津佐間が開業し島原湊―加津佐間が全通した。戦中の昭和18(1943)年7月1日島原鉄道が口之津鉄道を合併し現行の形態となった。

 ところで、明治44(1911)年の開業時に、明治5(1872)年10月14日の新橋―横浜間の日本初の鉄道営業運転の際走った1号機関車が島原鉄道を走った。昭和初年保存運動が起こり昭和5(1930)年諫早駅で盛大な見送りが行われ鉄道省に返還され、その後交通博物館に保存展示された。交通博物館の閉館後現在見ることはできないが、今秋10月14日開館予定の鉄道博物館で再び展示されることになっている。

 島原半島は、雲仙の山塊が海中から顔を出した地形である。諫早側で陸地に繋がっているだけで周囲は海に囲まれている。このため、車窓からもいろいろなところから雲仙の山塊を望むことができる。鹿児島本線からも博多から南下すると、荒尾から長洲にかけて有明海越しに望むことができる。更に南下して八代付近からも望むことができる。

 地質時代の雲仙は、400万年前に島原半島南端の早崎半島付近の噴火から始まったと考えられている。その後噴火活動の中心は、北上し現在のような山塊を形成した。<肥前国風土記>には、高木峰と記されている。寛文三(1663)年に噴火活動の記録がある。歴史上最大の被害は次の噴火活動のときに発生した。寛政三(1791)年末から有感地震が多発しはじめ普賢岳が噴火するようになった。寛政四(1792)年四月一日の強い地震で眉山の山体崩壊が引き起こされたのだった。島原鉄道の車窓から眉山を見ると山体崩壊の規模を実感できる。崩壊した山塊は一気に有明海へ向かって溺れるように滑り落ちてゆき、津波を発生させ対岸の肥後天草の海岸地帯を襲った。袋状になっている有明海で津波が反射し両岸を更に何度も襲った。犠牲者は1万5千人に達した。いわゆる「島原大変肥後迷惑」と称される大災害となったのである。

 その後約200年間静かにしていた雲仙が、平成2(1990)年11月17日噴火を開始した。その1年ほど前より橘湾で前駆的な群発地震が始まっていた。噴火開始から半年ほどは水蒸気爆発を繰り返し、次いで溶岩ドーム形成が始まり、数千回に及ぶ時速100 kmの速度で駆け下りる火砕流の発生をみた。平成7(1995)年2月ようやく溶岩噴出を停止した。堆積した火山灰は降雨期に土石流となり2次災害を引き起こした。雲仙岳で最も高かった標高1,259 mの普賢岳を上回る標高1,482.7 mの平成新山がこの活動で形成された。

 この火山活動で島原鉄道も大変な被害を被った。平成3(1991)年6月3日火砕流により南島原―布津間が半年間不通となった。平成4(1992)年3月15日土石流で島原外港―深江間が1ヶ月間不通となった。4月14日に復旧したのもつかの間、4月28日再び島原外港―深江間が不通となり、島原外港―深江間の高架化が平成9(1997)年4月1日に完成し5年ぶりに復旧した。現在島原―深江間に観光トロッコ列車が運行されている。生々しい火山活動の跡を展望できる。

 火砕流、土石流に耐えて復旧した島原鉄道が、乗降客の減少に歯止めがかからず、経営状態の悪い旧・口之津鉄道の区間、通称南目線を1年後に廃止することとなった。存続の方策が模索されているが、厳しい状況である。

 ところで、島原鉄道には車体に子守の図が描かれている車両がある。

           ♪ おどみゃ島原の おどみゃ島原のナシの木育ちよ何のナシやら 何のナシやら色気なしばよ しょうかいな
                  早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ

の歌詞の<島原の子守唄>は、島原鉄道常務を務めた宮崎康平が作詞したものでそれに因んだものである。


 明治40(1907)年7月下旬から8月下旬にかけて、30代の男に率いられ4人の学生が東京から西九州を巡る旅を行った。10日程遅れて東京二六新聞に、5人が交互に29回の連載紀行を寄稿した。「五足の靴」の旅である。与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は、平戸、長崎、天草、島原とキリシタンの歴史が濃密に染込んだ地を巡った。「五足の靴」の旅の年にはまだ島原鉄道は開通していず、彼らは、天草を周り牛深から海路三角経由で島原に上陸した。島原で一泊し再び海路で長洲に渡った。鉄道網ができる以前は海路が移動の日常手段であった。この旅の果実の一つは、白秋の処女詩集<邪宗門>である。

 諫早を出た島原鉄道の列車は、島原半島北岸を走る。高校サッカーで知られる国見高校は、半島北部に位置し、多比良駅が最寄駅である。横浜FC監督・高木琢也、FC東京・平山相太、ヴィッセル神戸・三浦淳宏、大久保嘉人をはじめ、博多の森球技場をホーム・スタジアムとするアビスパ福岡・中村北斗、城後寿等を輩出している。

 廃止予定の南目線沿線は、特にキリシタンの歴史が濃密な地域である。とろりとした有明海を車窓から眺めながら列車は、半島東岸を南下して行く。

 有家駅は、南島原駅以南では唯一の有人駅である。文禄四(1595)年から2年間足らずの間、有家セミナリヨが設けられていた。

 北有馬駅は、キリシタン大名有馬氏の居城・日野江城跡最寄駅である。天正八(1580)年この城下に日本初の有馬セミナリヨが設けられた。天正遣欧少年使節の4人が学んでいたセミナリヨである。全寮制で約7年の教育を行っていた。 

 時間割は、朝から夜まできっちりと決められ毎日1時間音楽の時間も設けられていた。西欧音楽の組織的教育が日本で初めて行われていた。ポルトガルのエヴォラの大司教に謁見した際伊東マンショと千々石ミゲルは、大司教教会の備え付けの現存する三段鍵盤のオルガンを弾いた。音楽教育の水準をうかがわせる。

 天正遣欧少年使節の帰国の翌年、彼らは洋服を着て日本巡察使ヴァリ二ャーノに伴われて聚楽第で秀吉に謁見している。この時持ち帰った西欧の楽器で演奏を行っている。秀吉は興を示し、3回もアンコールを求めた。演奏された曲の記録は残っていないが、音楽史家の皆川達夫は、ジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ」が演奏されたのだろうと推定している。この時代、西欧の人々の耳にも、ベートーベンやモーツァルトばかりではなく、バッハの音さえもまだ体験されてはいなかった。ルネサンス音楽の時代であった。グレゴリオ聖歌が歌われていた。江戸期を通じて平戸市の生月島の人々は口伝で現在まで「歌おらしょ」として歌いついでいる。

 北有馬駅から更に進むと原城駅に至る。その駅名の通り原城址最寄り駅である。江戸期初期、末期を除くと最大の内戦が行われたところである。天草・島原一揆軍が、寛永十四(1638)年十二月三日から翌年の二月二十八日まで88日間原城に籠城した。堀田善衛は、<海鳴りの底から>という小説でこの顛末を描いている。「サンチャゴ!」という一揆軍のときの声が、印象的な小説である。

 更に南下すると口之津駅に至る。有馬義貞が、永禄五(1562)年に口之津港を開いた。宣教師の派遣を求め、ルイス・デ・アルメイダが派遣され教会が建設され、島原での布教活動が始まった。彼は、ポルトガル国王から外科医免許状を与えられた医師でもあった。弘治三(1557)年大友宗麟より土地をもらい府内(現・大分)に外科、内科、ハンセン氏科からなる病院を建設した。彼は、府内で日本で初めて西欧の外科術を行った。大分県庁前の遊歩公園に南蛮医術発祥記念の彫刻が設置されている。大分市医師会立病院がアルメイダ病院と称するのは、それを顕彰したものである。

 口之津は、巡察使ヴァリ二ャーノが上陸した地でもある。口之津で宣教師会議を開きそこで、セミナリヨとコレッジオの設置が決定した。

 明治期には、口之津は三池炭鉱の石炭を外洋へ積み出す中継港として栄えた。有明海内奥の大牟田は遠浅で大型船が接岸できなかったためである。明治42(1909)年の團琢磨による三池港の開港でその役目を終えた。その余香として、全国に5校ある海員養成のための学校の一つである国立口之津海上技術学校がある。

 口之津駅から二つ目の駅が終点の加津佐駅である。コレジオは日本に一つだけであったが、点々と移動し、天正十八(1590)年に加津佐に一年間コレジオが設置された。天正遣欧少年使節が持ち帰ったものの一つが、活版印刷機である。その印刷機により印刷されたいわゆる「天草本」と呼ばれる印刷物の最初のものは、加津佐コレジオで印刷されたものである。

 「天草本」は、50種以上存在する。そのうち、<日葡辞書>や<平家物語>等が良く知られている。長崎コレジオで慶長十(1605)年印刷された<サカラメンタ提要>は、典礼等を記したものだが、この中に二色刷りで19曲のグレゴリオ聖歌の楽譜が印刷されている。日本初の印刷楽譜である。

 島原半島の南には天草の島々が点在している。辻邦生は、<天草の雅歌>という作品で江戸初期のこの地域の雰囲気を恋愛小説の形で描いている。それは、<邪宗門>に収められている<天艸雅歌>に遠く木霊している。


 ところで<安土城乃図屏風>は、行方不明である。天正遣欧少年使節についての大著<クアトロ・ラガッツィ>を著した美術史家・若桑みどりを団長とする安土町の<安土城乃図屏風>調査団は、その行方を求めてヴァチカンで調査にあたったが、発見することはできなかった。今年2月の記者会見によると、献上後少なくとも7年間はヴァチカン宮殿内の展示室「地図の画廊」に置かれていたことが確認された由。

(暦については、陰暦は漢数字、陽暦はアラビア数字で表記した。)


■お知らせ■

外注検査項目変更のお知らせ
2007年3月1日より結核菌感染診断用検査QFT-2G(クォンティフェロンTB-2G:結核菌特異蛋白遊離インターフェロン)を外注検査として追加しました。12時間以内に前処理が必要な項目です。14時までに検査部に提出をお願いします。
    中分類:免疫検査
    測定方法:EIA法
    基準範囲:陰性
    採取容器:緑栓(ヘパリン加血)10mL
    所要日数:5日


IGFBP-3(インシュリン様成長因子結合蛋白-3)は測定法RIA固相法が中止となり、RIA2抗体法となっています。
    中分類:ホルモン検査
    測定方法:RIA2抗体法
    基準範囲:年齢別カタログ参照
    採取容器:茶栓 
    所要日数:3~9日


ジストロフィン遺伝子解析は、MLPA法で保険適用項目です。症状があり、デュシェンヌ型筋ジストロフィー、ベッカー型筋ジストロフィーを疑う患者に対して、診断の目的で行った場合に限り、患者一人につき1回に限り算定できます。
    中分類:遺伝子検査
    測定方法:MLPA法
    基準範囲:欠失を認めない
    採取容器:緑栓(ヘパリン加血)5mL 又は紫栓(EDTA加血)5mL
    所要日数:8~21日


遺伝子再構成は昨年4月より保険適用になった項目で、サザンブロット法がオーダー可能でしたがPCR法もオーダー可能となりました。
    中分類:遺伝子検査
    測定方法:PCR法
    基準範囲:再構成を認めない
    採取容器:全血:緑栓(ヘパリン加血)5mL 又は紫栓(EDTA加血)5mL
           骨髄液:保存剤入り容器
           リンパ節:滅菌容器 
    所要日数:6~10日

●2007年4月1日よりIAP(免疫抑制酸性蛋白)が、試薬製造中止のため受託中止となります。
代わりの検査としては、腫瘍マーカーのCEA(癌胎児性抗原)、TPA(組織ポリペプチド抗原:保険適用外)、SLX(シアリルLeX-i抗原)、炎症性の指標にはCRPがあります。

                                                                                       文責:豊福(PHS:2425)

検査申し込みについてのお知らせ
平日(月曜から金曜)通常項目の依頼受け付け時間    8301500
時間外(夜間休日) 時間外検査項目          24時間対応

現在、3時以降の依頼できない項目については翌日の依頼をたてて当日検査をするという対応をしておりましたが、電子カルテ化に向けてそのような対応はできなくなります。時間外検査項目以外で検査が必要となった場合、検査部まで連絡をお願いします。
5月1日より当日検査可能な項目は検査部入力を、当日不可能な検査項目は後日改めてオーダーできる時間帯に検査オーダーしていただきます。 外注検査は午後3時以降にオーダーできませんが、当日提出が必須のものがあります。
当日に検体の提出が必須となる項目は、検査予定がわかった時点でラベルの準備をしておいてください。3時を過ぎると依頼ができません。
4月19日付けで検査通報を送ります。詳細についてはそちらをご覧ください。以上よろしくお願いいたします。

                                                             文責:服部          問い合わせ連絡先 TEL 5771

細菌検査室より 
インフルエンザウイルス抗原検査は専用綿棒(鼻腔ぬぐい液用)で採取しましょう!
他の綿棒では偽陰性の可能性も考えられ、検査結果が保証できません。


血液検査室より
新規オーダー(CBC&機器分類)について(2007年1月19日より開始)
 
分析機による白血球分類結果がすぐに参照できます。

分析機による分類で鏡検の必要がなかったものに関してはコメントなしで結果が送信されます。
分析機による分類で鏡検の必要があるものに関しては「鏡検中」のコメントとともに一時的に分析機の結果が送信されます。
鏡検後は「鏡検済」のコメントが入ります。

ただし、分析機は正常5分類以外の細胞(異型リンパ球、幼若顆粒球等)の分類はできません。鏡検後、異常細胞を含んだ分類結果が送信されます。
また、スキャッタグラムの異常による分類不能は結果欄に「0」が入ることもあり、分析機の結果(鏡検中)と目視結果(鏡検済) の報告値が乖離します。
夜間休日のオーダーは従来どおりです。夜間休日は鏡検を行っていませんので、分析機の結果がそのまま送信されます。

■5年間の勉強を終えて■     中国からの留学生  李 春燕

 臨床検査医学講座の大学院生として5年間お世話になりました。
私の研究テーマは、「LC/ESI-MSを用いたペプチドマッピングによるヒト赤血球膜タンパク質バンド3のメチオニン残基の酸化部位の同定」で、前任の濱崎教授ならびに康教授の指導を受け、無事学位を取得できました。この場を借りて、研究を含め、あらゆる面で御世話になりました臨床検査医学講座の皆様に深く感謝致します。4月からは、中国吉林省の北華大学附属病院に戻って臨床の仕事に就きます。私は中国に帰っても日本で習ったものを生かして日中両国の技術の交流と促進のために力を尽くしたいと思います。来年は、北京オリンピックがあります。また、中国に来たら美味しい餃子、石焼いも、トウモロコシ、稣餅(お菓子)、煎粉などいろんな本場の庶民の味を味わうことができます。みなさんもぜひ学会や旅行で中国に遊びに来てください。

第1回サーベイランス審査を受けて(ISO 15189)■
  認定取得後… ~より良いサービス提供のために~

 昨年、3月に当検査部はISO15189を取得して認定臨床検査室となりました。取得後も弛みなく継続的改善に努め、今年2月には始めてのサーベイランス審査をうけました。(2月14、15日)
 2日間のシステム審査およびブラインド検体の測定を行う技術審査の結果、NC(不適合)を5つ、RM(注記)1つの指摘を頂きました。第3者の客観的な指摘は的確ですぐに改善に繋げることができました。
検査部は今後もこのシステムを運用して質の高い検査サービスを提供できるように努力してまいります。            
                                                             文責:江頭

■平成18年度検査部歓送迎会 ■






3月29日ホテルレガロ福岡において、検査部歓送迎会が行われました。
検査部に長年勤められた小柳さく代さん、藤井フサ子さん、臨床検査医学講座の大学院生として5年間研究された李 春燕さんを送り出しました。
新人を4名迎えましたが、紹介は次号に掲載しますのでお楽しみに。


■編 集 後 記■
 新年度がまた始まりました。
 3月31日で西鉄宮地岳線新宮―津屋崎間が廃止となり、4月1日より貝塚線と線名が改称されました。改称初日は、新線ではないものの各駅や各列車に職員が出て安全確認を実施していました。人命を預かる旅客業の安全確認です。検査業務もまた人命を預かる病院の一翼を担っています。
 昨年取得のISO15189の第1回目のサーベイランスがあり、改善点を指摘されましたが、それらを改善し無事合格しました。
 一年前は、生理部門の引越しの時期でしたが、今回は引越し作業もなく日常業務が円滑に進められています。新年度より康検査部長就任となりそのもとで、日々新たな気持ちで安全確認を怠りなく遂行していくよう心がけていきたいと考えています。今年度もよろしくお願いします。
 ところで、今回の<鉄分検査室>で紹介の「五足の靴」の一行は、九州入りして最初に福岡に一泊しています。中洲の有名な鰻屋の近くの川丈旅館に投宿しました。川丈旅館の前にひっそりと「五足の靴」の文学碑が佇んでいます。文学碑には、
      旅籠屋の 名を川丈と いひしこと
            ふとおもひ出て むかし恋しむ 
という吉井勇の歌が刻まれています。何かの折に足を運んでみてはいかがでしょうか。          (原)