九州大学医学部附属病院検査部                        2003年1月15日
検 査 だ よ り

第20号

■新年明けましておめでとうございます■

検査部部長  濱崎 直孝
 新年あけましておめでとうございます。またまた、新しい年の始まりです。振り返ってみると、平成14年は九大病院検査部にとっては、受賞の年といっても良いかもしれません。大きいものとしては黒住医学振興財団小島三郎記念技術賞を木下技師長が受賞されました。これは、血栓症の病因解析が評価されたもので、津田(博子)講師、服部主任からはじまり、飯田副技師長、中原主任で確立し、その後、検査部の仕事として多くの皆さんで協力して行っているものの成果です。可能ならば、検査部の全員が表彰されるべきものですが、なかなかそうもいかず、技師長が代表して受賞されたわけです。比較が大き過ぎますが、ノーベル物理学賞受賞の小柴教授も日本が国を挙げて行った研究の成果の代表として受賞されたわけで、こちらはノーベル賞と比較すると、価値も規模も小さい受賞ですが、そのケースと類似性が高いものです。木下技師長の統率力、飯田副技師長の結果を纏め整理する能力への評価です。お蔭で検査部の半数の人々が(まだ、時間が不足で全員がとはいえませんが)いろいろな技術を経験し身に付けることができ、それぞれの努力で"明日の検査"を導入することができる可能性を持つようになってます。確かに、検査部内に新しい息吹を感じることができます。九大病院検査部は"明日の検査"を行う可能性が高い検査技術集団に成長したことは事実です。
 次の受賞は堺雄三主任の日本臨床生理学会論文奨励賞です。これも比較が大き過ぎますがノーベル化学賞受賞の田中耕一さんのケースに似ております。組織の中で与えられた仕事を黙々と自分ができる範囲の知恵を絞り、一方で、"遊び心"をもって行い、ある時、ひょっと浮かんだ"ひらめき"を検証し、まとめて論文にした成果です。堺主任が受賞した論文のタイトルは「頭皮上脳波による難治性側頭葉てんかんのてんかん原性域の診断」です。これは脳波を測定する手法を工夫して「てんかん発症原因部位の同定」を行ったものです。素晴らしい仕事です。自分の技術に自信を持ち"ひらめき"を検証し、論文にまとめあげる力の成果です。余談ですが、「てんかん原性域」ではなく、「てんかん源性域」ではないかと個人的には思いますが、「原性域」なのだそうです。
 さらに、平成14年10月に京都の国際会議場で開催された第18回国際臨床化学会総会(総会長:宮井潔阪大名誉教授)では井上須美子技師、栗原正子主任がエクセレントポスター賞に木下技師長がアジアA賞を受賞されました。この学会は3年に一度開催される臨床化学に関する国際学会で国際臨床化学会創立50周年目にアジアで初めて開催された記念すべき学会です。
 このように、九大病院検査部で地道に続けている努力が少しづつ評価されつつあります。雑音が多い今日この頃ですが、我々は、揺るぎの無い信念を持って、さらに努力をして新しい検査法や診断法を開発し、人類の福祉に貢献する大学病院検査部の本来の仕事を平成15年も続けてゆきましょう。

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■正しい検体の採取から検査部までーその10■        ( 濱崎直孝 )

 平成15年最初の「正しい検体の採取から検査部まで」です。このセクションを読んで頂いている九大病院の検査部以外の方々はどのくらいおられるか知りたいものです。手をあげて下さい。
今回は、特殊な検体についてです。
■髄液の検査■
<穿刺部位や採取量>

 髄液と血清は一対として検査診断に用いられるので、髄液と血清はできるだけ同時に採取すべきである。髄液の採取は腰椎穿刺で行うことが多いが 脳室、後頭下やシャントから採取することもある。穿刺部位をよく消毒し矢状線上(saggital)で軽く上方に角度を付けて穿刺する。

 髄液の採取量は患者の症状次第であるけれど、成人の場合、髄液は急速に補充されるので(500 ml/日)あまり神経質にならなくてよい。特に、癌細胞を検索する場合はできるだけたくさんの髄液を採取する必要がある(成人の30 ml まではよい)。髄液は頭痛を避けるために細い穿刺針を用いてできるだけ時間をかけて採取する。

髄液採取に当たっての注意点

 患者には絶食をさせ横向きに寝せ膝を曲げ穿刺部をのばし、筋肉の緊張を出来るだけ和らげるようにしておく。採取時間や処置は記録に残しておく。また、どのような治療が行われているかの記録も検査結果の判定に重要な意味を持つ(細菌性髄膜炎など)。空中からの微生物の混入を防ぐために、採取後の髄液は滅菌した密封容器に入れ運搬する。細胞診用の検体には EDTA やフッ素などの添加物を用いてはならない。採取後は注意深く穿刺針を抜き穿刺部位には絆創膏を貼る。患者は少なくとも30分は俯けにして寝せ穿刺部位から髄液が漏出しないようにする。

<髄液の保存と運搬>

 一番大切なことは、採取後できるだけ早く検査室へ髄液を運ぶことである。髄液は細胞を痛めるので室温に長く保存してはいけない。氷中で約3時間程度までが限界である。細胞診用の髄液は専用の遠心分離器で遠心分離(180×g,20分間)し、細胞分画を検査室へ運んだ方がよい。このような処理をした検体は室温で4〜6日、アセトン固定した検体は -70℃で3カ月から12カ月安定である。

その他の注意点

●髄液を複数本に分けて採取する場合、濃度勾配を考慮すべきである(アルブミンやIgG など)。それぞれの検体の  組成を均一にするには、一本の容器に採取して充分撹拌して分注するとよい。
●タルク粉がついた手袋を細胞診用の髄液穿刺に用いてはいけない。
●6,000 cell/μl 程度までの白血球数ならば、室温で3時間までは髄液中の乳酸濃度は変化しない。
●髄液を凍らせて保存する場合、-20℃ではなく-70℃以下で保存した方がよい。-20℃で6カ月以上保存すると、骨髄腫蛋 白質(M蛋白)は徐々に消失し始める。
(以上)

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第18回 国際臨床化学会議 in Kyoto 学会見聞録
検査部副技師長 栢 森 裕 三

 2002年10月20日〜10月25日に開催された本学会(ICCC, International Congress of Clinical Chemistry)は3年ごとに開催される臨床化学研究の中でも最も権威ある世界的な学会の一つである。今年の学会は、IFCC (International  Federation of Clinical Chemistry and Laboratory Medicine) の50回大会の記念すべき会でもあり、そして第42回日本臨床化学会年会をも兼ねた会であった。会場となった京都国際会議場は北山の麓にあり、開催日当日は生憎の雨の肌寒い一日で、本来ならば紅葉が美しい場所ではあるが今年は少し季節が遅いようであった。
 参加総数4,800名弱と前回のイタリア・フィレンツェでの参加数とそれ程見劣りはせず、大会組織委員会関係者の参加勧誘努力と学会内容によるところが大きかったのではないだろうか。それにアジアで初めての開催であるため、アジア各国からの参加者を各種の賞を設けて積極的に受け入れる努力を払ったことにもよると思う。
会議の内容は多岐にわたるため詳細はプログラムおよび抄録集を参照して頂くとして、個人的に興味をもった内容をいくつか挙げる。
1. N. Rifai The role of hs-CRP in the primary prevention of coronary heart disease.
"Clinical Chemistry" 誌上で発表され、世界的に注目を集めたDr. Rifaiの講演。
低濃度域でのCRP濃度変動と冠動脈疾患の危険因子の一つとしての意義を述べた。

2. F. Ceriotti Standardization of triglycerides measurement.
ラウンドテーブルディスカッションでのプレゼンテーションで、CDCの中性脂肪測定法のDesignated Comparison Method (指定比較法:測定体系からすると実用基準法の下に位置する)を現在設定していることを報告した。

 この他、学会前日に行われたサテライトミーティングがあり、濱ア部長のオーガナイズによる "Pre-Analytical Phase on the Quality of Laboratory Results" は日頃分析のみに注意を向けがちなデータの正確性に対して、分析以前に注意すべき内容について真摯な討論が行われた。もう一つのサテライトミーティングとして京都府立医科大学図書会館で開催された「第5回中日臨床検査技術シンポジウム」は、臨床検査技術を通して日中友好を図ることを目的に始まった会であり、昨年までは北京の中日友好病院で開催されていた。今年はICCCが日本で開催されることに合わせて初めて日本で開催され、中国各地から約180名の臨床検査関係の参加者が出席した。発表内容は多岐に渡っていたが、いずれの場合も中国における検査技術の進歩の目覚しさを感じさせるものがあり、遺伝子検査など先端の技術や精度管理・標準化の内容が報告された。

 何年も前から計画された今回の国際学会であったが、日本で開催された意義は大変大きいものがある。日本の検査技術は世界的に見ても高いものがあり、年々日本の検査関係者の英語論文数は増えている。若い人たちもこれからは国際学会に打って出る気概が必要である。そのためには日々考え、日々行うことが大切である。「継続は力なり」の言葉を痛感した今回の学会でした。

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■新人紹介■

青木義政  (化学検査室)
 10月よりお世話になっている青木義政です。
 平成6年に信州大学医療短大を卒業後、信州大学病院に2年間勤務し、生化学、免疫血清検査に従事しました。それからこの9月までは平成7年に開院した長野市民病院に7年半勤務し、検体検査部門の責任者として種々の業務に従事しました。また、開院したばかりの検査室であったため、運営を確立するために尽力してきました。さらに、本年度は長野県技師会の臨床化学研究班長の任に就き、さまざまな活動を行って参りました。
 これまで臨床検査技師としての大半以上を信州で過ごしてきましたが、元々の出身は佐賀県東松浦郡肥前町で、高校時代は福岡市西区で寮生活をしておりました。10数年ぶりの九州での生活ですが、食文化や気候などの違いに未だ戸惑っております。とりあえず、これから雪にまつわる苦労が無くなることが幸いです。
 今後の抱負としては、民間病院での経験を活かしながら、大学病院の検査部に寄与していきたいと考えております。どうぞよろしくお願いいたします。
Worawan Chumpia   (遺伝子検査室)
               Birth Date:1967-06-05     Country:Thailand
 I completed my B.Sc.(Medical Technology) in University of Khon Kaen and M.Sc.(Clinical Pathology) in University Mahidol, Bangkok Thailand. I got a scholarship of Thai Goverment to study a Ph.D program of Medical Technology in University of Mahidol, Bangkok Thailand. The title of my researchis The Molecular Mechanism of Thrombosis in Thalassemia.The supervisor of my research is Professor Suthat Fucharoen. He is a famous researcher of thalassemia in Thailand. He contacted to Professor Dr. Hamasaki and sent me to train some parts involved Protein C , S sequencing and others. I came to Japan on 21st October 2002 and will stay in Japan until 31st August 2003. I am proud to get the opportunity to work in Clinical Laboratories.I would like to give special thanks to Professor.Dr.Hamasaki and all staffs in Clinical Laboratories keep me warm and friendful. Thank you

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■アメリカ留学記(1) 隈 博幸■

 平成7年より4年間、大学院生として検査部にお世話になりました。大学院修了後すぐにアメリカに留学し、今春、無事に帰国したわけですが、3年間の異国での暮らしぶりを少しだけご紹介させていただきます。
 私の留学先は、アメリカ合衆国中南部、アーカンソー州の州都リトルロックというところでした。ご存知の方はほとんどいらっしゃらないと思いますが、地理的には西はテキサス州と隣接し、東はミシシッピ川でテネシー、ミシシッピ州と隔てられています。同州出身の有名人としては、クリントン前大統領、マッカーサー元帥などがいます。総面積は日本の約4分の1、人口200万人の田舎州でした。
 引越ししてまずやらなければならなかったことは、アパートの契約と銀行口座の開設、そしてSSN(ソーシャルセキュリティ番号)の取得でした。が、これらは教室のボスとアメリカ人の大学院生が手伝ってくれたので、スムーズに終わりました。その後クルマを買って、セットアップ完了です。想像していたより、ずっと楽でした。
 研究室はボスと私のほか、インド人のポスドクが1人、アメリカ人の大学院生が2人、テクニシャン1人と比較的こじんまりとしたところでした。研究テーマは大学院時代からやっていたことと大差なく、研究室全体が同じ蛋白質を扱っていたので、すんなりと仲間に入っていく事ができました。
 新生活が始まってというもの、平日はアパートと大学の往復、休日は家事と一週間分の買い物、この繰り返しでした。暇を見つけては街を探検していましたが、特に面白いものもなく、結局1ドル映画館かゴルフに行っていました。ゴルフはプレイフィーが5〜20ドルと日本より相当安く、周りに娯楽施設がほとんどないこともあって、日本人や韓国人留学生の多くがゴルフに興じていたように思います。肝心のスコアのほうも、アメリカを去る頃にはかなり良くなっていました。
 振り返ってみると、アメリカでの田舎暮らしは日本に比べずいぶんとのんびりしていたように思います。家でゆっくりと過ごした時間や、仲間たちとの週末ごとのバーベキュー、ほとんど自然のままのコースで走り回ったゴルフなど、今となっては考えられない時間の使い方だったと思います。一生のうち、一度くらいはこんな体験も楽しいものです。

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★お知らせコーナー★
〜いよいよ引越しです!!〜
       
     検査部の大部分が南棟2階へ引っ越します。
     期日は
2003年3月21日〜23日です。
     生理部門の一部は現病院に残ります。

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♪ちょっと一息♪
 検査部鉄分検査室よりD ペンネーム白いかもめ

《世界最古の海底鉄道トンネル》
 昨年平成14年(2002)12月1日、東北新幹線盛岡-八戸間96.6 kmが開業した。この新線区間の内72%にあたる69.2 kmはトンネルである。車窓風景を楽しめる区間が少なくなっている。22.2 kmの上越新幹線大清水トンネルやノルウェーの24.5 kmのラウダ−ルトンネル(道路)を抜いて、沼宮内-二戸間の岩手一戸トンネルは25.8 km と陸上トンネルでは世界最長のトンネルである。東京-八戸間を最速列車は、2時間56分で駆抜ける。首都圏と北東北の時間距離が大きく短縮された。
 二点間を線路が結ぶ際、障害がなければ直線で結べば最短路線となるが、この間に山や川が横たわっていたりするとトンネルや橋梁を必要とする。明治大正期に開業した古い線区はトンネルを掘ることが困難だったため、トンネルを避けたり、避けれない場合は迂回してトンネル区間をなるべく短くするという設計になっている。
 例えば、全線開業時東海道本線は熱海・三島を走っていなかった。明治5年(1872)新橋-横浜間開業後、明治22年(1889)新橋-神戸間が全通したが、この時は新橋を発車した列車は国府津(こうづ)からは現在の御殿場線に入り沼津に抜けていた。明治29年(1896)初めて新橋-神戸間に急行列車が走り17時間29分を要した。国府津-沼津間を短絡するため大正7年(1918)3月21日丹那トンネルが起工し、昭和9年(1934)12月1日開通し、この時から現行の熱海・三島経由の東海道本線となった。特別急行《燕》は、丹那トンネル開通前より23分短縮し東京-神戸間を8時間37分で駆け抜けた。この開通により東京府圏の人々にとって熱海が身近なものとなった。
 《戦艦武蔵》や《ふぉん・しいほるとの娘》等の小説で知られる吉村 昭が、この丹那トンネルの工事を題材とした小説《闇を裂く道》を執筆している。この小説は、鉄分増加効果絶大。丹那トンネルの工事は、16年の工期と67人の犠牲者を出す難工事であった。《プロジェクトX》で涙腺の緩む人は、この小説でも涙腺が緩むかもしれない。一説では、テーマ曲である中島みゆきの《地上の星》を聴いただけでこうした人は、目がウルウルしてくるらしい。
 昨年平成14年(2002)11月15日関門鉄道トンネルが還暦を迎えた。これを祝って下関駅では《下関鉄道まつり》と称した催しが行われた。下関駅では、関門トンネルの開通時の写真やブルートレインのヘッドマークの数々が展示された。また現役最古の昭和初期製の電車が、小野田線本山支線雀田-本山間2.5 kmを走っているが、この電車が特別に下関-幡生(はたぶ)間を4往復した。地元ではこうしたささやかな祝賀の催しが行われたもののマスコミの扱いは小さなもので在来線の社会的地位の低落を象徴して鉄分高値の人には寂しいものがあった。国鉄から地域分割民営会社になる際、JR九州とJR西日本の境は、関門トンネルと下関駅の間にあり車窓からよく注意すると境界標識を目撃する事ができる。すなわち、関門トンネルは丸ごとJR九州の管理であるが、残念な事に門司側では還暦の大きな催しは行われず、関門トンネル・ウオークが参加人数限定で行われたぐらいであった。
 明治34年(1901)12月15日山陽鉄道神戸-馬関(下関)間全通。博多から延びた線路が門司(現門司港)まで繋がったのは明治24年(1891)4月1日であった。九州と本州を分かつ関門海峡で線路は途切れていた。そのためこの間に関門連絡船が運行されていた。関門間を行き交う人々は、列車を降り歩いて連絡船桟橋まで行き連絡船に乗船し対岸に着いて、また歩いて列車に乗継いでいた。重い荷物がある時には大変であった。また貨物輸送も手間がかかった。貨車から貨物を降ろし船に積替え対岸についてまた貨物を貨車に載せるという作業を要した。これに関しては荷を積載した貨車をそのまま船に載せて運ぶ航送輸送が明治44年(1911)に開始された。
 こうした事を背景として世界初の海底トンネル関門トンネルの計画が登場してきた。当初は、橋梁案とトンネル案とが検討されたが、トンネル案に固まっていった。尚この着想は、明治29年(1896)博多商業会議所が既に提案していた。New YorkのEast  River 水底トンネルのシールド工法をアメリカ留学で学んできた鐵道省の平井喜久松が中心となり大正8年(1919)より現地調査を開始した。昭和11年(1936)9月19日門司側の小森江で起工式が行われた。単線並列約3.6 kmの関門トンネルは、まず下り線が昭和17年(1942)6月10日から貨物列車の運行を開始し、同年11月15日旅客列車の運行が開始された。上り線は、昭和19年(1944)8年8日に使用開始となり複線運転となった。下関から門司方に向かって、普通工法、シールド工法、圧気工法、潜函工法、開削工法と五つの工法が用いられた。丹那トンネルの経験に磨きがかけられ、当時のトンネル技術の粋が結集されている。現場で各工法の繋ぎ目を見ると工法による壁面の差異が明瞭にわかり、20名の犠牲者を出して開通した苦労をまざまざと思い起こさせてくれる。
この関門トンネルの開通により昭和17年(1942)11月15日ダイヤ改正が行われ、東京発下関行き特別急行《富士》が長崎行きとなり、記念すべき関門トンネル通過の一番列車として駆抜けた。関門トンネル開通に伴い、旧門司駅は門司港駅と改称され、大里駅が門司駅に改称された。
 鉄分高値の方なら御存知の宮脇俊三の数々の名著の一つに《時刻表昭和史》がある。この本の中で最も印象的なのは、昭和20年(1945)8月15日の記述であるが、昭和19年(1944)関門トンネルを走破した記載がある。戦時中の鉄道事情を知る事ができる。
 関門トンネルの開通による利便性は多大なものがあり、ブルートレイン全盛期には切符を手に入れるのは大変困難であった。昭和50年(1975)3月10日の新幹線博多開業で主役は《ひかり》となり、在来線の関門トンネルは脇役となり新関門トンネルに席を譲った。
 関門連絡船は、意外にも昭和39年(1964)10月31日に廃止となった。関門の人々には連絡船の利便性があったからであり、現在も関門渡船が下関唐戸と門司港の間を所要時間5分で結んでいる。門司出身の《全東洋街道》や《東京漂流》で知られる藤原新也の写真集《少年の海》に関門が写し撮られている。その中にも渡船の写真がある。
 門司港地区は、近年門司港レトロとして人気を集めている。関門トンネルの開通後交通の結節点の重要性を失い、また戦後の航空路の発達で遠洋航路も衰退しエアー・ポケットのようになっていた。泡沫経済による都市改造も免れ戦前の門司の繁栄を伝える建築群が点ではなく面として温存されていたのが幸運であった。門司での食事には、「焼きカレー」がお勧めである。40年程前から門司ではお馴染みの料理で、カレーライスの上にチーズと玉子を載せオーブンで焼いたもので、なかなか香ばしくて美味である。
 門司港レトロを巡り関門渡船に乗り海峡からの関門橋をながめ、下関唐戸に渡り、桟橋そばにある平成13年(2001)4月1日開業の水族館《海響館》でシロナガスクジラの骨格標本を見る経路はお薦め。ノルウェーのトロムソ博物館所有の1880年代ノルウェー沖で捕獲された体長26 mのシロナガスクジラの骨格標本を貸与されたものである。日本国内ではシロナガスクジラの骨格標本は、ここだけである。かつて下関は、南氷洋捕鯨の母港の一つとして知られていた。横浜ベイスターズの前身の大洋ホエールズは下関に本拠地があった。ホエールズとは、もちろん捕鯨基地に因んだものである。
 また、オペラ・ファンなら藤原義江の生家は見逃せない。現在《藤原義江記念館》として一般公開されている。彼は、明治31年(1898)下関に生まれた。テナー歌手として知られ、藤原歌劇団の創設者でもある。地元の作家の古川 薫の小説《漂泊のアリア》に彼の生涯が描かれている。
 下関でもう一人取り上げたい人物がいる。往年の大女優田中絹代は、明治42年(1909)下関市丸山町に生まれ、幼年期を下関で過ごしている。19歳の時、小津安二郎の《大学は出たけれど》(昭和4年;1929)に出演し清純派女優の座を確立した。尚、小津安二郎は今年生誕百周年を迎える。これに因んで各地で各種の企画が予定されている。2月のBerlin映画祭、4月の香港映画祭、10月のNew York映画祭で回顧上映が企画されている。また、東京京橋の国立近代美術館フィルムセンターでは、全54作品中現存する37作品の上映が11月から始まる。もちろん全国各地で映画祭が催される模様である。19歳の田中絹代に合えるかもしれない。昭和8年(1933)には、 彼女は川端康成原作の《伊豆の踊子》のヒロインを勤めた。その後この役を、吉永小百合や山口百恵、松田聖子が演じている。昭和13年(1938)の《愛染かつら》に主演し、戦前の大ヒット作となった。戦後では、溝口健二の《西鶴一代女》(昭和27年;1952)、《雨月物語》(昭和28年;1953)、《山椒大夫》(昭和29年;1954)等に出演した。14歳で映画界入りして亡くなるまで約250本の映画に出演し、6本の監督作品を残した。

 ところで、昨年末下関市は火の山ロープウェイを今年3月いっぱいで休業すると発表した。再開されずこのまま廃止になる可能性大であり、ついでに火の山まで足を伸ばすのも一興。武蔵と小次郎の舞台となった巌流島や平家と源氏の合戦の場となった壇の浦を一望でき、重層した歴史のある空間を体感できる。その海峡の下に現在、関門鉄道トンネル、関門国道トンネル、関門人道トンネル、新関門トンネルが走っている。海峡の上には、関門橋が架かっている。鉄分増加の期待できる観光コースである。

海峡を繋ぐトンネルの嚆矢となった関門トンネルの技術は、昭和63年(1988)3月13日開通の青函トンネルへと引継がれている。これにより、九州、本州、北海道が、鉄路で繋がった。また、同年4月9日の瀬戸大橋線開業により本州と四国が鉄路で結ばれ、四島が鉄路で全て繋がった。

 

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新年明けましておめでとうございます
外注検査システムを導入します
検査部技師長  木下 幸子
 2003年の幕開けとなりました。皆様におかれましては、輝かしい年の初めをお迎えのことと存じます。厳しい世情に変わりはありませんが、お正月を迎えて区切りがつき、新たな気持ちに希望が湧き、さらなる1年の発展と無病息災を願う新春であります。
 本年は、検査部にとって一大イベントが待っており、
3月下旬の3連休(21日〜23日)に検体検査部門が南棟に移転いたします。目下新しい検査部門システムの構築に日夜取組んでいるところです。南棟では、血液凝固検査、血液検査、生化学的検査、免疫検査を1室に集め、合理化して、外注検査項目数上位の項目を院内検査にする予定です。また、4月頃から、外注検査は検査部扱いとなり、検体は検査部に提出して頂くことになります。オーダーを保険内、保険外もすべて院内LANの端末に入力して頂きますと検査部システムに入り、検査部では、そのオーダーに従い検体を前処理して一括して外注業者に渡します。結果は検査部システムに入力いたしますので、診療科では、院内検査の結果と同様に院内LANの端末で参照できるようになります。
 現検査部は、忙しい時の形容に、猫の手も借りたいほど忙しいと申しますが、全くそのような状況です。
 皆様には、検査関連のシステムが落着く6月ごろまで御迷惑をおかけすることがあるやもしれませんが、検査部一丸となって対応いたしますので、御寛容のほどをお願い申しあげます。
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■編 集 後 記 ■
 
 新年あけましておめでとうございます。濱崎部長が就任して10周年、今年1月から11年目へ入ることとなりました。去年は検査部の長年の未来指向の取り組みがいろいろな形で評価を受けた年でもありました。栢森副技師長の学会見聞録の最後に継続は力なりとの言葉がありますが、新しいことを目指すとすぐには結果が出ない(あるいは認められない?)との意味であろうとも思います。個々人の蓄積も重要であるし、検査部組織としてみた場合は過半のメンバーのレベルが上がって来ないと検査部も変わったとは見えて来ないとのことでしょう。一面の濱崎部長の挨拶文の中にあるように"検査部の半数の人々がいろいろの技術を経験し身につけることができ"たことは、今後検査部が病院内で通常検査と新しい検査をさらにうまく融合し回転させるための担保となるものだと思っています。user friendlyでfuture orientedな検査部としてさらに飛躍できるよう努力したいと思います。 今年もよろしくお願いいたします。                                                   ( 康 )