【暑い夏の暑過ぎる日々(2007年9月7日)】

  夜,家で飲むのもビールからワインに切り替えようかというこの頃である.夏が暑いのは当たり前だが,今年の夏は滅法暑かった.
  僕は月曜日に多発性硬化症 (multiple sclerosis, MS) の専門再来をしている.7月の最後の月曜日にいつも使っている診察室に入ってみると,暑い.クーラーが全く効いていない.ガーという大きな音はするものの温風しか出てこない.ここはそもそも36平方メートルの処置室の一角を区切って,外来診察室としたものである.20年前MS再来を始めた頃,外来患者さんを診察する部屋が足りなくて,元は看護師さんがちょっと休憩をするような区切られたスペースであったものを外来診察室に転用した.当時は一番下っ端の教員であったから,この一番隅の部屋でMSの診療を始めた.
  この部屋には全館式のクーラーが一つしか付いておらず,しかもこのクーラーが外来棟開設以来の年代もので,極めて効きが悪い.それでもクーラーから出てくる風に手をかざすと,多少とも冷たいような気がするので,毎年暑い思いを我慢してきた.だが,今年はあまりの暑さのせいか,なんと温かい風しか出てこない.この部屋はもともと処置室なので冷凍冷蔵庫があり,その熱がこもって朝行くとムーッとする.窓もないので,こもる熱気を逃すこともできない.ここから外来看護師のいる予診室に行くと個別のクーラーが取り付けられているので別世界のように涼しい.
  その日は暑さをこらえて19人患者さんを診たが,この夏の暑さはこれではとうてい乗り切れないであろうと思った.大学病院は学生が夏季休暇の間は,医師も交代 (神経内科では3週交代) で診療業務を休むことが多い (もっとも診療・教育業務は休むが研究業務は継続しているので,大学に出てこないのではなくて,この間に日ごろ遅れがちの研究業務をさばいているのである).8月は交代で外来診療を休む時期にあたっていたが,とうていクーラーの壊れたこの部屋では交代のものも診療ができまいと思われたので,病院の施設管理係にクーラーの修理を頼んだ.外来看護師長も上申書を出してくれるということだったので,すぐに何とかなるだろうと思った.

  ところが3週間後に再来に出ると相変わらず暑いままである.修理に手間取っているのだろうと思って,この日は我慢して15人診る.その2週後 (最初からすると5週間後) に再来診療に出てみると,やっぱりクーラーからは温かい風しか出てこない.もう夏も終わってしまうではないか.いったいどうなっているのかとの思いを胸に再来診療を続ける.この日は患者さんが多く,昼食もとらずにMS再来を21人続けて診ていると汗だくになる.腹は減るやら暑いやらで,頭もろくに働かない.
  診療を終えて外来看護師長に電話で状況を問い合わせると,上申書を出すのに3週間かかったという.なんでそんなに時間がかかるのか理解できない.訳を聞くと,室温が何度まであがるか,クーラーが壊れたままで2週間測定したという.30度を越えることを確認したというのである.さらに施設管理係に電話で問い合わせると上申書を受け取って2週間ホッタラカシである.

  神経内科の診察は,ただすわって聴診器をあてるようなものではない.MS再来で一番大事なのは徒手筋力検査である.これは運動能力の低下が日常生活動作 (activities of daily living, ADL) の低下に直結するからである.再来の診察時間は限られているので,次から次に四肢の筋力検査をする.これは要するに患者と医師が力比べをするわけだから,これをひっきりなしにやると猛烈に汗をかく.MS患者さん20人余りみるのに,だいたい6時間かかる (これはMSという病気が良くなったり悪くなったりして症状が安定していないため時間がかかることによる).朝の9時半から午後3時半くらいまで食事も休憩もとらずにひっきりなしに筋トレをやっているようなものである.これを30度の部屋でネクタイを締めてやるのだから暑いのは当たり前である.2週間かけて室温が30度にあがるのを確認してからどうこうしよう,とかいう話でないのは明白である.処置室で2時間くらいも点滴を受けている患者さんもいるのにこのままはないと思う.大学病院で医師として働くということは,一面でこの手合いの国家公務員組織を相手にしながら働くということなのである (大学病院は図体が大きく時間がかかりがちなので,大学病院の医師もこのような対応にならないよう注意する必要はあり,医師以外の職種も大多数は熱心に働いていると僕は思うが).


  クールビズが叫ばれるようになって,夏場はネクタイを締めない臨床系の教授もなかにはいる.だが,僕は大学病院の医師は,救急以外は患者さんを診るときはネクタイをきちんと締めて身だしなみに気をつけた方がよいと思っている.いきおい暑いのは避けられない.神経内科は30床あるので,回診も5時間ばかり徒手筋力検査を繰り返していると本当に汗をかく.初代の黒岩先生,二代目の後藤先生の時代から神経内科では,回診のときには看護師長さんが気をきかして一部屋回るごとに冷たいおしぼりを用意してくれていた.これは流れ落ちる汗を拭かないと患者さんの体に汗が落ちてしまうので,それを防ぐ意味もあった.新病棟に移ってからは,このようなこともなくなった.黒岩先生,後藤先生の時代は,平均在院日数も今の3倍くらい長かったから,もっとゆっくり回診もできていたと思うが,今は3倍の速さでベッドが回転しているから回診もじっくりとはやりにくくなった.今は昔である.時代は変わる.

  国立大学も独立行政法人化して,大学病院の収益がやかましく言われるようになった.世界中で出版される論文数は年々増加している一方で,日本では国立大学の独立行政法人化以降,大学の臨床医学教室からの論文数が約10%も減少したということである.この間,世界では様々な分野の論文数は7%増加しているのに,である.つまり差し引き17%は日本の臨床教室からの論文数が,世界に比較し相対的に減ったということである.これは独立行政法人化で大学の臨床の医師は仕事量が大幅に増加した一方で,大学病院の研修医が減り,ひいては医師数全体が減ったため,残った皆が猛烈に忙しくなったことによる.過労死の基準は月80時間以上の超過勤務ということだが,僕は今でも月に100時間くらいは超過勤務している.実験を自分でしていた頃だと,月に120〜140時間くらいは常に超過勤務していた.大学病院の教員はたいがい月に100時間くらいは超過勤務していると思う.加えて大学病院は,講師以下はみな当直業務が入るが,当直あけに代休など取れている医師は実質的にはほとんどいない.この頃はとても研究をしたり論文を書いたりする暇はないというのが実情であろう.

  九大病院はこの11月から段階的に電子カルテ化される予定である.そうなると医師が入力する項目は大幅に増え,格段に医師の事務的作業量が増す.検査実施した項目なんかを皆医師が自分で入力するのだから事務方の手間は減るはずで,その分で医師の労力を軽減する方向に人員を動かしてほしいと願うが,全くそういう方向に話が進んでいないのはどうしたわけかと思う.大学病院の医師はだいたい朝から晩まで長時間当たり前のように働いている.これ以上仕事量が増えるようなら,医師の定員数を増やすか,サポートするコメディカルやクラークを増やすかしない限り早晩破綻する.

  米国のクリントン前大統領政権で,日本が低コストで世界でも最高水準の医療を実現しているのを見習うために調査したところ,日本の医療は医師の自己犠牲的・献身的な医療でもっているので,参考にならなかったという話しを読んだことがある.我が国は超高齢社会で医療需要が増える一方で,女性医師が増加し育児などで医業を中断する場合が多くなっているので,先進諸国のなかでは圧倒的に医師数が足りない群に入る.したがって,日本全体の医学部の定員数を増やすしかないのは自明のことである.厚生労働省,総務省,文部科学省の3省合同の地域医療に関する関係省庁連絡会議 (8月30日開催) で,医学部の定員数に関して,医師養成総数が80人未満の県 (和歌山県) や入学定員が80人未満の大学 (横浜市大) では08年度から20人の増員,および09年度から各都道府県で各5人,北海道で15人の増員を容認することで合意に達したそうである.焼け石に水のような感もあるが,何もやらないよりはましである.ただ働ける医師数が増えてくるまでは相当に時間がかかるから,それまでの間は,医師の拠点病院への集約化と役割分担化は不可避であろう (大学病院にも勝ち組・負け組みが出るのは避けられない).

  処置室を区切ったような外来診察室で20年間MS再来をやって,この暑い部屋から50編を越えるMSに関連した臨床の英文論文を出した.条件は必ずしも恵まれていなくても,患者さんに学ぶことはできる.汗をかきつつ徒手筋力検査を続けよう.

  この夏の結論:九州地区では,神経内科の診察室にはクーラーは必需品である.