軽井沢でアバラを折る:専門医と学位の間で (平成24年10月31日)】


 軽井沢で、僕はアバラ骨を2本折った。生まれて初めて骨折に見舞われて、それはそれは痛かった。

 軽井沢には日本神経免疫学会の第24回学術大会で行った。宿泊先のホテルから学会場のホテルへの移動は、人が歩くのよりも遅いくらいのスピードしか出ない小型のバスである。学会二日目の朝、これに乗った。会場のあるホテルに到着したというアナウンスがあって、丁度止まるというところで立ち上がったとたんに、バスが大きくガクンと揺れた。バランスを崩して、目の前の金属製の支柱にガツンと右胸をぶつけてしまった。もう息もできないくらいに痛くて、立ち上がれない。だいたい人が歩く速度と同じくらいにしか進んでいないバスが急停車するとは、想像だにしないから、これは運転ミスに違いない。すぐにでも病院に行きたかったけれど、当日は総会で理事長に選任されるため出席が不可欠だった。学会初日は、学術大会をなんとか盛り上げようと久しぶりに積極的に質問をしたけれど、二日目は座って息しているのがやっと。

 折も折、ヨネカワ君が午後の口演発表の肥厚性硬膜炎の全国調査の統計処理を今頃になって相談にくる。なんでこんな時にと思うが、やっとのことで応じる。お昼の総会が終わったら、今度は東京で開かれる日本内科学会理事会に行かねばならない。理事会が終わって軽井沢に帰りつくと、バイエルさんのやっているMSワークショップのレセプションの時間になっている。もうこの時間になったら軽井沢の病院には当直の小児科の先生しかいないということである。これで診断書が決まってしまうので、ここはやはり我慢して翌日整形外科の先生に診てもらおう。

 フロントの人が痛み止めの湿布をくれたので、それを貼って、一晩中、我慢した。大きく息をしても前かがみになっても痛い。咳をしたり笑ったりすると、とたんにズキッとくる。ベッドに横になると右下に寝ても真上を向いて寝ても痛い。翌朝、MSワークショップに1時間ほど出て、とにかく福岡に戻って九大病院で整形外科の当直の先生に診てもらうことにした。

 胸写(胸部単純X線)を見ると、僕でもわかるくらいに肋骨が折れてずれている。当直の先生は、第7、8肋骨が折れていますねとあっさりと言う。肋骨骨折の治療といっても、サラシ(1100円のバストバンド)を胸に巻くだけという。あとはロキソニン(鎮痛薬)を飲むしかない。そうすると、僕の肋骨はずれたままつながるのを待つだけか。サラシを巻くと胸の動きが制限されるので、痛みはずいぶんと和らいだ。でもサラシを巻いていると、すぐに汗が出てきて胸からお腹にかけてアセモだらけに。サラシを巻くとアセモで痒い、サラシをはずすと動けば痛い。痛みをとるか痒みをとるか、どうしたものか。

 アバラを折って3日目には、もう再来で患者さんを診ないといけない。神経内科で必須の徒手筋力検査では、患者さんが入れる力と同じくらいの力を診察医も出さないといけないので、いきおい腹筋に力が入る。筋力テストで一つの筋肉の力を調べる度に、折れたアバラがズッキンと痛む。アキレス腱反射をみようと前かがみになると、それだけでグッと痛みがくる。アバラを折ると、神経学的診察はやってはいれないことを僕は初めて知った。おまけに痛くてジョギングもできないからブヨブヨと腹は太る一方で、サラシで締めているとお腹が圧迫されてすぐウンチに行きたくなる。軽井沢プリンスホテルの人に、神経内科医としての診療に重大な差し障りがあるとか言っても、クレーマーとしか受け取られないだろうなあ。神経内科医がどんなことやっているか、一般にはあまり知られていないのは、こんな目にあうととりわけ残念である。

 神経免疫学会の前の週には、実はPACTRIMSで北京に行っていて、こちらは対日暴動騒ぎで、注意を呼びかけるメールが配信されてきて本当に心配した。ホテルのフロントの人には街を出歩くときは、韓国人のふりをするようにアドバイスされた。幸い、暴動がひどくなる直前の日曜の朝に北京空港を発ったので無事に戻って来ることができたのに、平和な軽井沢に思わぬ落とし穴があった。

 ところでそのPACTRIMSでは、以前九大神経内科に留学していた、北京大のLiuさん、台湾大のSuさん、江西医学院の呉先生、張さん、インドネシアのリワンティーさんなどにお会いできて、本当によかった(写真1〜4)。

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図1. インドネシアのリワンティーさんと再会を喜ぶ。(クリックで拡大)

図2
図2. 江西医学院の呉教授、張教授、若手の女医さんと。政治ではなにかと緊張があっても、民間レベルでは仲よく交流したいものである。中国人の女医さんは本当にアクティブ。(クリックで拡大)

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図3. 佐藤君の口演発表。発表後に質問している座長は、以前うちに留学していた北京大学のLiu先生。佐藤君は的確に回答。ところで、北京大学の人はとても優秀だが、北京市内の人が北京大学に入学するより、北京市以外の人が北京大学に入学することの方がはるかに難しいとのこと。北京市出身の人は200点ほどもゲタをはかせてもらえるらしい(点数は正確かどうかはクエスチョンマークだが、北京市以外の人はそれだけハンディがあると聞く)。(クリックで拡大)

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図4. 米川君も無事に発表を終える。いつになったら論文ができるものか、待ちわびている。(クリックで拡大)

 PACTRIMS終了後に、万里の長城に、留学生の崔さんと宋さんが連れて行ってくれた。渋滞で2時間近くもチャーターした大型タクシーでかかった。先ごろ、北京では大雨で洪水があったということだが、滞在中は、秋晴れの澄んだ空がすがすがしい日が続いた。ただ、その分、乾燥していて、ほこりっぽい。柳の葉もしぼ萎えて、泥をかぶっているように見える。一雨ふるとみずみずしい緑になるのだろうが。

 万里の長城では、右側の北城に行く側はcableと書いてあって、左側の南城に行く方はhero(英雄)と書いてあったので、南城のheroの方を選ぶことに。あとで南城側からみると、北城の方はスロープが長く延々と坂を上り続けるようで、ケーブルでの昇降ができるようだ。南城側は傾斜が急で、これはケーブルが動いていないので歩くしかない。heroコースというのもうなずける(図5〜10)。

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図5. 南城側の出発点で。このときはまだ皆元気。(クリックで拡大)

図6
図6. 南城の上からさらに延々と続く長城を遠望する。(クリックで拡大)

図7
図7. 北城側は延々と続く坂道を皆がテクテクと登っている。(クリックで拡大)

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図8. 南城側は傾斜がきつい。(クリックで拡大)

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図9. この坂をシコシコ汗をかきながら登る。先頭の私も疲労困憊。(クリックで拡大)

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図10. 南城側を登ったあとで。僕はよれよれ。崔さんは、途中で脱落。(クリックで拡大)

 その夜は、宋さんと崔さんが、北京ダックの起源店、全聚徳(ゼンシュトク)に連れて行ってくれた(図11〜20)。北京ダックの発祥の店があるというのにビックリ。ここは、海部首相、小沢征爾など有名人の来店時の写真も壁に掲げられている名門店で、創業は1864年ということである。ここの北京ダックは、個別に番号が付けられており、私たちが丸ごといただいたのは、477787番目であった。ここでは、北京ダックの心臓というのを初めて食べた。焼き鳥のハツ(心臓)と同じような感じで、とても地元の燕京ビールによくあう。ここはさすがに名門店だけあって、ビールもよく冷えていておいしい。北京ダックは皮に油がのって本当に美味。一昨日の店でspecial one duckが138元だったのとは大違いである。北京ダックの骨のトリガラスープもおいしかった。

図11
図11. 対日暴動のなか、日本人だけではとても行けないような路地を抜けていく。(クリックで拡大)

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図12. ここが北京ダックの起源店として有名な全聚徳。僕は今回まで北京ダックの発祥の店があるということを全く知らなかったので、感激。(クリックで拡大)

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図13. 僕らは、崔さん・宋さんが2階の特別室を予約してくれていて、そちらで円卓を囲む。ビールは地元の燕京ピジャン。(クリックで拡大)

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図14. 前菜も色とりどり。皿にまで起源店と書かれている。(クリックで拡大)

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図15. 目の前で番号付の北京ダックをさばいてくれる。(クリックで拡大)

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図16. 北京ダック起源店で、北京ダックのフルコースを堪能。(クリックで拡大)

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図17. 北京ダックを腹いっぱい食べた後に、ステージの前で記念写真。会食する円卓の前には、ステージがしつらえられていて、演芸が行われる。部屋はとにかく金ぴか。明日、結婚式がここであるということで、店の人が飾りつけをしている。ここでする披露宴は、さぞかしリッチだろうと想像。(クリックで拡大)

図18
図18. 歴代の料理人の銅像の前でも記念写真。(クリックで拡大)

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図19. アラファト議長も食べに来ていたと判明。記念に一枚。(クリックで拡大)

図20
図20. 夜も更けて長城から北京ダック起源店まで、楽しい一日も終わり。このときは対日暴動にも巻き込まれずに無事にPACTRIMSが終わり、皆それぞれにいい仕事ができて気持ちがよし。1週間後に平和な日本でアバラ骨を折るとは、このときは夢にも思っていない。(クリックで拡大)

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