【年の瀬に:バラ・デ・ティジュカのちょっとした奇跡 (平成24年11月30日〜12月28日)】


 サンパウロは、人口1200万人という南米一の巨大都市である。海抜760メートルの高地にあって、意外にも坂の多い街だった。こちらに来る飛行機の窓から見ると、海岸から急に陸地が数百メートルも立ち上がって高地になり、しばらく飛ぶとそこがサンパウロだった。サンパウロでは、アガパンサスの薄紫の花が風に揺れている。ジャカランダの紫の花はもう終わりがけのようである。僕はいつのころからか紫色の花のファンである。

 リオには、10数年前九大神経内科のお呼びしたことのあるレジナ・アルバレンガ教授(リオデジャネイロ大)が、第7回Latin American Committee for Treatment and Research in Multiple Sclerosis (LACTRIMS)を会長として主催するので、ぜひ招待講演に来てほしいということでやってきた。アルバレンガさんは、自分が旅費を出して招待するのだから、サンパウロ大には行くなというメールを直前にくれた。ゴドイさんはもう20年ほど前に九大に留学していて僕が研究指導した古くからの友人なのでということでどうにか勘弁してもらったが、来てみてわかったのは、サンパウロ大とリオデジャネイロ大との間で競争が厳しいのである。日本でいったら、東大と京大で喧嘩をやっているような感じである。

 サンパウロ大はさすがに立派な大学だった(図9)。ここでは医学部は異なる地域に別々の独立したスクールが二つあるという(第1医学部と第2医学部という感じ)。ゴドイさんは第2医学部の卒業である。今はサンパウロ州立大の教授をしていて、九大で一緒に仕事をしていたときはMSをやっていたが、帰国したときにサンパウロ大では、九大に斡旋してくれたカレガロ教授のところのポジションが既に埋まっており、やむなく筋ジストロフィー症の臨床研究でポジションを得て今に至っている。今は、ブラジルの筋ジストロフィーの治験(リードスルー化合物など)を主導している存在である。

 サンパウロで一番おいしいブラジル伝統のFeijoda(フィジオダ)を食べられるというSuginho(スジーニョ)で昼食をごちそうになった(図10)。これは、豚肉にビーンを入れて煮込んだものがツボに入って出てくる。これをライスにかけて食べるのである。ブラジルの南部にはpaddy field(水田)が広がっていて米が栽培されている。ただ、これは日本のとは違う粒の長く粘り気のないパサパサしたやつである。これによく煮込んだ豚肉入りのフィジオダのドロリとした汁をかけて食べると実に旨い。ただ、これもブラジルのバーベキューと同じでとても塩辛いのでビールが進む。ビールはよく冷えていておいしい。ビール中瓶1本が6~7レアル(4ドル)ほどである。物価は、日本よりは多少は安いかもしれないが、それでもサンパウロやリオに住むのはexpensiveである(図11~18)。

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図9. サンパウロ大学法学部。ここはブラジルで最難関の大学学部。(クリックで拡大)

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図10. フィジオダ。このツボに入っているどろりとした豚肉入りの汁をごはんにかけて食べる。(クリックで拡大)

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図11. サンパウロ市内には、その年の税金納入額がリアルタイムで表示されている。(クリックで拡大)

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図12. カテドラル・メトロポリターナ大聖堂。僕が肘をついているのは、マルコゼロというサンパウロの起点を示す柱。ここがゼロ点。(クリックで拡大)

図13
図13. 大聖堂の前には、南国らしいパームツリーの並木道。(クリックで拡大)

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図14. アルティーノ・アトランティスビル。高さ161メートル。1949年完成。35階建ての真っ白なビル。この屋上が展望台になっている。(クリックで拡大)

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図15. アルティノ・アトランティスビルの展望台から見たカテドラル・メトロポリターナと林立するスカイスクレーパー。(クリックで拡大)

図16
図16. 宗教美術館。修道院の学校を修復した植民地時代の建築が残る。(クリックで拡大)

図17
図17. 同宗教美術館の壁には、サンパウロはここで生まれた(Sao Paulo nasceu aqui)と書かれている。1554年に宣教師が建てたパティオ・ド・コルジオという修道院の学校がサンパウロの起源で、それから458年と書かれている(458 anos)。(クリックで拡大)

図18
図18. 世界最大の日系人が住むリベルダージの日本人街。ゴドイさんの奥さんは日系人の小児科医師(日系2世、日本から移民したお父さんは90歳代のようだがお元気という)。大きな鳥居があり、街灯も提灯型になっている。日本人はだんだん減って、中国人などにおきかわってきていると聞く。日系人は、サンパウロ市に多く、リオには少ない。ゴドイさんもアルバレンガさんもイタリア系であるが、イタリア系はサンパウロにもリオにも多いという。サンパウロの人は、リオの人は遊んでばかりと言うらしい。それで日系人はサンパウロに多いということのようである。(クリックで拡大)

 その日の夕方にリオに戻り、第7回LACTRIMSの第1日目のディナーから参加する。アルバレンガさんから次々に中南米の教授を紹介されるが、どれも似たような感じで、もう誰が誰かわからない。南米の人は、スペイン人やポルトガル人の子孫なので、背は高くはない。男は鷲鼻が多く、女は胸とお尻が大きい。女性はがっしりした肉付きで胸をゆすって歩いている。胸の谷間が深い。若いうちは、ウェストがくびれているが、中年になると皆一様に三段腹である。スパニッシュは多産である。しかし、ブラジルでは、最近は子供を作らなくなって平均生涯出生率が1.5人くらいまで落ちたと聞いた。

 アルゼンチンのカラ(Adriana Carra)教授は、ほとんど横綱級である。高校生と思しき娘さんはスリムでとても知的な感じであるが、このおばさんは鷲鼻、胸も腹も尻も大きくて圧倒される。千と千尋の油屋(湯屋の名前)の女主人とほとんど瓜二つである。どうやったらこのスリムな娘さんが横綱級になるのか本当に不思議である。以前に日本にお呼びしたキューバのInstitute of Neurologyのゴンザレス教授(女性)と同じキューバのゴメツ(Gomez)教授、ベネズエラのソト(Soto)教授(女性)、メキシコのミゲル・マシアス(Miguel Macias)教授(次期のLACTRIMSのcongress president)、science committeeの議長をしているリオのレオン(Leon)教授(女性)などに紹介された。驚いたことに、LACTRIMSは、メキシコ以南の全ての国が含まれるのである。これらの国は、スパニッシュの共通した文化的背景をもっている。ただ、ブラジルだけはポルトガル語で、他はスペイン語である。学会ではどうやってコミュニケションをするのかと思っていたら、ブラジル人はポルトガル語で話し、それ以外の人はスペイン語で話す。それでどうやら話は伝わっているようなのである。ただ、ポルトガル語を話す人はスペイン語が理解できるというが、逆は必ずしも真ではないようで、LRACTRIMSの会場では、スペイン語、ポルトガル語、英語の同時通訳が行われていた。スライドは英語にする決まりのようだが、スペイン語もありポルトガル語もあり、様々である。皆、母国語で話すから自信にあふれていて元気がいい。アジアのPan Asian Committee for Treatment and Research in Multiple Sclerosis (PACTRIMS)は、日本からオーストラリア、中国、インド、イランまで含まれているから、母国語が多すぎて同時通訳で済むというわけにはいかない。PACTRIMSは今年で5回目(こちらは毎年)、LACTRIMSは7回目(こちらは二年おき)で、国際学会としての年齢も近いし、コーカシア系白人とは違った病像を示す脱髄性疾患を共に抱えているから、地球の反対側に位置しているものの、交流の第1歩を踏み出すのが望ましい気がする。いつかPACTRIMS-LACTRIMS Joint Symposiumを企画できればいいね。

 翌朝一番には午前8時から1時間も、レジナ・アルバレンガ教授のご主人Helcio AlvarengaさんがJean Martin Charcot Sectionで特別講演をされるというので、これは出ないわけにはいかない(図19、20)。ポルトガル語では、Hは発音しないので、Helcioはエルシオというようである。10数年前に九大神経内科に奥さんの方のレジナさんを呼んだときは、一緒に付いてきた変なおっさんという感じだったが、ブラジルに行ってみて驚いたことには、このエルシオさんは、ブラジルの黒岩先生みたいな人だった。ブラジルには、Helcio Alvarenga Awardというこの人の名前を冠したprestigious (名誉)な賞があり、このLACTRIMSで表彰されていた。1966年にパリのサルペトリエ病院に留学してGarcin(ガルサン)教授に付いて神経学の勉強をしたということである。それで、Charcotのことはよく耳にしておられて、本日の講演になったのである。大変残念なことに朝一番の講演だったため、英語の通訳者が遅れてきて、最後の5分位しか僕は英語で聞くことができなかった。したがって、シャルコーが急性心筋梗塞による肺水腫で死んだという部分しか聞きとれなかった。留学された時にエルシオさんはおいくつでしたかと聞くと、46歳という。するとこの元気なおっさんは、今92歳。

図19
図19. Helcio Alvarenga教授の特別講演。Jean Martin Charcot Sectionで。神経学の父Charcotは1825年11月29日に生まれた。したがって、11月29日の講演のタイトルも、Celebration of Charcot Birthday in November 29となっている。スライドはポルトガル語。(クリックで拡大)

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図20. エルシオさんは、自宅で転倒されて脊柱を痛めている関係で座っての講演だったが、迫力満点。(クリックで拡大)

 僕は学会では2本講演して、座長を一つこなした。相変わらず下手な英語だけれど、向こうも英語が上手というわけではないから気楽である。割と好評でほっとした。教室の神経免疫グループの皆が、頑張って出してくれたデータのおかげである。学会最終日の夜には、アルバレンガファミリーの打ち上げにごいっしょする(図21)。ここでは、ブラジルの伝統的なカクテルであるカイピリーニャをいただいた(図22)。カイピリーニャはカシャーサベースのカクテルである。カシャーサは、sugar cane(砂糖キビ)の絞り汁を発酵蒸留したもので、38~54度とアルコール度が高い。アルコール度が高いので、ライムと砂糖に加えてたくさんの氷を入れてある。カイピリーニャにはココナッツミルク、オレンジ、パイナップルなどいろいろな果物を入れる。僕は一番普通のライムのみのものをいただいた。一口飲むとアルコールの強さが舌にジーンとくる。砂糖とライムで飲みやすくしているので、うかつに飲み干すと後で後悔する。これは氷をじっくり溶かして飲まないといけない。つまみに出てきたズキニのスライスをカラッと揚げたのによく合う。ポーン・デ・タージュというブラジルのチーズパンがとてもおいしかった。カシャーサの代わりに日本酒をベースにしたサケピリーニャをトライしてみたらと勧められたが、これはピュアな日本酒を冒涜するような感じがしたので、断った。もっともこれでうっかり二杯目をいただいていたら、倒れていたところだった。

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図21. 学会の打ち上げでブラジルの伝統料理をいただく。僕の左隣は、ベネズエラのソト教授、右隣はサンフランシスコ(UCSF)のグッディン教授。(クリックで拡大)

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図22. カイピリーニャ。これはつい飲みすぎると後がこわい。(クリックで拡大)

 学会が終わった翌日には、アルバレンガさんが自宅に呼んでくれた。アルバレンガさんの家の通りを挟んだ向かいは、ファヴェーラだという。ファヴェーラは不法占拠者のスラム街をさす。もっとも有名なリオのファヴェーラは、山の上まで小屋みたいな家が入り組んで造られている(図23)。水道や電気はフリーとアルバレンガさんは憤っている。フリーというのは、本当にフリーなのか盗んでいるからフリーなのか、僕にはよくわからない。リオには100万人を超えるファヴェーラの住人がいると話す。一方で、眺めのよい丘には100〜150万ドルの豪邸も立てられているので、同じ山のすぐ隣側という状況も起こり得る。

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図23. 山の上までびっしりと立ち並ぶファヴェーラ。水道や電気は不法に使っている。(クリックで拡大)

 アルバレンガさんの家は、パラグライダーが飛び発つ山の中腹にあった(図24~28)。とても眺めのいいところで、サンコハードビーチを右手に、左手にパラグライダーの飛び立つ巨大なロックが見える。海からいきなり巨大なロックがそびえ立っていて、その中腹に家がはりついているような感じである。いきおい眺めのいい丘にはたくさんの家は建てられない。海岸へ吹き抜ける風が実に気持ちがいい。たぶん日本でいったら5月か6月の梅雨前の爽やかな風である。庭のデッキチェアーに座ってグアダナというアマゾンフルーツのジュースをよく冷やしたものをいただいた。これは少し炭酸が入っていてとてもおいしい。

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図24. この巨大なロックの頂からパラグライダーは飛び発つ。その中腹にアルバレンガさんの家はあった。(クリックで拡大)

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図25. アルバレンガさんの家の門。(クリックで拡大)

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図26. プールまであって立派なお屋敷。(クリックで拡大)

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図27. 隣りの棟に、神経内科医の息子さん(マルコさん)が住んでいる。マルコさんは、今回のLACTRIMSで事務方を務めていた。LACTRIMSの賞を受賞し、ファミリーは皆喜びでいっぱい。娘さんも神経内科医でLACTRIMSの裏方を務めていた。二人ともまだ若いのにセッションの座長を務めており、これはまあアルバレンガファミリーの学会というような感じ。九大に呼んだ時は全然そうも思わなかったが、実はブラジルでは最も有名な神経内科医一家か。イタリア系は家族の結びつきが強い。ザ・アルバレンガといった雰囲気。これはリオまで行って初めてわかった。(クリックで拡大)

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図28. アルバレンガさんの自宅の庭からはサンコハードビーチが見える。ビーチからロックに吹き上げる風が気持ちがいい。(クリックで拡大)

 アルバレンガさんのところでPhD(医学博士】コースの大学院生としてMSの研究をしている、金髪でとてもきれいな白人の女医さん(図21右から二人目)は、マットグロッソの出身である。普段医師として勤務しているマットグロッソ州には、神経内科医が全部で15人、脳外科医が20人しかいないという。マットグロッソは、南米大陸の中心でアマゾンの真っただ中である。アリゲーターがくさるほどいるところである。この人のお父さんはマットグロッソで農場をやっているという。ホテルというか、日本の民宿みたいなところに泊まりに来いと盛んに勧める。ジーコ(サッカーの)という名前のアリゲーターを飼っているようで、人に慣れているので、ジーコの前に立たない限り大丈夫だからなどという。

 カシャーサはミナス・ジェライス州のものが一番上等と聞く。エルシオ・アルバレンガさんはこのミナスの生まれである。エルシオさん秘蔵のカシャーサは、もちろんミナスのもので、ディアマンティヌという名前だった。年代もののとてもいい絵柄のビンに入っている。カシャーサを臙脂色の江戸切子みたいなカットグラスでいただいた(図29)。芳香が強く、うまい。同じ砂糖キビから造られるラム酒も、ジャマイカに行って飲むととてもおいしかったが、日本に持ち帰ったら甘みが強すぎてとても飲めなかった。しかし、このカシャーサは、秘蔵のものだけあって、全く違っている。ブラジル人が言っているようにラムとカシャーサはやはり別物。

 その後に遅い昼食に繰り出す。ホン・ジ・アスーカル(sugar loaf、砂糖パンのニックネームでよばれる巨大なロック)がみえるボタフォゴ海岸のレストランでパエリアをごちそうになった(図30~33)。

図29
図29. アルバレンガさん秘蔵のカシャーサをいただく。僕の向かいは、ウルグアイの神経内科の教授とその奥さんの通訳家。奥さんは5か国語くらい堪能で、語学は音楽センスと話す。僕は音痴だから英語の聞き取りも下手なのねと納得。ウルグアイはブラジルとアルゼンチンの間で、ラ・プラタ河の河口にある白人の国。ウルグアイはアジア人には知られていないから、中国人や韓国人は少ないのと話す。(クリックで拡大)

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図30. レストランで。僕の後ろには、ボン・ジ・アスーカルの巨大なロックが遠望される。日本でいったら5月から6月くらいのとてもすがすがしい一日。午後3時から午後5時半くらいまで遅い昼食をいただく。夕食は午後9時過ぎからという感じ。(クリックで拡大)

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図31. ボタフォゴハーバーからボン・ジ・アスーカルを見る。ボン・ジ・アスーカルは高さ395メートルの巨大な岩である。(クリックで拡大)

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図32. アルバレンガファミリーと。僕には一番手前の最も眺めのいい席を用意してくれた。(クリックで拡大)

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図33. シーフードパエリア。リオは食材が豊かで、おいしい。(クリックで拡大)

 最終日の日曜は飛行機の出発までに時間があったので、アルバレンガさんがリオのラグーン(lagoon、潟湖、せきこ、外海から砂州などによって隔てられた塩湖)に連れて行ってくれた(図34)。リオのラグーンは、1周8キロメートルである。福岡の大濠公園のざっと4倍の広さである。左手にはコルコバードの丘とそこに立つ巨大なキリストの象が見える。右手の方にはいくつも大きな山みたいなロックが屹立している。ラグーンにはクリスマスのライトアップをする巨大な木が立てられている(図35)。このラグーンの周りをアルバレンガさんの娘さんのマリアさんといっしょに、二人横並びで漕ぐ自転車を漕いで回ろうというのである。マリアさんは神経内科医で、現在、PhDのThesis(学位論文)をまとめている最中である。こちらでは、いくつかの英語論文をまとめて、一編の学位論文として提出し、それが認められると、晴れて医学博士となるのである。すでに2編の英語論文を脱髄性疾患とAQP4抗体で出版していて、ほとんど学位論文もできあがっているという。このお嬢さんはそれこそミスリオみたいな、とてもアルバレンガさんの娘さんとは思えない美人で、スラリとしている。こんなお嬢さんとアベックの自転車こぎで一周していいのかしらと思うが、勧めにしたがってトライすることに(図36)。自転車を漕いでいるうちにポケットの中から物が落ちることがよくあるので、大事なものは誰かに預けておくようにという店の人の助言があった。それで、アルバレンガさんの長男のマルコさんにパスポートを預かってもらった。財布は尻ポケットなので、まあいいだろう。

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図34. 後ろは、ロドリゴ・デ・フレイタス湖。向こうのコルコバードの丘にキリストの立像が見える。イパネマ海岸のすぐ内側に位置している。(クリックで拡大)

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図35. ラグーンの中にはクリスマスツリーが立てられており、夜にはライトアップされる。(クリックで拡大)

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図36. アルバレンガさんのお嬢さんのマリアさんと。(クリックで拡大)

 この二人漕ぎの自転車は結構重くて、8キロメートルも漕げるかしらという感じである。マリアさんは、週に5回もジムに通ってトレーニングしているような人だから、屁でもないといったところだが、なにせこちらはアバラ骨は折っているし、ギックリ腰はやっているしで、この2ヵ月はジョギングもできていない。しかし、走り出してみると意外に軽快で、ラグーンの周りは春のしなやかな風が心地よい。マリアさんとたあいない話をしながら、ときどきカメラで写真をとりつつ自転車を走らせる。ふと気付くと、お尻の財布の感じがなくなっている。アーと思って、マリアさんにあわてて財布をどこかで落としたと話す。財布には大事なカードも入っているのに、これは今から逆走して戻ってもみつからんだろうなあとガックリする。結局、半周した位置から二人乗り自転車の向きを変えて落ちている財布を探しに戻ることに。20メートルも戻ると、前から黒い財布を掲げて小走りでくる肥ったラテン系の女の人が。オッー、なんと落とした財布に気づいて拾って届けに来てくれていたのだ。ブラジルはスリの天国と聞いていたが、これはほとんど奇跡だ。案外、ブラジル人もラテン系のおばさんはいい人か。というようなわけで、僕はすっかりブラジル人贔屓になった。

 まあ、結局、そんなこんなで1周8キロメートルに50分もかかって、汗だくだくでへとへとになった。ラグーンの端のアラビアレストランの日よけのある野外の席で、ひき肉を団子みたいに固めたものをごちそうになる(図37)。ここでもココナッツミルクが旨い。やれやれ大汗をかいたままこのあと僕は飛行機で30時間コースである。アルバレンガさんは、ここからでているヘリコプターツアーに乗れと勧めてくれるが、僕は高所恐怖症である。今日の僕の運も財布で使い果たしている感じなので、ここはやはり丁重にお断りする。次にリオに来たらヘリコプターに乗る約束である。二度とリオには行けないなあ(図38~42)。

図37
図37. ザ・アルバレンガ(アルバレンガ一家)。僕は自転車こぎで汗だく。この後、32時間フライトが待ち受けている。アルバレンガさんも、娘のマリアさんから想像するに昔はさぞかしきれいだったんだろう。(クリックで拡大)

図38
図38. 実はLACTRIMSを二日目の午後にさぼって市内観光に行った。観光スポットのコルコバードの丘にも観光バスで出かけたが、ガスが出ていて高さ30メートルのキリストの立像すら見えず。学会をさぼるとろくなことはないね。(クリックで拡大)

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図39. 標高710メートルのコルコバードの丘からはリオの美しい海岸線が一望できると期待していたが、全く見えず。観光客からは金返せの声。(クリックで拡大)

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図40. ボン・ジ・アスーカルには二段階のケーブルカーで登る。二つ目のケーブルカーから見たボン・ジ・アスーカルの頂。(クリックで拡大)

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図41. ボン・ジ・アスーカルの上から見たグアナバラ湾。左手側がリオの市内。湾に突き出ている平地が、サントス・ドゥモン空港。(クリックで拡大)

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図42. ボン・ジ・アスーカルの上から、左手が有名なコパカバーナビーチ。右手はリオ市街(ボタフォゴ)。(クリックで拡大)

 僕は最近物忘れがひどくなった。老眼鏡や時計や手袋などあちこちで忘れてくる(手袋はしょっちゅうなくすので、今では軍手しか買ってもらえない)。海外出張もとにかく毎日が忙しいので、出発の前夜になって初めてEチケットを見るような状況である。畢竟、ポカをよく冒す。リオからパリに戻った機内にブラジルで土産に買ったコーヒーを全て忘れてきたり、アルバレンガさんにもらったプレゼントの品をアルバレンガさんの車の中に忘れてきたり、ホテルのトイレで外した鎖時計を忘れてきたりとやたらにものを忘れている(結局時計は戻らなかったが他は無事に回収できた)。まあ、それでも何とか大事に至らないでやってこれているのは、奇跡に近いかもしれない。他大学の神経内科の多少歳のいった教授は、いったいどうしているんだろう。あまりポカもなく海外で講演しているんだろうか。僕位の歳には黒岩先生はもう病気になっておられたから、歩行も不自由だった。海外に行かれるときには、後藤先生、糸山先生、小林先生、医局長などが必ず四六時中付き添っていた。なんでそうまでして海外の学会に行くのか当時は不思議にも感じていたが、やはり教授自らが教室を代表して海外の学会に行って講演し、現地の神経内科医の人たちと交流することには、少なからず意義があると思う。当地に行ってみないと、その人が自身のホームグランドでは実際にどんな日常生活を送って、どんな活躍をしているかはわからない。そういうことを知ることは楽しいし、お互いに呼んだり呼ばれたりして、はじめて海外の医学者との交流も深まる。そんなことで黒岩先生は無理にでも行かれていたのかなと思う。僕はそんなに偉いわけでもないから欧米諸国はよんでくれはしないので、もっぱらアジア、ラテンアメリカあたりのどちらかというとドサ回りが専門である。2年ごとに開かれるWorld Congress of Neurologyは2015年には南米チリで開催される予定である(ブラジルも立候補したが負けている)。体が不自由になって教室員に迷惑をかけるようだと教授職そのものをやめないと仕方がないが、今のところ物忘れくらいだから、アジアやラテンアメリカの魅力あふれる国々を訪問してほどほどに楽しみながら学問的な交流を深めたいと願っている。

 復路も32時間ほどもかかって福岡に帰り着いた。やれやれやっと家に戻ると、どういうわけかアバラの痛みも腰の痛みも和らいでいたが、同じ姿勢で長いこと座っていたので、前から痛めている頚(頸椎症)が悪くなって、痛くて頚が回らない。

 ところで先週の土曜日(12月22日)に第200回の日本神経学会九州地方会が熊本大学(安東由喜雄神経内科教授)で開催された。昭和37年に熊本大学で第1回が開催されて以来、実に51年かかっての200回到達である。日本神経学会の7支部では、九州と関東が年4回開催している。九州は年に3回に減らそうかという話が出たこともあったようだが、年3回にすると関東・甲信越地方会に回数で負けてしまうという黒岩先生の意見で年4回が継続されている(ちなみに関東・甲信越地方会は12月に第203回)。九州地方会は討議がとても活発に行われていて、勉強になる。同じ地域なので仲よくやっていきたいと願っている。九州地方会での教育を通じて若い人を神経内科の道へ誘っていきたいものである。九大神経内科では、来年度3年ぶりに女医さんの入局が二人ある。3年ほど前に姐御(アネゴ)と同期の男性医師から呼ばれる元気のいい女医さんが入局して以来、女性の新入局が一人もなかった。うちも以前は入局者の男女比は、1対1に近かったのだが、この3年間の入局者の男女比は17対1で、ずいぶんと医局も殺風景になったなあと感じていた。これはたぶんうちは仕事がハードと思われているんではないかと心配していた(そんなことはないんだが)。来年度は関連病院の神経内科に出ている女医さんも、二人ほど大学院に進学するため大学に戻ってくる予定なので、医局もいくらかはカラフルになりそうだ。男性であれ女性であれ、世界で活躍する神経内科医と肩を並べるくらいの人材が、うちでも育ってほしいものである。

 

 それでは皆さん、よいお年を。

平成24年12月28日
吉良潤一