【グリアの海に漕ぎ出そう:古傷が痛むこの頃に感じていること(平成25年4月28日)】


 軽井沢プリンスホテルで折った肋骨は、ずれたままつながった。絶えずひきつれたような凝った感じがあるが普段はひどくは痛まない。しかし、ときどき強く疼く。そんなときはたいがい雨である。天気が悪いと古傷が痛むというのは、本当だと感じるこの頃である。ゴールデンウィーク前半の今日は、つつじの咲き誇る福岡は晴天で気持ちがよい。勢い古傷も痛まないので、久しぶりに雑文を書いている。

 マウスの大脳や小脳の大切りの切片を見ると、その白質の薄さに驚く。マウスであっても意外に大脳の皮質は厚いのである。一方、ヒトでは大脳白質は、ニューロン(神経細胞)の細胞体が存在する大脳皮質に比べて圧倒的に厚い。白質には何があるかというと、ニューロンの突起である軸索とそれを覆う髄鞘、髄鞘を作るオリゴデンドログリア、細胞間隙を埋めるアストログリア、脳の免疫系を構成するミクログリアがある。もちろん皮質にもこれらのグリア細胞は豊富に存在し、皮質においてすらもニューロンよりは数が多い。したがって、脳全体でみると、ニューロン(神経細胞)は10%程度に過ぎず、大部分はグリア細胞なのである。グリアの海にニューロンは浮かんでいる。つまるところ、マウスとヒトの脳の違いは、白質のボリュームの違い、グリア細胞の量的な違いによるところが大きい。ニューロンも皮質も、ヒトでは出生後は減る一方だが、白質は50歳くらいまで増え続けることが報告されている。ヒトをヒトたらしめているのは、案外、グリアであるとすらいえるかもしれない。白質では高度な情報の統合が行われている可能性が指摘されている。

 僕は変性と炎症の関係に関心があって、両者の関連を追及してきた。グリア炎症は、脱髄炎である進行型多発性硬化症においても、変性疾患、たとえば筋萎縮性側索硬化症、アルツハイマー病などにおいても、極めて重要である。筋萎縮性側索硬化症動物モデルでは、アストログリアやミクログリアが病気の進行速度を決めることが示されている。ニューロンの変性が始まるトリガー(きっかけ)は様々であるが、その後の細胞死に至るプロセスのスピードを調整しているのは、グリアと考えられるようになった。しかし、グリア炎症の最大の課題は、グリア炎症をコントロールする有効な術がいまだ見出されていないことである。もしグリア炎症を制御する有効な方法が発見されれば、進行型多発性硬化症のみならず神経変性疾患にも適用することが期待できる。そのためには、それぞれの動物モデルやヒトでの研究が欠かせない。グリア炎症と大雑把に一括りにしても、多発性硬化症のそれと筋萎縮性側索硬化症やアルツハイマー病のそれは、病態が異なっている可能性がある。むろん共通部分も大きいに違いないが。最近では、ニューロンや軸索、シナプスの形成・維持に、ミクログリア、アストログリア、オリゴデンドログリアの働きがとても大事と考えられるようになった。その重要性を端的に示しているのが、primary microgliopathy(一次性ミクログリア病)やprimary astrogliopathy(一次性アストログリオパチー)である。

 一次性ミクログリア病に関しては、昨年度病棟医だった齋藤万有君の症例報告が、Multiple Sclerosis Journal (Impact Factor 4.255)にno revisionでaccept(採用)になった。たいがいの論文は投稿するとrevisionといって腐るほどデータの修正や再検討を要請され、うんざりするのが常である。修正を一切要求されないで一発採用になったのは、Impact Factor 4以上のジャーナルでは、10年ぶりくらいかもしれない。この報告では、Hereditary Diffuse Leukoencephalopathy with Axonal Spheroids (HDLS)という昨年遺伝子異常が発見されたばかりの病気の日本人例を報告している。この疾患は、ミクログリアという胎生期に卵黄嚢から脳に移動しそこに住みつく大食細胞(マクロファージ)の仲間である免疫系の細胞に発現する遺伝子の異常で起こる。つまり、ミクログリアの異常で脱髄や軸索の変性が起こることになる。したがって、primary microgliopathy(一次性ミクログリア病)とよばれている。齋藤君の報告では、従来HDLSは前方から白質の異常が進展し認知症を呈するとされるが、この例では頭頂葉から進展しprimary progressive multiple sclerosis (PPMS、一次性進行型多発性硬化症)と極めて類似する臨床症候、MRI所見が見られ、脳生検でもT細胞の浸潤を認めた点に特徴がある。HDLSはとても稀な病気と思われているが、最近第2例目を経験したので、その気になってみれば案外いて、従来見過ごされていた可能性がある。欧米ではPPMSの5~10%程度がHDLSの遺伝子異常をもっていたということなので、うちのPPMSについても誤診があってはいけないと思って20例ほども信州大学で調べていただいたが、全例遺伝子異常はなかった。今はHDLS例を経験したので、その目でMRIをみるため、PPMSかHDLSかは区別がつく。事実、第2例目は外来初診時に僕はHDLSを考えた。しかし、最初の例のときはPPMSと僕は思った。主治医の斉藤君がHDLSを疑ったもので、立派である。

 同様にミクログリアで発現する遺伝子の異常で起こる一次性ミクログリア病としてNasu-Hakola病が知られている。なぜミクログリアのみの異常で、ある年齢になると急激に病気になり、髄鞘や神経細胞の脱落が進むのかは、とても不思議である。ミクログリアは、たえず髄鞘やシナプスのターンオーバーに関わっており、そのメインテナンスの異常で起こるのか、ミクログリアの異常な活性化によって神経系が障害されるのか解明が待たれるところである。他方、アストログリアに発現する遺伝子の異常で起こるものとして、Alexander病、Vanishing White Matter病、Megalencephalic leukodystrophy with subcortical cysts が知られている。これもアストログリアという神経やシナプス、オリゴデンドログリアの維持に関わる細胞の異常によって、脱髄や神経細胞・軸索の脱落が起こる。一次性ミクログリア病や一次性アストログリア病で広汎な脱髄や神経細胞死が起こることは、神経細胞の存在する脳内環境の解明が極めて大事であることを示唆する。私たちはグリアのアセンブリー(集合)であるグリアシンシチウムの破綻が重要ではないかと考えて、脱髄性疾患と神経変性疾患の両面から研究を進めているところである。ハーバード大学の基礎研究室に7年間も遊学していた山口浩雄君が最近帰学したので、この方面でさらに研究が進展することを願っている。ヒトをヒトたらしめるグリアの海に漕ぎ出し、ニューロンの生存と死のメカニズムを探索していきたい。

 ところで、僕は今年の1月にKeystone symposiumに呼ばれて米国モンタナに行った。モンタナはロッキー山脈のど真ん中にあり、アメリカン・ロッキーではもっとも北に位置する州である。モンタナは、もちろん初めてである。モンタナに行く途中には、サンフランシスコに寄り道して、University of California San Francisco (UCSF) の新しいキャンパスで、留学中の松下君、磯部さんに久しぶりに会えてよかった。銘柄は残念ながら忘れてしまったが、いっしょにいただいたカリフォルニアワインがとてもおいしく、これから寒くてステーキしかないモンタナに行かねばらないので大いに元気づけられた。

 Big skyというモンタナの冬のリゾート地は、標高は2500メートル、気温は零下23度に達した。三角形に尖った山頂は、どんよりした空の白さと区別がつかない。最高気温でも零下10度だった。午前7時半、まだ暗いうちにホテルからシンポジウム会場へと凍った雪道を踏みしめるようにして歩く。ここはパウダースノーで、雪もふんわりと積もっている。手に取るとふわふわ、サラサラしている。朝の光に雪片がそこここで輝いている。凍える空気が粘膜をパリパリと凍らせながら気道に吸い込まれていく。喉がヒリヒリして空気を吸い込むのが苦しい。部屋の中ですら吐く息が白い。僕は生まれも育ちも九州だから、雪やら寒いのやらは大の苦手である。シンポジウムでは、cutting edge of multiple sclerosis and neuromyelitis opticaというようなタイトルで、僕は両者の境目あたりを話して、参加者に好評だった。これは分子免疫病理学研究を進めてくれた松岡君、真崎君のおかげである。

 多発性硬化症が神経病理学的には様々な病理像を示す(heterogeneous)ことはよく知られているが、一人の患者さんが一つの病理像しか示さないのか(この場合は、一人の患者さんでは発病機序は単一と考えられる)、一人の患者さんでも複数の病理像を示すのか(こちらの場合は、一人の患者さんでも複数の機序が作用していると考える)で意見が分かれている。視神経脊髄炎もアストログリアの傷害が一次性で、全ての患者でアストログリアの脱落が見られる単一の病理所見だとする立場(この場合は、アクアポリン4抗体によるアストログリアの障害機序で全て説明される)と、一人の視神経脊髄炎の患者さんでも複数の病理像が同時並行で見られ、複数の機序が働いているとする立場がある。視神経脊髄炎は多発性硬化症とは異なる独立した疾患だとする人は皆前者で、こちらの立場が学会では優勢である。私たちは、当初から視神経脊髄炎は単一の病理像ではなくて複数の病理像がみられるから複数の機序が働いていて、そのうちのいくつかは多発性硬化症と視神経脊髄炎でオーバーラップしているという立場である。なかなか私たちの立場はわかってもらえないが、国際学会やシンポジウムを通じて地道に発表を継続することが大切と感じている。

 シンポジウムが終わりホテルへの道を歩くころには、あたりはすっかり静寂に包まれ、黒い杉の木と白い雪が、まさに東山魁夷の水墨画の世界をかもしだしている。

 この頃は、いろいろな学術誌から毎週5編くらい投稿論文の査読依頼がくる。年間200編以上は査読していると思う。4月28日の毎日新聞をみると、Nature誌が論文の不正防止のため査読を強化すると報じてある。Nature誌の調査では、生命科学のデータベースから取り下げられた論文2047編の4割にデータを操作するなどの不正があったからだという。我が国でも最近の京都府立医大の多数の不正論文をはじめ組織的に不正行為をして論文を作成しているケースがままある。査読をしていて感じるのは、整い過ぎているデータは怪しいということである。僕に回ってくる論文では特に中国大陸からの投稿で疑わしいのが多い。怪しい点を指摘しても、データがそのようになっていると返事されれば、現地調査でもしない限りわからない。とても一介のレビュアーがそんな暇はないから、いきおい疑わしい論文がいいジャーナルに載り、地道なデータの論文はImpact factorの低いジャーナルに載るような羽目になる。データの不正操作でいいジャーナルに掲載されても継続は困難だから、地道に正しいデータを公表し続ける姿勢が大事と感じている。

図1
図1. 江西省神経病学研究所設立大会の写真。呉教授にいただいた。九大神経内科に留学している頃は、こんなに偉くなるとは思えなかったが。たいしたものだ。(クリックで拡大)

図2
図2. 同研究所名誉所長の任命状らしい。中国語は読めないが。(クリックで拡大)

 図は中国の江西省神経病学研究所の設立大会の写真(図1)である。以前、九大神経内科に留学していた呉教授が設立され所長になったので、私を名誉所長にしてくれた(図2)。いずれ3回目になる江西省南昌への訪問をしないといけないと感じている。呉先生は九大の生体防御医学研究所と神経内科で7年ほども過ごされた方だから、しっかりしたデータを出されるものと思う。中国からも手堅い研究論文が出てくるよう期待している。

 先々週、「舟を編む」を見た。10年とか20年とかかけてバトンタッチしながら、ミスの許されない辞書を編むことを描いた小説の映画化である。タイトルは、言葉の海を渡っていく舟を造るイメージを表している。10年、20年の歳月の間には人生の悲喜こもごもがある。一つの病気の原因を追究していくということも、そのようなものかなあと感じている。

 平成25年度の新入局者は7名だった。これは2012年の医局長を務めた松瀬君のおかげである。当科では医局長は医局費を払っている医局員の投票で選ばれる(僕ももちろん医局費を同額払っていて1票だけしか持っていない)。任期は1月1日から12月31日までの1年間である。入局者6名以上入れると名医局長会入りである。この6年は名医局長続きである。ただこの3年ほどは中途入局者まで入れてぎりぎり名医局長の基準をクリアしている状態だったが、松瀬君は文句なく名医局長である。最近の入局者をみていると、さっと一発で決めてくれる人と、誘いに誘い迷いに迷ってようやく決める人と、大きく二つに分かれる。後者はたぶん選択肢が多すぎてのことと思う。迷うときは、自分が好きなことを選ぶのが正解と感じているので、神経内科が好きならぜひ来てくださいというように僕は勧めている。この先、どの分野がどうなるかなんて、数十年後の予想まで立つはずもない。一生やることになる仕事だから、外野の雑音に惑わされずに好きな分野を選んでおくに越したことはない。九大ではナンバー内科は、毎年30人もの新入局がある。翻って、我が神経内科は毎年平均6人くらいなので、フェース・ツー・フェースで指導に取り組んでいける。専門内科には専門内科の医局の良さがあると思う。平成25年度は、9名(うち2名は外国人留学生)が大学院に進んだ。今年度は一層強力にニューロサイエンスを追及していきたい。

図3
図3. 第55回日本神経学会学術大会のポスター。学会メインテーマのKeep Pioneeringは、日本で最初の神経内科を九大に設立された黒岩義五郎教授のモットー。(クリックで拡大)

 これからは、平成26年5月に主催する第55回日本神経学会学術大会の準備で忙しくなる。本学術大会ポスター(図3)の写真のデザインは、博多織をもとにしている。博多湾に押し寄せる荒波をモチーフにした福岡国際会議場メインホールの緞帳の博多織の図案に地球儀の東アジアを重ねている。ポスターの基調となるオレンジ色は、九州らしい温かさを表している。現在の福岡はアジアの玄関口としてますます発展しており、日本からアジア、そして世界へと本学会が力強く発展していくことをイメージしている。ぜひ、多くの方に福岡にお越しいただきたいと願っている。

 

平成25年4月28日
吉良潤一