【人生はよく負ける(平成27年5月17日)】


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図1.1st ITCNのNeuroimmunology sessionの講演では、長年にわたって、PACTRIMSを一緒にやってきたTsai先生が、座長として僕の紹介をしてくれた。学会場のTaipei International Convention Centerは、とても立派な会場だった。(クリックで拡大)
 この5月の連休には、台湾神経学会に呼ばれて講演に行った。台湾神経学会は、1700人ほどの参加者があり、従来は2日間の日程で行われていたという。今回は、1st International Taiwanese Congress of Neurology (1st ITCN) and 2015 Annual Meeting of Taiwan Neurological Society (2015 AMTNS)とのタイトルで国際学会も併催して、4日間の日程での開催である。会長のLu先生、事務局長のYe先生、学術プログラム委員長のChen先生は、昨年の福岡での第55回日本神経学会に来られて、その際に大いに刺激を受け、台湾神経学会でも1st ITCNを開催することにしたと聞いた。日本からも水澤先生はじめ、辻省次先生、梶先生、桑原先生、望月先生など多数の神経内科医が招待されていた。東アジア各国の神経学会が国際化し、各国の年次大会での相互の学問的な交流が増えるのは、望ましいグローバル化の方向であろう。第一日目の午前半日をかけて、Taiwan-Thailand Neurology Forumが開催されており、これはタイタイの語呂合わせで5年来やっているとのこと。一般演題はポスター発表が主で、台湾語では「壁報論文」という(台湾の漢字は日本人には概ね理解でき、街を歩いていても看板でなんとなくどんな店かわかるのはありがたい)。231演題の多くは英語発表で、台湾の神経学会国際化は日本以上に進んでいるかもしれない。

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図2. 講演に際しては、両手に掲げているような上等な表彰状をいただいた。1st ITCN Neuroimmunology sessionの後に、演者と座長で壇上にあがって記念撮影。記念写真のときには、僕の前に講演したドイツのHartung先生は、既にエスケープしたのか、居なくなっていた。教室の松下君がMSのgeneticsを講演した。Suさんも堂にいった座長ぶりで、台湾の女医さんのなかでは偉くなってきたのかしらん。(クリックで拡大)
 私を呼んでくれたのは、以前に九大神経内科に留学していたSuさんの上司のYan教授(国立台湾大学神経内科)である。1st ITCNで講演をぜひ一つしてほしいという依頼だったが、直前にできればもう一つと頼まれて、急遽、NMO/MSとCIDPと2つの講演を続けて行ったので、さすがに疲れた(図1、2)。ところがこれで終わりにならず、夕方6時くらいにシンポジウムが済むやいなや、Yan先生に頼まれて別のホテルに移動し、夜は台湾ノバルティス社主催のMSフォーラムに出席。あわただしく夕食を取った後は、午後10時近くまでフォーラムに出る。司会のTsai教授の隣の席が用意されていて、話題をふってくるので、居眠りをするわけにもいかずペラペラと適当なことを言う。

 この2月にソウルに呼ばれたときには2泊3日で、国立ソウル大、Asan Medical Center (蔚山大)、Samsung Medical Center(Sungkyunkwan University 成均館大学)と3回も講演をして、韓国のバイエル社にこき使われたが(図3-8)、それに匹敵するくらい疲れた。こっちは、ボランティアで完全なタダ働きである。ますます疲労の色が濃いい(あとで聞くと同席していたドイツのHartung先生も居眠りしていたという)。むしろ、台湾神経学会を介してお世話になったのは、メルクセローノの方なのだが。3年ほど前にやはり台湾神経学会に呼ばれて台南に行ったときにもお世話になったメルクセローノのジャイアンさんに久しぶりにお会いすると、今では台湾メルクの責任者(Head)という。彼もまだ若いのに偉くなったものだ。よかったね。

3 図3. Asan Medical Centerは、広い敷地に巨大なビルが立ち並ぶ。それもそのはず2715床と韓国最大の病院で、韓国の総合病院のランク付けでは第1位である。 ここは、蔚山市に本拠地のあるUniversity of Ulsan(蔚山大学)の医学部を兼ねている。韓国の財閥、現代グループの鄭周永名誉会長が設立した私学の雄である。医学部は低学年のみ蔚山市で教育を受け、 臨床に進むと、ここソウルのAsan Medical Centerで学ぶ。僕を呼んでくれたKwang-Kuk Kim教授はこのソウルの教授で長年の友人である。 教授室にはたくさんの絵を飾っていて、韓国医学部教授のリッチぶりを感じる。(クリックで拡大)

4図4. Asan Medical Centerの受付で。受付だけで、この広さ。(クリックで拡大)
5図5. Asan Medical Centerでの講演。多くの人が聞きに来てくれた。(クリックで拡大)


7 図7. Samsung Medical Centerは、地上20階、地下5階の巨大なビルで、1278床と、ほぼ九大病院と同規模である。いわずとしれた韓国最大財閥の三星グループが設立した病院である。三星財閥が運営に参画する成均館大学(私立大学)は、1398年設立の朝鮮王朝の教育機関成均館を母体として、東アジア最古の大学と称している。成均館大学は、前述の世界大学ランキングで140位、韓国の総合大学では第1位という評価もある。国立と私立の違いはあるが、世界ランキングでは九大と似たようなものか。ここで講演して、やっと韓国での仕事から解放された。(クリックで拡大)
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図6. Seoul National University Hospital (SNUH)は、韓国国立大学ナンバー1である。リサーチビルディングと、MSを研究しているメンバーと記念撮影。僕の右隣の人がチーフで、ラボを半年ばかり前に立ち上げたばかりという。講演後日本語で若い女子学生に話しかけられて、ビックリしたが、今、東大医学部に在学中という。Seoul National Universityは、大学ランキング(クアレリ・シモンズ)で世界第31位である。ちなみにSuさんのいるNational Taiwan Universityは、同ランキングで世界76位(残念ながら我が九大は、同ランキング世界126位と遥かに下の方である)。(クリックで拡大)

8 図8. 3回の講演を済ませて、Korean MS Societyのメンバーと会食。皆さん、韓国の各大学神経内科の教授。若い世代は、皆さん英語が達者。右隣りに座っているKimさんが会長で、 この世代までは英会話もそうまでもないが。



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図11. 堅い岩盤を削った緑水歩道を歩く(クリックで拡大)

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図12. 太魯閣晶英酒店。太魯閣峡谷では唯一のリゾートホテル。二つの川が合流する地点の上に建てられている。(クリックで拡大)

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図13. 太魯閣の集落。手前がホテルで屋上にはプールが見える。集落の右端の方にある三角形の屋根が天主堂。途中の山腹にあるのが、文天祥公園。タロコ族は、日本統治時代に反乱を繰り返し、一部は強制移住させられたと聞く。。(クリックで拡大)

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図9. 台湾10景の一つ、清水断崖。山は海面まで300メートルも急峻に落ち込んでいる。明るいブルーの色が美しい。台湾の東の海岸は、どこか故郷の九州東部のリアス式海岸地区に似ている。西海岸に比べて拓けていない点でもいっしょ。(クリックで拡大) 10
図10. 急峻な太魯閣の渓谷地帯。両岸から切り立った崖が迫る(クリックで拡大)

 週末はAMTNSの国内学会となる。台湾はもう5回目になるので、Suさんのタロコがいいとの勧めにしたがって、台北を離れ台東に向かった。台湾東部へは、台北駅からの列車の旅となる。台湾の東海岸は、海と山が近い。切り立った断崖が太平洋へとなだれ落ちる(図9)。台北駅から2時間余りで、花蓮(ファーリェン)という、とても上品な名前の駅に着く。ここは大理石の産地としても有名である。そこから延々1時間もホテルのバスに揺られて、峡谷地帯を抜け(図10、11)、海抜500メートルほどの高地タロコに着く。タロコは、太魯閣と書き、多くの山が連なるところという意味である。この山岳の地には、古来、台湾の原住民タロコ族が居住していた。 タロコのホテルは、二つの川の合流点がわずかばかり拓けていて、そこにあった(図12、13)。このホテル、太魯閣晶英酒店は、岸信介、麻生太郎も宿泊したという由緒あるホテルである(写真を見せてもらったが、1960年代の麻生太郎はキリッとした美男子である。修正してるのかしらん)。

 

 断崖絶壁の川を挟んで、一方に100年前に建てられたという天祥天主堂、もう一方には大きな観音様が立っている祥徳寺院がある(図14-16)。こんな辺境の地で、狭いスペースをカソリックと仏教が分け合っている。ホテルのガイドさんに聞けば、当地にはクリスチャンも多いという。戦前には、これらに加えて佐久間神社という大きな社が立っていて、佐久間左馬太第五代台湾総督を祭っていたという。今ではそこは蒋介石により、宋の宰相文天祥の名前を冠した公園となっていた。太魯閣晶英酒店の客室は、断崖絶壁に面していて、緑が迫ってくる。屋上のプールは、天上で泳いでいるみたいで、まことに爽快である(図17)。今回は、メルクのアミーさんにずいぶんとお世話になった。以前に台南に行ったときの娘と同じ名前の女性社員といい台湾メルクの方にはいつもよくしていただき、感謝。日曜日のお昼には、駅弁を食べながら再び台湾鉄道で台北へ(図18)。翌日には台風が来て台湾東部は大しけだったと聞いた。からくも台風をかすめて福岡へ逃げ戻った。Suさん、どうもありがとう。

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図14. ホテルの対岸の山の中には、祥徳寺院の七重の塔と観音様の白い立像が遠望される。(クリックで拡大)
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図15. 寺院は切り立った崖にへばりつくように建てられている。長い参道。(クリックで拡大)

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図17. 屋上のプールは、ハイキングの後に泳ぐと気持ち良い。山のてっぺんで泳いでいるみたい。空に近い。(クリックで拡大)
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図16.祥徳寺院の広い伽藍。大理石がふんだんに使われている。(クリックで拡大)

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図18. Suさんの勧めで花蓮の駅で買った台鉄弁当は出来たてで、焼き豚がおいしい。100台湾ドル(400円くらい)と安価。すぐ売り切れると聞いた。(クリックで拡大)




 ところで、この4月にはワシントンDCで開かれた米国神経学会に久しぶりに出かけた。DCに近いべセスダにあるNational Institute of Health(米国国立衛生研究所)に、かれこれ30年前に留学(1982年11月から1985年3月まで)していたので、とても懐かしい。僕は、2017年に京都で日本神経学会が主催する世界神経学会(World Congress of Neurology 2017)の社交委員長になっているので、米国神経学会時に同地で開催されるWCNの委員会に出席する必要もあって参加した。ワシントンDCへは、シカゴ経由で、福岡―成田間(1時間45分)、成田―シカゴ間(11時間45分)、シカゴ―ワシントンDC間(1時間50分)と乗り継いでの長旅である。JALは、米国東部は利用客が多いので、あいにくグレードアップはできずにエコノミー席で12時間近く過ごさないといけない。これでは眠れないからたまった仕事をこなすしかないと思って、成田を発つや否や買い替えたばかりのノートパソコンを開く。おかしい。いつまでたっても、いつもの起動画面にならない。途中の画面で止まったままである。購入して初めて海外出張に持っていくのになぜだ。しばらく茫然自失。僕は電子機器音痴である。ちょっと叩いてみたらいいかもしれん。ガツンガツンと叩いていると、やおら前の席のニーちゃんが振り返って、静かにしろと叱りつけてくる。ますます意気消沈。エコノミーはアルコールもあまりは出ないし眠れもしないしで、10時間もビデオを見ていたら、シカゴに着くころにはクタクタになった。

 DCのホテルMarriott at Metro Centerに午後3時過ぎに着いた頃には、福岡の自宅を発ってから22時間が経過していた。心底ぐったりだが、明日は朝の8時からWCNの会議である。とりあえず明日の支度をと思ってトランクを開ける。ネクタイをどれにするか選らんでいると、トランクのどこを探してもカッターシャツがない。このところ出張続きで、米国へと発つ前の日も福岡で難病のケア研究会と忙しかったから、うっかりカッターシャツを入れ忘れたもののようだ。ネクタイは3本も持ってきたのに。またまた茫然自失。1週間もDCに滞在するのにどうしたものか。やむなくヘトヘトの体に鞭打って、1ブロック先のメーシーズに買いに行くことに。メーシーズの紳士服売り場は広く、カッターシャツもたくさんあって、サイズがわからない。弱った。適当なものを持ってレジの店員さんに聞くと、黒人の店員さんは首回りを測って、small size 141/2がいいという。親切にもこのsmall sizeというのを一緒に探してくれたが、なかなか見つからずようやく見つかったのは、1着だけである。これで1週間どうして過ごしたものかと、トボトボとホテルへの道を歩く。すると、向こうから来るのは、札幌の新野先生ではないか。いつものようにニコニコ笑顔が爽やか。こちらは疲れ切って暗澹とした気分である。メーシーズの袋も抱えているのに、できれば顔を合わせたくないが。カッターシャツを忘れたことなど気取られぬようヤアヤアとだけ言って、そそくさとホテルへ去る。ホテルに戻ってカッターシャツを着てみると、首回りはいいが袖丈が長すぎて手が出ないくらいである。アメリカ人てのは、手も長いんだね。あとでsmall size 14というのを探したが、どこの売り場にもなくて、結局141/2を3着買って過ごしたが、袖丈が長くて、スーツの中に折り込まないと着られない。とても日本では着られそうもないので、これは息子へのワシントン土産に。

 ノートパソコンは、ハードの故障のようでどうしようもなかったので、遅れてくる林田君に、医局のノートパソコンを急遽持ってきてもらった。これはとても重い代物で、本当に恐縮した。ところで、林田君のNMOとMSの脊髄病巣を対象にした画像と病理の研究は、Washington Convention Centerの一番広いBallroomでのplenary oral presentationに選ばれた。日本から演題を出してもほとんどプラットホームでの口演には選ばれないので、とても名誉なことだ。まだこの4月からようやく大学院の2年生になったばかりだというのに。会場から質問が続いて答えられないことがあってはと、マイクスタンドのそばの席に心配しながら僕は座っていた。ところが素晴らしい発表で、質問にも答え会場の受けもよかった(図19-21)。去年の台北でのPACTRIMSの口演発表はひどかったが、ずいぶん進歩したものだ。やはり若い人には海外の経験を積ませた方がいいと納得。久々の米国神経学会の講演プログラムは、思った以上に基礎神経科学の最先端の研究成果が提示されていて、とても刺激的だった。一般的な教育的内容は、教育コースで別途お金を払って勉強したい人が勉強する一方、だれでもが聴ける講演は先端的なものを学ぶことができるように工夫されていた。我が国も企業にランチョンセミナーやイブニングセミナーの枠を売った収入に頼って学術大会を運営するのではなく、米国神経学会のように教育と自身の生涯学習に金を投資して、その収益で運営していく方向が望ましい気がする。

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図19. ワシントンDCの15番街にあるBobby Van’s Steakhouseに、Thomas Jefferson 大学(フィラデルフィアにある)神経内科のchairmanであるRostamiさんが連れて行ってくれた。共和党関係者が行くアメリカ料理店でのディナーは、Rostamiさんの故郷のイランに起源のあるというシラーズのワインもサーロインステーキも、とてもおいしかった。うちの大学院生二人も一緒におしかけたので、すっかりお金を使わせてしまった。女性は、イランからの女医さん。10月から教室の吉村君が研究留学する予定である。(クリックで拡大)

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図20. ファゴ・デ・チャオというブラジルレストランで、4月23日の学会発表も終わっての打ち上げ。九大のメンバーと熊大神経内科の方とご一緒に。ここは次々と串刺しにした肉料理シュラスコが運ばれて来て好きなだけ切り分けてくれる。配られた札の緑の側を表にしている間は、次々と肉料理が回ってきて食べ放題。満腹になると札を赤色側にしてお終いに。ブラジルで現地のゴドイ教授に連れられて本場のものを食べたときの方が、やはりおいしかったような気がする。皆、発表も終わってホッとしている。僕が着ているのが件のメーシーズの袖が長すぎるカッターシャツである。(クリックで拡大)
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図21. 米国神経学会のすぐ後に、安倍首相が4月26日から5月3日まで訪米し、29日にはDCの米議会で演説を行った。このため、学会最終日の土曜日の午後にDCを散策すると、ホワイトハウス近辺の通りでは至る所に日本の国旗が掲揚されていた。(クリックで拡大)

 

 

 

 実は、僕はこの4月に日本内科学会総会会長選挙に無謀にも打って出たので、今年の1月から4月は予想外に忙しかったのである。僕は、一昨年まで日本内科学会の理事で九州支部代表を務めていた。在任中には九州支部の運営協議会を定期に開催するようにし、内科学会九州支部に初期研修医など若手医師の奨励賞を設けるなど活性化を多少なりともめざしたことだった。1月半ばに開かれた運営協議会で九州支部から15年と久しく会長を出していなかったので、僕に立候補の打診がきたという次第である。実は中国支部の方が、昨年の秋口から立候補準備して先行していると聞いた。ずいぶんと遅れて出るのもどうかと思ったが、九州支部は長いこと全く会長選挙と縁がなかったので、これではよくないという気持ちと、この度の専門医制度の改革で、神経内科は内科二階建てに位置付けられて、13ある内科のsub-specialtyの一つとなったので、やはり内科の中で神経のプレゼンスを少しでも高めた方がいいという思いから出ることに。中国支部に加えて四国支部の応援演説を得た対立候補者の2/3くらいの票数しかとれずに完敗したが、大幅に出遅れたにもかかわらず100票近くの票をいただき、本当にありがたかった。これには神経学会の会員の皆さんの厚い支援が大きかった。また九州支部の評議員の先生方には温かいご支援をいただいた。心から感謝している。独立した神経内科の教授が内科学会総会の会長を務めたことはまだないので、やはり神経学会からだれか内科学会総会会長に立って、内科の中での神経の重要性を伝えることが大切だと思う。

 もっとも僕は政治力がなくて選挙には弱いので、応援してくれる人には申し訳ないのだがよく負ける。教授になってからの神経内科の教授選でも優に二桁以上負けた。ただ教授選は、10回負けても1回勝てばいいからね。教室の大八木保政君が、この5月から愛媛大学老年・神経・総合診療内科学講座の主任教授に就任した(図22)。僕が九大の教授になってからでは、谷脇孝恭君(久留米大学神経内科教授)、原英夫君(佐賀大学神経内科教授)、古谷博和君(高知大学神経内科教授)に続いて4人目である。初代の黒岩先生時代の20年間の入局者で、九大以外の大学神経内科の教授になったのは、10人を数える。荒木淑郎先生(熊大・宮崎大・川崎医大)、村井由之先生(産業医大)、柴崎浩先生(京都大)、糸山泰人先生(東北大)、黒田康夫先生(佐賀大)、辻貞俊先生(産業医大)と前述の4名である(なお神経内科以外で教授になった方も少なくない)。大八木君が黒岩先生の最後の弟子なので、これからは後藤幾生第二代教授以降の入局世代である。これからの世代の人も、諸先輩にならってぜひ頑張ってほしい。


図22. ハンマーくんとオーヤギ君。オーヤギ君の絵は、彼の年賀状から取り込んだもので、僕の自作ではない。オーヤギ君は、教授の言うことも馬耳東風で我が道を行くタイプ。お互い長い間、我慢して付き合ったが、オーヤギ君がなぜ我慢したかは、わからない。僕が我慢したのは、彼がいつか患者さんのためになる画期的な発見をしそうな気がしたからだが、単にだまされていただけかもしれない。(クリックで拡大)

 今も昔も教授選は、表だって述べられないけれど、本当に大変。どの大学も教授会の投票で選ばれた選考委員が6~7名ほどで選考委員会を作り、応募や推薦の候補者のなかから上位3名の候補者に絞って講演をしてもらい、それも加味して順位を付けて教授会に諮り、そこでの投票数が多いものが選ばれるのが常である。臨床系の教授は、研究、教育、診療の3点から選考される。今時は、研究業績も論文が掲載されたジャーナルのimpact factor (IF)というのが集計されて比較される。各ジャーナルには、トムソンロイター社が出している、当該ジャーナルに掲載された論文が他のジャーナルに載った論文で引用された数に基づいて計算されたIFが、商品価値を示すかの如く付いている。これはジャーナルの評価であって、そのジャーナルに掲載された、特定の論文そのものの評価ではないけれども、集計された数字は選考で幅を利かせる。

 そもそも、症例報告を除いた研究論文(原著論文という)のIFの合計が200点くらいないと、選考委員会で足切にあって、その後の評価の対象にならないことも少なくない。3名の最終候補者は、この頃では国立大学ではIFが最低でも300点を越えるのが一般的である。臨床系では教授選の適齢期は、40歳代後半から50歳代前半である。大学院などに入って研究を始める年齢は、昨今、医学部では30歳を超えていることが大部分である。したがって、30歳くらいで研究室に入って、IFが付く英文ジャーナルに自身の名前が入った論文が載り始めて、凡そ20年ほどの間に研究論文のIFが、共著論文も含めて200から300点に達するためには、一流英文誌(だいたいIF4点以上をいうことが多い)に20年間毎年最低でも3から4編研究論文(年間IFで12から16点)を載せないと達しない。これは、教室が研究領域ごとにいくつかの小さい研究室に分かれている場合、研究室単位では容易には達成しがたい数字といえる。したがって、大学の教室によっては、研究分野が違っても組織的に共著者として名前を入れて、業績となる論文を増やしていることもままある。これは学術会議などからは、gift authorshipなのでやらないように戒められていることではあるが。

 僕が教授になった18年くらい前は、まだ上位3名の候補者が講演をするということもなかったし、IFもそれで選考が決まるほどには重要視されてはいなかったと思う(ちなみに僕は42歳でたまたま教授になったが、その時点では今のIFで計算しみても、原著論文合計43編240.684点(平均5.60点/編)、うち筆頭著者26編で150.312点(平均5.78点/編)となり、実際には当時のIFは今の半分から2/3位ではないかと思う)。この頃の候補者は、たくさんの研究論文の作成に加わってIFを稼ぎ、プレゼンも上手でないと教授になれないから大変である。いきおい研究ばかりやってきた人が有利になるけれど、この手の人は、ハンマーニューロロジー(神経学的診察とそれに基づいた診断)にも神経難病ケアにも熱心でないことがある。研究オンリーの人が地方大学の教授になるとなかなか大変である。九大神経内科は、黒岩先生以来研究だけでいいということにはしていないので、診療や教育面も含めてできる人しか候補者にはならない。九大神経内科から教授になった人は、研究、診療、教育などバランスよく関心をもってできる人だと思っている。地方の大学で神経内科をやっていくのは本当に大変だと思うが、大八木君にはぜひ頑張ってほしい。

 教室では、この何年間か臨床的研究から実験的研究・探索的研究へと軸足を移してきている。いろいろとおもしろい研究の芽が出つつある実感がある。昔は一人でコツコツと実験をやったものだが、今では科学が大きくなって、チームを作って一丸となってやらないといい研究成果は上がらなくなってきている。教室で研究する人も増えたから、今こそ一丸となってブレイクスルーをめざしたい。ところで、九大神経内科ではこの4月から今年度の病棟医が6名、大学院生が3名、新しいスタートを切った。全て男だから病棟医師室もむさ苦しくなった。医学部に入って、うちに入局するような人は、あまり負けも知らずに順調に育ってきた人が多いと思う。特に初期研修が必修化されてからは、入局者も神経内科に意欲があって人あたりのいい人が増えた気がする(以前の入局者は性格が悪かったなどという意味ではないが、好青年が増えたという印象)。新入局者は今年から本格的に神経内科医としての職業人生を始めるわけだが、人生はよく負け、よく叩かれるのが常である。また負け戦とわかっていても、最後まで戦わねばならないときもある。負けたら、またチャレンジすればいいだけのことだ。もっとも人生は、勝ち負けすら問題ではなく、ここに在るというだけで十分ではあるが。でも若い人は勝ちをめざして、戦った方がいい。その方が、人生は面白いからだ。九大脳研の次の半世紀を不戦敗にしてはならない。チャレンジするのは、君たちだ。

平成27年5月17日
吉良潤一