マカッサルの夕日にいきあたりばったりの縁を思う(平成27年8月15日)】


 赤道直下のマカッサルは、真夏の日差しが強烈だ。今はドライシーズンなので、インド洋からの風は、意外にも乾いていて心地よい。マカッサルと聞いて、ピンとくる人は少ないに違いない。マカッサル(旧名ウジュン・パンダン)は、インドネシアはスラウェシ島の南スラウェシ州の州都で、自由貿易で栄えた古くからの港湾都市である。ここにマカッサル人がゴワ王国をうちたて、13世紀から17世紀にかけて大いに繁栄した。インドネシア第3位にランクされる国立ハサヌディン大学はここにある。その名前は、インドネシアの英雄、ゴワ王国の最後の王スルタン・ハサヌディンにちなんでいる。香辛料貿易を独占しようとしたオランダと戦った英雄で、マカッサル人の誇りでもある。ハサヌディン大学の神経内科のムハンマド・アクバル教授が、第8回インドネシア神経学会(Kongress Nasional VIII/Perhimounan Dokter Spesilalis Saraf Indonesia, 英語だとNational Congress of the Indonesian Neurological AssociationSarafはインドネシア語で神経の意味)を主催するにあたって、僕は招待講演で呼ばれた。なんで僕にお鉢が回ってきたかというと、ハサヌディン大学神経内科から九州大学医学部の細菌学教室に留学していたムハンマド・ユヌス・アムランさんの学位審査を僕がした縁で、今は准教授として学会事務局を任されている彼が、僕の名前を思いついたからのようだ。

 もっとも招聘といっても旅費は自分もちである。日本の大学の神経内科の教授なら、スラウェシ島までは自費では来ないと思う。僕は、ユヌスさんの顔を思い浮かべて、断るのも申し訳ないなあという感じでつい引き受けてしまった。時差もあまりなさそうだし、さして遠くあるまいという軽い気持ちだった。ところが、福岡空港から羽田まで1時間半、羽田で2時間待ちしてジャカルタまで7時間半かかる。そこからさらにマカッサルまでは空路2時間である。空港での乗り継ぎ待ち時間を入れると、ざっと15時間ほどもかかってしまう。帰りは深夜便で一気に戻ってきたので、マカッサルのホテルを出てから福岡の自宅まで20時間もかかった。実は、行きはジャカルタで2泊してインドネシア大学神経内科で講演と回診を行った。これは、6年前にインドネシア大学の神経内科からリワンティ・エスティアサリ(インドネシアでは姓と名前が分かれていないので、これ全体が名前である)さんが、私たちのところに1年間ほど留学して、研究論文をMultiple Sclerosis誌に発表し、今は母校で教鞭をとっているためである。国立インドネシア大学は、いうまでもなくインドネシアのナンバーワンで、どの学部であっても、ここに入るとすごいことで就職には困らない。

 

 夜になってようやくインドネシア大学の隣のホテル(Double Tree Hotel)にたどり着く。翌朝は、午前9時から大学でミーティングがあり、午前10時から講演である。行ってみると、さすがはインドネシア大学だけあって、会場はびっくりするほど由緒のありそうな講堂である(図15)。入り口にはシンポジウムの案内が掲げられていて、1時間の講演と聞いていたが、時間表をみると僕が話す時間は30分ほどしかない。困ってリワンティ・エスティアサリさんに相談すると、時間は気にしないで1時間話してもらっていいという。最初にリワンティ・エスティアサリさんが、インドネシアでの多発性硬化症(multiple sclerosis, MS)の診療の状況を話した。リワンティ・エスティアサリさんは、インドネシアのMS患者団体の立ち上げを支援している。インドネシアでは、HIVの治療薬(インドから購入)は全額国が負担する一方、MSのインターフェロンベータなどの治療薬は個人負担とのことである。このため、あいかわらず再発予防には、アザチオプリンなどの免疫抑制薬が使われていて、インターフェロンベータは3割程度で使用されているにすぎない(フィンゴリモドなど他の治療薬はほとんどまだ使われていない)。インドネシアではHIVが急増しているようで、リワンティさんも、HIVキャリアーにおけるサイトメガロウイルス感染症など日和見感染を、今は主に研究していて、神経感染症研究グループの責任者みたいな感じである。インドネシア大学では、HIV4000人くらいのコホートがあると聞いた。同じグループで若手のCiptoさんがHIV neuropathyを研究しているとのこと。東南アジアの国々では、神経感染症の比重がとても大きい。ただ、そのうち衛生環境がよくなると神経免疫疾患が増えてくるから、これからも研究を続けたらいいよと僕は助言する。結局、僕は講演では1時間くらい話したが、その後に、聞き取りづらいインドネシア英語でいくつも質問が来て大変だった。シンポジウムは2時間余りかかって表彰状と記念品の授与式でもって終了となった。アジアの国々で講演すると必ず表彰状(Certificate)をくれるので、これを集めるのが趣味みたいなものである(図6)。記念品は、インドネシアのバティックの上等なシャツで、絵柄がほとんど琉球チックで、やはり海洋民族としての浅くないつながりを感じる。

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図3. インドネシア大学医学部神経内科の皆さんと。横断幕まで掲げられていて、これだけたくさんの人たちと写真におさまるのは、感激的。医学部は女子学生が半分以上で、とりわけ神経内科は女性が多いという。男子学生は、工学部や経済学部などお金が儲かるところにいくという。インドネシアでは医師は給料が下がり気味と聞いた。(クリックで拡大)
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図2.インドネシア大学医学部設立時の建物の絵がエントランスに飾られている。建物の配置は、今と全く同じ。(クリックで拡大)
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図1.インドネシア大学医学部の建物は、オランダ建築風の威風堂々としたものだった。(クリックで拡大)

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図6. インドネシア大学医学部から授与されたcertificate。(クリックで拡大)
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図5. 歴代の医学部長の写真が掲げられた立派な講堂で講演開始。(クリックで拡大)
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図4.講堂の入り口には、シンポジウムの案内が、僕の写真とともに掲げられていた。(クリックで拡大)

 

 

 


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図7. インドネシア大学医学部神経内科のレジデントの皆さんと。どの人も明るくて聡明そう。 インドネシアのトップエリート。リワンティ・エスティアサリさんは、日本ではヘジャブはしていなかったが、 3年位前から着用し始めたとのこと。インドネシアに来て、ヘジャブも色とりどりで留め金もいろいろな飾りがあるのがわかった。 ここではファッションみたいなものか、あるいは、白髪が出てきたりしたら、かぶるのか。 イスラムの指導者は、女の子には、包まれたキャンディーとむき出しのキャンディーとならどちらを男は選ぶか、 というようにして説諭すると聞いた。(クリックで拡大)
 

 午後は、症例検討会に出てほしいという話しを聞いていた。気軽に引き受けていたが、これが4例ほども次々にレジデントがスライドでプレゼンし、患者さんやそのご家族までいて、僕が診察をするのである(7)。シャウカステンにはMRIなどのフィルも用意されている。診察してコメントを言うのは、一向にかまわないのだが、その後に診察の結果を患者さんやご家族に英語で僕が説明するのである。まるで日本でいったらセカンドオピニオン外来を、ボランティアで次々と4例もやっているようなものである。最初のケースは、10年にも及ぶ多彩な再発・寛解歴があり、MSが疑われているが、脳・脊髄MRIに異常がないという。診察所見からはconversion disorderいわゆるヒステリーと思われたが、困ったことに視覚誘発電位検査や体性感覚誘発電位検査で中枢潜時の延長があり、脱髄も否定できない。このようなPsychogenic overlayがひどくて、わずかな検査異常があるケースというのが、実は一番対応が難しい。病気の診断、これから必要な検査、治療方針を、患者さんや家族に英語で説明するのは、とても骨が折れた。外国に呼ばれて診察する機会もよくあるが、診察をしてIC(インフォームドコンセント)までやらされたのは初めての経験だった。こんな調子でケースカンファレンス(というかセカンドオピニオン外来)が4時間ちかくもぶっ続けで、終わるころにはもう夕方である。最後の20歳代になったばかりの女性の方は、パルス療法や血漿交換を10回もやって人工呼吸器は脱したが四肢麻痺と筋萎縮を遺し寝たきりだったので、病室まで診察に赴いた。おそらくcombined central and peripheral demyelination (simultaneous onset type)か、軸索も強く障害されるimmune-mediated myeloradiculoneuritisで、高位頚髄以下が全て障害されている。これからの人生を思うと、かける言葉も見つからない。丁寧に診察して診断と治療について誠意を込めて話す。いつも九大病院の回診で5時間くらいぶっ続けで患者さんの身体診察をしているおかげで乗り切れた。ここのレジデントは、とても優秀で人柄のいい感じの人が多い印象を受けたが、なぜそうかはマカッサルに行って初めてわかった。

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図9.インドネシア大学医学部の共通研究ラボには、日本(JICA)から寄贈されたシークエンサーなどが所狭しと配置されていた。 研究費があれば、ここで研究ができるということ。ただインドネシアでは医学部で、研究をしてPhDをとるのは、まだハードルが高いという。(クリックで拡大)
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図8.病院の神経内科スペースの入り口には、立派な看板が掲げられている。RSCMが、Ruma Saki Cipto Mangunkusumoの略。 インドネシアの人名はあまりに長いので略を使わないと不便。(クリックで拡大)
 

 インドネシアでは病院のことをRuma Sakiという。Rumaは家、Sakiは病気という意味である。たとえば、ハサヌディン大学病院は、Ruma Saki Wahidin Sudirohusodo(略してRSWS、ワヒディン・スディロフソド病院)といい、インドネシア大学病院は、Ruma Saki Cipto Mangunkusumo(略してRSCM、シプト・マングンクスモ病院)である(図8(図9)。このワヒディン・スディロフソドやシプト・マングンクスモというのは、インドネシアで最初の医師の名前である。オランダの植民時代に初めてオランダ医学を学んだ3人の医師たちの名前にちなんでいる。ちなみにワヒディン・スディロフソド医師の家系は、マカッサルの出身でハサヌディン大学病院の入り口に、その写真とともに大きな家系図が掲げられていた。インドネシア大学神経内科は、スタッフ30人、レジデント70人の大所帯である。レジデントの数がえらく多いなと思って聞くと、関連病院が合計5つもあって、神経内科のレジデントは4年のコースで、他の島にある関連病院も含めてローテートするためだという。


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図10. 症例検討会のあとは、病棟のレジデントの皆さんが歓迎会をしてくれた。 年長の方は、欧州で27年間、Neuroscienceの研究を重ねた方で、最近、インドネシア大学神経内科に戻られた神経科学関係のディレクター。(クリックで拡大)
 

 ジャカルタでは、丸一日講演と回診のみで、観光なし。病棟スタッフとのディナーは、グァバ、マンゴー、オレンジ、リンゴ、トマトなどジュースのリストはたくさんあっておいしいが、アルコールはなし(図10)。で、翌朝は、もうマカッサルへの移動である。飛行機はずっとガルーダ航空のエコノミーである。ガルーダはインドネシアのナショナルフラッグだが、10年前に福岡空港で離陸に失敗して死者3名、負傷者109名の事故を起こした印象が強く、懸念もある。案の定、ジャカルタからマカッサルに発つ便は、出発が2時間以上も遅れた。果たしてマカッサルのスルタン・ハサヌディン空港では、出迎えは待ってくれているか。

 

 

 

 

 到着ゲートを出ると、小柄で髯を生やした人と大柄で腹の突き出た人が駆け寄ってくる。九大の学位審査のときは、研究者のイメージだったが、こちらでは、顔つきもほとんどマカッサルの海賊といった方がピッタリくる。小柄な方がムハンマド・ユヌス・アムランさん、大柄な方がディ・アクバルさんである。名前からしてイスラム系だが、ブディさんは、今度のインドネシア神経学会を主催しているムハンマド・アクバル先生の息子さんということ。アクバルさんには、ディさんを頭に3人のお子さんがいて、3人ともハサヌディン大学医学部である。ハサヌディン大学の医学部は、インドネシアで3番目に難しいらしい。7000人が受験して合格するのは、わずか300人である。これが一番難しいインドネシア大学医学部となると1万人が受験して300人しか通らない。以前うちに留学していたインドネシア大のリワンティ・エスティアサリさんは、見るからに上品で頭脳抜群の印象だったが、マカッサルの海賊の末裔も実はインドネシアでは、とても優秀な人たちだった。ディさんは、ハサヌディン大学病院の神経内科の1年目のレジデントである。ディとは、インドネシア語では優しいという意味であるらしい。上の妹さんユニさんが夢、下の妹さんプテリさんがプリンセスという意味で、とてもチャーミングな名前。お父さんが学会に子供たち皆を連れて行って、その後姿をみて医学部に進むと決めたという。このお父さんは、広島大学薬学部で学位(PhD)をとっていて、ディさんも小学校の1年から4年まで広島で過ごしたといい、なんと日本語がぺらぺらである。おかげでいろいろなことを聞けてとても楽しかった。しかし、なぜ小学校4年までしか日本にいなかったのに、25歳の今になっても日本語を話せるのか不思議に思って聞くと、家で両親が日本語を忘れないようにインドネシア語と日本語を半々で話していたからだという。両親はもちろんインドネシア人なのに、恐るべき教育一家である。この兄妹皆で海外からの学会招聘講演者を市内観光やらに連れて行っているのである。すごい団結力で驚く。我が家は全くいきあたりばったりで教育無計画だったが、アクバル家みたいにしっかり教育計画を立てて育てると、立派に子供も育つものだなあ。


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図11.Grand Clarion Hotelの6階にある大臣が泊まるという特別室の外はテラスになっていて、そこから直接プールに入れる。 女性や子供も夕方にはたくさん泳いでいる。 女性の水着は手首、足首まで覆われていて、遊泳中も肌はほとんど出さない。 僕は日中泳いでいたら、それだけで強烈な日差しに肌が焼けてしまった。 女性の水着には、この強烈な日差しから肌を守るという意味もあるか。(クリックで拡大)
 

 学会の会場も宿泊も、マカッサルではご当地一番のGrand Clarion Hotel and Conventionである。僕の泊まる部屋は、大臣が泊まる部屋という。部屋はホテルの6階にあるのに、カーテンを開けると、衝撃の光景(図11)。なんと大きなプールに、木製のデッキテラスから直接入れるというデラックスさ。このような部屋は、見渡したところ一列6部屋くらいしかない。その真ん中の部屋を使わせていただいた。隣は、九州大学薬学研究院のノダ先生が、神経学会なのになぜか呼ばれていて、すでにチェックインされているとのこと。テラスに出てふと隣を見ると、ノダ先生がデッキチェアーに寝そべってティーを飲んでいる。まさに風景に溶け込んで、インドネシアの妖しげな大金持ちの奥様かと思った。ところで、部屋にはデスクがない。普通はインターネットに接続できるような事務デスクがあるのだが、ここにはない。大臣ともなると、自分でパソコンを打つなど事務作業をする必要はないから、大臣の泊まる部屋にはデスクがないのかと納得。マカッサルで一番大きいというプールで泳いで、つかの間の大金持ちの気分を味わう。着いた夜は、当ホテルでコングレス・ディナー(会長招宴)である。ただ、ここでもアルコールはなし。アルコール抜きでこれだけ延々と宴会が続くのが、信じ難い(図1214)。ハサヌディン大学神経内科は、スタッフ20名、レジデント42名の、これまた大所帯である。ただ、医学博士号あるいはPhDを持っている人は3名と少なく、いずれも日本で学位をとったという(自前でPhDを造るというところまでは、臨床医科学が成熟していないのかもしれない)。それで日本語をしゃべれる人が意外に多いのに驚く。PhDをもっていないとProfessorにはなれないということで、ここでもPhDをもっていることの価値が大きいのだった。

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図14.インドネシアで二つめのCertificate(クリックで拡大)
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図13.会長招宴後に皆で勢ぞろい。僕が手にしているのは表彰状(クリックで拡大)
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図12.マカッサルでの会長招宴(Congress Dinner)。 私の隣が会長のアクバル先生、後ろが事務局長のアムラン先生。 左の3人は、neurointerventionistsで、アクバル先生の隣がインド人でドイツから来た招待講演者のシャキール・フサン先生という血管内治療の専門家。 後列にはノダ先生も。(クリックで拡大)


 着いた翌日には、ディさんがいろいろと市内観光に連れて行ってくれた。817日のインドネシア独立記念日(搾取を重ねたオランダからの独立)が近いので、街角ではあちこちに上半分が赤、下半分が白のシンプルなインドネシア国旗がひるがえっている。海岸沿いには、軍隊のものも入れるとサッカー場がなんと5つもあって、ここインドネシアではサッカーとバドミントンが人気という。このくそ暑い中、サッカーをするとは驚きである。ハサヌディン大の医局対抗サッカーでは、手術部が最強という。神経内科が弱いのは、ここでも同じのようだ。ハーバーにはカラオケ店の看板がやけに目に付く。ディさんに聞くと、インドネシアのカラオケには2種類あって、ファミリーカラオケ店の健全なものとカラオケプラスプラスといういかがわしいのがあるという。プラスプラスの方は、歌を歌うと女性がいやらしいサービスをしてくれるという。この手の店がハーバーに多いのである。こんなふうにしてHIVはインドネシアで果てしなく広まりつつある。

 観光は有名な蝶の谷(Bantimurung)に連れて行ってくれるというが、まずはハサヌディン大学を案内してもらった。ハサヌディン大は1学年5000人の巨大な総合大学である。九州大学とも交流協定を結んでいる。驚いたことに、ハサヌディン大は広大な森の中にあった(図1519)。 

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図17. 医学部の構内に入ると、そこはまた木々がいっぱい。森の中に建物が埋もれている印象。(クリックで拡大)
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図16.果てしない並木道を抜けると、ハサヌディン大学医学部の南国風の建物があった。 入り口には蛇が巻きついたアスクレピオスの杖。左端の赤と白の旗がインドネシアの国旗。我が日の丸も赤と白だから、同じ海洋民族として近しい感じ。(クリックで拡大)
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図15.ハサヌディン大学の敷地では大きな街路樹の並木道がどこまでも続く。(クリックで拡大)
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図19. 構内には立派なモスクが建っている。その後ろは、無数に続くドーミトリー(学生宿舎)の建物。(クリックで拡大)
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図18. 3週間ほどの夏季休暇中なので、構内に学生の姿はまばら。木陰で女子学生がグループ学習している。木陰は本当に涼しい。 マカッサルは、日差しは強烈だが、空気は乾いている。このごろの博多では、空気が熱気をはらんでいてふれると暑いが、ここではそんなことはない。 直射日光にあたらなければ、しのぎやすい。(クリックで拡大)

 丈の高い熱帯の樹木の中に、南国らしい色彩に彩られたビルが、ポツリポツリと建っている。湖みたいな池、無数のドーミトリィー(学生宿舎)、そしてモスクまであっていて、それは広々としている。今は、乾季で、空気も湿気がなく、日陰では樹木を吹き抜けてくる風が心地よい。病院は、パブリックとプライベートと二つ別々に建っている。国立大学の医師は、朝から午後23時くらいまでパブリックの誰でも診る病院で働いて、その後は金持ちが行くプライベートな病院で働く(図2022)。ジャカルタとマカッサル、インドネシア大とマカッサル大と比べると、雰囲気がずいぶん違う。活気があってあわただしいジャカルタと明るくてのんびりしているマカッサル、エリートで学究肌のインドネシア大と開放的なハサヌディン大と両方を訪問して、その違いを感じることができたのは、よかった。

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図22 ハサヌディン大学のプライベート病院のモダンな建物。(クリックで拡大)
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図21.ハサヌディン大学のRuma Saki Wahidin Sudirohusodo(RSWS) 病院の入り口には、Wahidin Sudirohusodo医師の写真と家系図が掲げられていた。 神経内科の看板と外来(Sarafは神経、Poliklinikは外来) 。(クリックで拡大)
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図20. ハサヌディン大学病院のパブリックな方のがっしりしたビルディング。赤と白のツートーンカラーの巨大な建物。(クリックで拡大)

 

 


 

 インドネシアは、2億人を超える人口があり、日本の5倍以上の国土がある大国である。医師一人当たりの患者数は9000人と、医師は全然足りない。医学部の新設は、大学病院を建設する費用がかかるため、なかなか進んでいないという。特にパプア・ニューギニアは、あれだけ広い土地に神経内科医は3人しかいないという。パプア・ニューギニアは医師の給料は3倍高いけれど、マラリアがはびこっていて、ディさんの先輩もこのごろ脳マラリアで死んだと聞く。


  インドネシアでは6年制の医学部を卒業すると、日本同様に医師国家試験がある。その合格率はなんと50%以下という。年に4回国家試験があって、ディさんも2回目でやっと通ったという(ちなみに妹のユニさんは、2回も飛び級して、1発で国家試験も通った超秀才である)。2年のうちに通らなければ、医学部の5年からやり直しになる(何回もやり直しになると放校である)。ただこれに受かっても、卒後2年間は仮免許のような状態で医療全般を研修する。ディさんも医師が3人しかいないどこかの島の病院で、内科から外科・産婦人科までなんでもやったという。その後に、もう一度試験を受けて合格すると本物の医師資格になるという。これから先は、general practitionerGP、一般家庭医)のままで行くか、様々な領域の専門医になるかである。

 驚いたことに、神経内科などの専門医のレジデントコースは、半年ごとに授業料を支払わねばならないという。国立大学病院と私立大学病院で専門医のレジデントの授業料は異なっていて、ディさんによると、国立は10万円程度、私立は100万円もするとのこと。専門医コースは4年である。私立だったら終了するまでに800万円もかかってしまう。これはなんぼなんでもディさんの計算間違いではないかと思うが、プテリさんもインドネシアでは専門医コースの授業料が高すぎて、なかなか専門医になれずGP が多いのが問題と話す。国立大学病院の専門医コースのレジデントは、30%の合格率しかないので、落ちたら私立大学病院しかない。いきおいGPを何年もやってお金を稼ぐかローンを借りるかして専門医コースのレジデントになるという。これでは専門医になりたくてもなれないわけである。ハサヌディン大学でも医学部の卒業生300人のうち、GP200人、専門医が100人という。道理でインドネシア大学病院やハサヌディン大学病院の専門医コースのレジデントが優秀なはずである。彼らは厳しい選抜試験に受かって、自分でお金を払ってレジデントをやっているのである。レジデントになるための選抜試験があるだけでも驚きなのに、レジデントの側が授業料まで払っているとは!!! 日本では、教授みずからが各科の専門医を増やすために入局の勧誘にあたっているのに、インドネシアではレジンデントを教育するのに授業料をとっているとは。本当にうらやましい話だけれど、どちらが国民にとって幸せかは一概に言えない気もする。もっともこの収入のおかげでインドネシアの大学では、医学部は他の学部よりリッチで建物も新しいものを造ることができるという。インドネシアでは、GPより専門医の方がずっと給料が高いということなので、インドネシアの専門医というのは、実はとっても価値がある。

  その後、蝶の谷に向かったが、驚いたことに、片道3車線くらいの幅なのに、車線がない。全く無秩序に車が走っている。その間を無数のバイクが、すり抜けていく。びっくりして聞くと、車線がないのではなくて消えてしまっているのだという。中央分離帯があるところはいいが、中央を分ける車線も消えているところなどは、反対車線の車やバイクがこちら側にはみ出してくる。朝夕はひどい混雑である。ここは地盤に水が多いので、地下鉄は掘れないという。モノレールも5年前から計画だけで止まっていると聞く。インドネシアはやはりインフラが貧弱なのが、発展を妨げている。ディさんは、携帯電話を右手にもって話しながら、左手で器用にハンドルを回してバイクをよける。この人は、まだ25歳というのに、英語、日本語を巧みに操り、気配りが細かく人脈も豊富な恐るべき若者である。


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図24. 蝶の谷にはいくつも滝があり、たくさんの人が水遊びをしている。マカッサルから車で1時間ほどの距離にあり、観光客も多い。(クリックで拡大)
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図23.川沿いに熱帯の密林(左)を歩くと、汗が玉のように吹き出てくる。蝶の谷(右)はとても静か。9月にならないとたくさんの蝶は出てこないという。(クリックで拡大)

 マカッサルの郊外に出ると、もう青々とした水田が広がっている。日本と同じ稲作の文化圏と感じる。Bantimurungのあたりは国立公園になっていて、熱帯のジャングルの中を500メートルも歩くと、蝶の谷に出る(図23)。大きな谷がいくつもあり、水につかると、とても気持ちがいい(図24)。


 帰りには、ロッテルダム要塞の前の、マカッサル港に面したカンプン・ポプサという地元の店で、インドネシアの焼き鳥、Sate Ayanをいただく。Sate Ayan Pedasは辛いやつ、Sate Ayan Manisは甘いやつである。ここで、久々にビールを飲んだ。よく冷えた地元のビンタンビール(Bir Bintang)は、汗をかいた後でとてもおいしかった(図25)。ロッテルダム要塞は、もともとはゴワ王国の亀の形をした砦である。亀の頭は、海洋を向いていて、在りし日を偲ばせる(図2627)。

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図27. ロッテルダム要塞の亀の頭の位置から、マカッサルの港を遠望する。(クリックで拡大)
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図26. ロッテルダム要塞の亀の頭の部分から要塞の全貌を見る。(クリックで拡大)
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図25. ロッテルダム要塞の前のレストランでやっとありついた地元のBintangビールは、よく冷えていて、とてもおいしかった。 手前のが、インドネシアの焼き鳥、Sate Ayan。奥の皿は、Cumi Cumi。これはイカで、日本のイカリング。(クリックで拡大)


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図28. スープは、Sop Igaといって、牛のリブ(アバラ肉)を煮詰めたもの。 これはとてもおいしかった。マカッサには、日本人が五十家族、百数十人も住んでいて、日本との友好協会もあるようで親日的。 日本との時差も1時間だし、仲良くしたいものだ。(クリックで拡大)

 夜には、日本人がオーナーのトアルコ・トラジャコーヒーの専門店に連れて行ってくれた。地元のトアルコ・トラジャコーヒーのカプチーノは、とてもおいしく、トアルコ・トラジャコーヒーを医局のお土産にたくさん買い込む(図28)。ここのマネージャーは、みどりさんといってマカッサルに来て5年という。しばらく前に、デング熱にかかったそうである。3日ほど熱が続いて治らないので病院に行ったら、デング熱とわかり入院したという。ディさんも3ヶ月ほど前にデング熱にかかってICUに入院し、血小板が9000くらいに減って、あやうく死にかかったという。デング熱はこわい。ここでは蚊は要注意である。ところで5年前にバリ島に行ったときに、葬式が派手なのでびっくりしたが、ここマカッサルでは結婚式が一番派手な行事で1週間ほども宴会が続き、普通でも1億ルピアほども費用がかかるという。ちょうど、僕が帰る日には、ハサヌディン大学の学長の子息でインドネシアの副大統領(マカッサルの一番の金持ち)の甥にあたる方の結婚式が同じホテルで開かれるということで、大変な賑わいである。ホテルのエントランスには、日本で言ったら花輪や生花にあたる色とりどりの看板が掲げられていて、これは多くの政治家からの贈り物である。僕は月曜日の勤務もあるので、残念ながら帰国しないといけないが、薬学研究院のノダ先生は豪華結婚式に特別ご招待である。うらやましい。


 マカッサルの最終日の3日目は、いよいよ仕事である。実はこちらにくる直前に、Meet the Expertのセッションで、コメントをしてほしいという連絡が入った。ただ、いつにそのセッションが開かれるのか連絡もないし、そもそも依頼されていた講演も1時間と言われていたが、日本を発つまでプログラムも送られてこなかった。到着後に初めてもらったプログラムを見ると、午前730分から815分までMeet the Expertのセッション、平行して午前745分から845分までinternational symposiu-2で、僕とオーストラリアの教授が話すことになっている。いつの間にか講演時間が半分になっていて、しかもMeet the Expertのセッションと重なっているのである。びっくりしてアクバルさんに聞くと、気にしないで1時間話していいいという。このいい加減さに驚く。

 マカッサルではディさんと日本語で話してばかりいたから、インドネシア英語がなかなか耳慣れてこないので、Meet the Expertセッションのヒアリングがうまくいくか心配である。不安にかられながら、午前730分からの同セッションに出かけて行った。ところが会場は真っ暗で誰もいない。3会場ほどあるMeet the Expertセッションは、どこも参加者がいないのである。さすがにcase presentercommentatorだけでは、やる意味がないので中止となった。聞けば、昨夜は午前1時までインドネシア神経学会の評議員会があったためだという。なんでそんな深夜まで話し合いをやっているのかと尋ねると、実は500人ほどのメンバーでのインドネシア神経学会の理事長を選ぶ選挙があったのだという。それに件のアクバル教授が出ていて、現職との一騎打ちだった。地元の開催でインドネシア大出身の候補もいなかったので、二度とないチャンスだったが、大変残念ながら僅差で敗れたようである。どこでも選挙は熱が入るんだね。今までいろんな学会に出たが、出席者ゼロでプログラム中止は、初めての経験である。


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29. このInternational Sessionだけは、日豪の共同作業で時間ピッタリに終わった。とても広い会場で。私とDavis先生。(クリックで拡大)
 

 International symposiumは、一番広いメイン会場である。さすがにここは参加者が、そこそこあって一安心。アクバルさんは、1時間話してもいいというが、そういうわけにもいかないので、急遽用意したスライドを短縮することに。シンポジウムの座長のTeguh Ranakysuma先生に挨拶していると、横からオーストラリアの次の演者の先生が、30分より絶対に遅れないようにとわざわざ声をかけてくる。時間にゆるいインドネシアタイムにならって、ゆっくり話そうかと思っていたら、プレッシャーをかけられてしまった。きっちり30分で講演を終わると、件のオーストラリアの先生がnice lectureと声をかけてくる。これは30分ピッタリで終わったからである。このGlen Davis先生はPhDで、運動麻痺後に電気刺激(Functional Electrical Stimulation, FES)で麻痺した筋肉を動かすと、筋肉の代謝が保たれて、糖尿病や心血管イベントが減ったり、歩行が改善したりすることを話した。このFESは、日本でも一部では取り入れられている(図29)。インドネシアの学会は、今まで出た世界各国の神経関係の学会で、一番いきあたりばったりだった。インドネシア神経学会は1500人ほどで、発展途上の若々しい学会である。学会全体のテーマは、Basic to Clinicalということで、基礎的な話題も多く取り上げられ、意欲的な構成である。僕は出られなかったが、学会最終日の日曜は、市長も出席して、NeuroMoveという市民啓発活動をマカッサルのハーバーでやるということだ。将来は、2億人の人口に見合うくらいに、インドネシア神経学会も発展するに違いない。これまでのinvited speaker一覧を見せてもらうと欧米の方が大部分で、日本から参加して多少なりとも学会に貢献できたのは、よかった。  



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図31. 豪華な食事。カニ(右上)はチリソース、タイ(右下)は唐揚げ、スープはアスパラガス、左写真の手前の大きな魚はハタ、ジュースはJus Markisaという甘酸っぱい味のもの。(クリックで拡大)

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図30. たくさんのカニ(Kepiting)、海老(Udang)、貝(Kerang)、魚のなかからブディさんが選んでくれたのは、鯛(Takap)、ハタ(Ikan kerapuまたはSunu)、カニ、海老である(右)。(クリックで拡大)

 さて、講演も終わると、もう最後の食事である。地元のApongというシーフード店に連れて行ってくれた。ここはその日に取れたカニや魚のなかから、これとこれをとその場で選んで、調理してくれる(図3031)。鯛の丸ごとの唐揚げは初めて食べた気がする。ビールがないのが、とても残念。



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図32. マカッサルの夕日は、とても大きい。(クリックで拡大)

 帰りの飛行機の便に空港へと向かうころには、丁度夕刻である。港通りを歩むと、インド洋に沈む大きな夕日が美しい(図32)。土曜日の夕刻とて多くの人々が港に集まり、今夜は露天が並び賑やかになるという。海の中に建つモスクからコーランのゆったりとした物憂い旋律が港町中に響き渡り、ディさんと別れがたい気持ちになる。マカッサルまで来たのも、たまたまユヌスさんの学位審査にあたったというだけに過ぎない。人生は、いきあたりばったりの縁でつながっている。そんなあたりに人生のおもしろさと味わいがある気がする。インドネシアに来て、インドネシア人の患者さんを診て、インドネシア人の主治医とディスカッションして、インドネシアのコーヒーを一緒に飲んで、ようやくわかったということもある。日本の若い人も、ときにはわずかの縁を頼りに海外に行って研究や診療の現場をみたらいいね

 

 

 

平成27年8月15日
吉良潤一