嶺南で綴る教授の四季 (平成27年8月15日)】


 広東省の北域と江西省・湖南省の南域を境する山嶺の南側の一帯を、嶺南(リンナン)といい、広東、香港、澳門(マカオ)などが含まれる。この日、台風1号の影響か上海は悪天候で、上海経由の国際便は大幅にダイヤが乱れた。広州と上海の空港で合計10時間ほどの長い待ち時間となった。私たちの教室もようやく大学院生が増えて研究費も多く必要になり、様々な研究費の申請書やそのもとになる論文を書くのに急がしいままこの1年が過ぎた。締め切り間近の投稿論文の査読を3編ほども終え、あと難病の研究費の申請書を仕上げないといけないが、予定外の長い飛行機待ちの時間に申請書を書くのもしんどいので、教授の四季を振りかえって文章を書いてみようと思った。

 例年、7月のこの時期は、同門会総会が終わってホッと一息ついている。九大神経内科の同門会総会は7月の第1土曜日に執り行われるのが、後藤先生の代からの慣わしである。同門会総会では毎年出版している教室報を配り、この一年の教室の活動をスライドで報告する。教室報は、びっしり120頁ほどもあり、論文・学会・班会議発表や獲得した研究費を漏れなく記載するのは、骨が折れる。それで、同門会総会がつつがなく終わると、一年の区切りがついたと感じる。この時期は国内外ともに年次学術集会はほとんどないので、個人的に呼ばれた国際シンポジウムなどに割合と気楽に出かける。

 今年は広州市の中山大学第3病院神経内科が主催する第4回嶺南国際神経病学・神経免疫学大会という超ローカルな学術大会に呼ばれたので、迷う気持ちもあったが出かけることにした。実は中山大学第3病院神経内科の孔(Qui)准教授が、中国神経免疫学会の事務局長を務めていて、来年に中国神経免疫学会にお世話いただくことになっている第2回Asia Pacific School of Neuroimmunology (APSNI)の打ち合わせがあった(国際神経免疫学会のWee会長から、第1回APSNIを日本神経免疫学会でやって勝手もわかっているだろうから、中国に行って話をしてきてくれというわけである)。

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図1. 到着するやいなや連れて行かれたディナーで最初に出された生のライチ。ライチの皮は黒いと思っていたが、実は赤い。あとで隆先生が土産にライチの束が詰まった大きな箱をくれたが、全部日本に持って帰るわけにもいかないので、夜毎に食べる。一部は生のままこっそり持って帰る。

 福岡空港から上海経由で意外に7時間ほどもかかって広州市白雲空港に着く。今日の日程表では学会場のホテルでnight snackと書かれていたので、夕食は軽くホテルでとるものと思っていたら、ホテルに着くと熊大神経内科の安東教授によく似た人が出迎え、隆(Ryu)教授だといい、ホテルにトランクを置くのもそこそこに広東料理のディナーに連れて行かれた。初めに取れたてというライチ(茘枝、レイシ)を次から次へと葉っぱのついたまま皿にとってくれる(図1)。この7月しか生の取れたてはないという。かつて中国ではこの季節に領南しかとれないライチは、はるか長安の楊貴妃のもとに早馬で届けられたと聞く。これはとってもジューシーでまろやかな甘さ。10人余りのメンバーがそろうと乾杯が始まった。貴州産マオタイ酒(茅台酒)を片手に一人が立って、何か中国語で挨拶をがなって乾杯、また別の一人が立って乾杯。僕の隣は米国在住の脳卒中の基礎研究が専門という中国人研究者で、なぜかこの人と安東教授似の人の前にはワイングラスがあって、デカンターから赤ワインがしきりに注がれるが、僕のところはいつまでたってもマオタイ酒しかこない。しかもこの安東教授似の人がひっきりなしに立ち上がって、自分はワインで乾杯を叫ぶ。こいつはワインで俺はマオタイかと思いつつ、飲み干す(まだ広東では盃を空にしたのを見せないといけなかったので、アルコールに弱い人には広東はキビシイかも)。部屋に戻るころにはフラフラ。この顔立ちの人は中国人でも要注意。

 翌朝一番は二日酔いの頭で、中山大学第3病院を訪問した。広州市は古くは珠江(シュコウ、中国読みではジュウジャン、Pearl River)の北岸に広州城として開かれ、現在は北京、上海に継ぐ中国第3の大都市となっている。人口は1000万人を越え、南越国以来、海外との交易で繁栄し、今も多くの外国人が暮らす。事実、中国を訪れたなかでは、初めて通りで頻繁に黒人をみかけた。中山大学(San Yat Sen University)は、建国の父、孫文(孫中山)を名前とする中国トップ10内にランクされる名門大学である。医学部以外のキャンパスは、珠江南岸にあり、さすがに中国でもベストスリーの美しさといわれるだけあって、濃緑の亜熱帯の木々の間にレンガの校舎が点在する広大なキャンパスは、中国とはとても思えない(図2)。センターストリートを行くと博学をはじめとする孫文の校訓がかかげられている(図3)。今は夏季休暇中だが、若い人が闊歩する構内は活力を感じさせる。医学キャンパスは珠江北岸にあり、門をくぐると、「医は病を治し体を治し心を治す」と大書されている(図4)。教室ごとに独自のビルが建っており、外科の巨大な新築ビルディングと年代物の基礎教室や博士課程の学生宿舎のあまりの対比は、財力の違いによるものか(図5)。孫文は、広州で医学を学んだので、ここにその名を冠する大学があるのも頷ける(図6)

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図4. 医学部正門をくぐると中山医科大学のメインビルに医の心が掲げられている。
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図3.博学、審問、慎思、明弁、篤行の孫文の5訓。
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図2. 中山大学メインキャンパス。果てしなく続くセンターロード。
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図6. 若き日の孫文が広州で医学を学んでいたことを示す展示。
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図5. これが外科の医局(教室)が入っている巨大なビル。 1階に中国銀行が入っていたので、銀行のビルかと思ったら、これは外科教室だけのものだと聞いてビックリ。 病院は別。外科は、どこでもリッチ。さぞかし教授室は豪華に違いない。

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図7. 中山大学第3病院。これは外来棟。外科病棟や内科病棟は別の建物だった。とにかく中国は人が多いから病院もスケールが大きい。

 中山大学第3病院は、医学部キャンパスからは東に行った新しい広州市の中心地(天河区)にあった。市のシンボル広州タワーやオペラハウス、高層ビルが立ち並ぶ一画に聳え立っていた(図7)。中山大学病院は全体で3600床、ここ第3病院だけで1600床だという。第3病院の神経内科は年間4000人の入院患者があり、平均在院日数は10日だと聞く。中山大学第3病院は、中国共産党から公認された多発性硬化症(MS)研究拠点で、それを示す看板が病棟には掲げられていた(図8~10)。米国では、神経内科で疾患別に一番医療費が総額かかっているのは、断トツでMSである。これは高額な疾患修飾薬が使用されているからに他ならない。一方、中国ではMSの疾患修飾薬は一つも保険承認されておらず自由に使えないと聞いた。GDP世界一位と二位の大国でこうも事情が違うとは。


図10
図10. 神経内科病棟では熱烈歓迎してくれた。驚いたことに若い人もスタッフも皆英語が流暢。中国の若い力を感じざるをえない。
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図9. 病棟には神経内科が国家重点学科、多発性硬化症センターに認定されていることを示す大きな看板が掲げられている。隆教授、孔准教授と。
図8
図8. 神経内科の入る内科棟の玄関には、僕を歓迎する立看板が。

 


 広州の7月は雨が多いと聞いていたが、滞在中は強い日照りで10mも歩くとぐっしょりと汗をかく。これでは暑過ぎて仕事にならない。7月、8月が夏休みなのも、うべなるかな。広州人は、日中は暑すぎるので宴会は遅く始めると聞いた。夕方には珠江河岸のガジュマルの並木道をそぞろ歩く(図11、12)。道端で牛の頭ほどのドリアンを切り売りしている。南国だ。しかし、夕方には珠江を渡る風はわりにからりとして涼やか。珠江のいわれは、丸い石がたくさん光を浴びてパールのように輝いていたことにちなんでいるというが、整備された護岸と緑色に濁った水面にはパールの趣はない。毎年、広州市の市長が珠江をパファーマンスで泳ぎきるときだけ河を清掃すると、案内役の毛さんは快活に笑う。毛さんは、広西・チワン族自治区から中山大学医学部を卒業し、PhDコースを修了したところだという。9月からECTRIMS (European Committee for Treatment and Research of Multiple Sclerosis)の奨学金で1年間、ロンドンのRoyal College Hospital にMS研究のため留学すると聞いた。中国でこの奨学金をとれたのは二人目だそうで、中山大学でMD・PhDを取得し前途洋々。PhDコースの学位記を授与されると、7月、8月はdutyもないのでこれからは英会話を磨くと話す。毛志峰(マオ・ズイーフォン)の名は志をもって峰を登るという期待で名づけられたというが、その通りにたくましく歩んでいる。

図12
図12. クルーズ船上で軽い夕食をとると、広州の夜景が見える。
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図11. 夕方の珠江クルーズ船上で。案内役をしてくれた、毛さん、方さん、周さんと。方さんは、東野圭吾のミステリーファン。 東野圭吾は、中国では外国人作家のベストテンに入るということ。

 


 もう一人の案内役は、周一凡(ジョー・イーバン)さんという若い女医さんで、この人が空港の出迎えから市内観光までずっと付き添ってくれた。僕の視線を避けつつ平板な英語をおっとりと話す。手帳のメモを参考にしながら、丁寧に説明してくれる。聞けば、安徽(アンフェイ)省の田舎(といっても人口は100万と聞いた)から三国志の魏と呉の激戦地として有名な合肥(ホーフェィ)にある安徽医科大学を出て、この9月から有名な中山大学で3年制の修士課程に進学するという。同級生の多くが北京や上海、広州の有名大学の修士課程に進むそうである。周さんは、これから第3病院の孔さんのところでMSの研究を始めるという。広州に来るのは、まだ2回目で数日前に着いたばかりらしい。安徽省は内陸にあり、海を見ることもないという。僕が福岡に帰る日に、この人もホームタウンに戻るそうで、広州のことはほとんど知らないのに、自身の観光もかねて僕の案内役を押し付けられたようだ。自分はコミュニケーションが苦手なので、研究の方がよいと思っていると言う。コミュニケーションは慣れればできるようになるし、ヒトの臨床研究は面白いから臨床もやった方がいい、臨床と基礎研究のバランスが大事とアドバイス。お父さんと碁を打つのが好きというこのお嬢さんは大切に育てあげられたものであろう。一凡とは変わった名前だなと思って聞いてみると、病・災厄なくあたりまえで平穏な人生を送ってほしいという願いをこめたものという(中国ではさもありなん)。漢族の女医さんで初めて控えめに話す人に会って応援したくなった。


図13
図13. 泮渓酒家(バンシージュージア)は、ガイドブックにも載っている有名店。池を巡る回廊を渡って席へ案内される。

 広州は池や河に恵まれた地で、フラワーシティーの別名のごとく四季折々の花々が豊かである。気候はかって訪れた台南に似ているが、遥かに大都会である。南漢皇帝の広大な庭園(昌華園)にしつらえられた池に面するレストランでランチをいただいた(図13、14)。周さんがなかなか注文を言わないので、僕が二皿ほど提案すると、相伴にあずかった山東省から来たという若い男の運転手さんにリードされつつ、次々に料理を注文する。3人で10皿は若い中国人でも食べ切れまいと思うが、料理を残すほども出すのが中国式の歓迎である。ここでは、鳩の丸焼きがおいしくて肉を食いちぎる(図15)。翌日には陳氏書院(図16、17)を見学した帰りに、毛さんが魚料理のランチ、無米粥の夕食に連れて行ってくれた。Eel(鰻)がいいと奨めてくれるが、柳川や福岡で鰻を食べている身からすると、ほとんどドジョウサイズ。日中の観光でどっぷり汗をかいたので、冷えたビールが飲みたいところだが、なぜか熱い中国茶がどこでも出る。無米粥は米をドロドロに煮た粥鍋に肉や魚をしゃぶしゃぶみたいに浸けて茹で、タレにひたして食べる。おしまいに肉汁やら魚やらの味がしみこんだ熱い粥を食べるのでますます暑い(図18)。茶はぐい飲みサイズで飲み干すほどに運転手はじめ皆がついでくれるのでますます汗をかく。領南は茶が名産なのである。インドネシアのディナーで果てしなくジュースのおかわりが出てくるのにも閉口したが、広州にはビールはないんか!(図19)


図16
図16. 陳氏書院の門扉。広東地方独特の木彫り、石彫りが屋根いっぱいに飾られている。清の時代、それぞれの一族が科挙試験の受験準備を子弟にさせる塾を造った。陳氏のそれは広州城の郊外にあったため、敷地が広大で、今に至るまで保存されている。
図15
図15. 鳩(pigeon)の丸焼き。日本の焼き鳥屋で出てくる雀の丸焼きは骨ばかりで食べ出がないが、 鳩はやや固めの肉に味がしみこんでおいしい。これからは箱崎宮の鳩を見ると食べたくなるか。
図14
図14. 泮渓酒家には海部首相や鄧小平主席、キッシンジャー国務長官も来店した。

 



図19
図19. 世話をしてくれた中山大学の毛さん、周さん、方さん、孔准教授、さらにやはり招待されていた北京協和医院の徐雁教授とディナー後に。孔さん、徐さんとは、それぞれの施設で600から800例のMS/NMOコホートがあるので、国際共同研究を申請する方向に。ここで初めて広州の地ビール(珠江啤酒)にありついて僕は満足。ただ、よく冷えたビールは、日本のが一番。
図18
図18. 夕食の熱い鍋にはビールはなくて、熱いお茶が出てくる。 毛さん、周さんに、いい研究者になるには何が大事かと聞かれたので、研究を続けることが大切だと答える。 10年この道で頑張り続けることができたら、世界に知られるようになるから、継続しなさいと説教。
図17
図17. 石で覆われたいくつもの中庭には、丸く縁取られた地面に青々とした木々が植えられていて、 どこか年末に訪れたスペインのメスキータのオレンジの木の中庭を思い起こさせる。

 


 

図20
図20. 招待講演をスタート。サドンデスでスライドが25分きっかりで止まるとは露知らずに話している。海外出張といえどもときには仕事もしている。

 学会場は思いのほか広くて、驚いたことに参加者は約1000名だという。僕の講演時間は25分と聞いていたが、初めて眼を通したプログラム冊子では12時から12時30分となっている。時間どおりぴったり進行していて質問も会場からはなく座長がコメントを言って締めくくるだけのようなので、30分間フルに話した方がよさそうだと判断して、ややゆっくり目にしゃべる。ところが25分たったら、それこそガッシャンとスライドが止まってそれ以上進まない。スライドに謝謝と赤字で出ておしまいである(図20)。招待講演といえども容赦なく時間ピッタリでおしまい。中国恐るべし。皆が時間どおりに話すはずである。皆さん、中国で講演するときに時間通りにプログラムが進行していたら、スライドガッシャーンで時間ピッタリ強制終了になる可能性があるので、要注意。

 僕はAPSNIのオーガナイザーを国際神経免疫学会から依頼されているので、第2回APSNIの開催について相談に行ったのだが、残念なことに今は中国神経免疫学会は役員選挙中なので話を進められないと、もう一人のオーガナイザーである天津の胡(フードンシー)教授は言う。困って中国神経免疫学会の現状について尋ねると、中国神経免疫学会会員は、わずかに50人だという。以前に中国神経免疫学会で講演したときには、1000人を越える参加者があったので、よほど多くの神経免疫学会員がいるものと思っていた。ところが、各大学に1名しかおらず、中山大学は例外的に2名なのだという。これは上限が中国共産党など政府によって決められていて、自由に会員を増やすことが出来ないためである。中国が50人しか会員がいないとなると、世界最大の神経免疫学会は、文句なく600人超の会員数を有する日本神経免疫学会である。これは欧米では神経免疫学会は基礎医学者が多数派で、MSなどの臨床研究をやっている人はECTRIMSの方に属するせいである。実は日本神経免疫学会は世界最大であったのだと改めて感心する。国際神経免疫学会は、中国神経免疫学会からの入会を増やしたい意向だが、これは厳しいといわざるを得ない。

 結局、上海には福岡便の出発時刻が過ぎて到着したが、この便は既に欠航となっており、翌朝、臨時便でヨーロッパ並みに26時間もかかって大学に帰り着いた。ぎりぎり新患の診察に間に合い穴を開けずに済んだ。いや、広州は遠かった。

 ところで日本を離れて旅に出ると持ち帰りたいものにはたくさん出会うが、実際に持って帰れるのは思い出くらい。僕は長期記憶が苦手なタイプで昔のことはほとんど忘れるので、ときにはどこで何にめぐり合ったか書き記しておかないと、教授になってからどこで何をやったかも定かでなくなる。

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図21. ECTRIMS 2015は、バルセロナ大のモンタルバン教授を会長に10月7日から10日まで催された。 写真は、バルセロナの位置するスペインはカタルーニャ地方で200年以上も続くという伝統の組体操「人間の塔」。高さが半端でない。

 7月、8月のわりに暇のある時期が終わると、9月から12月初めまでは秋の学会シーズンで、この時期は主に国際学会に出かけることにしている。春の学会シーズンは、3月半ばから5月末まで続くが、こちらは、脳卒中学会、内科学会、神経学会と国内主要学会が続く。昨年一番の学会出張の思い出は、スペインはバルセロナで開かれた第31回ECTRIMS(図21)で、その後に、長年の知り合いのバーゼル大(1460年設立)のRadue教授を訪れたこと。丁度、この時期、院生の中村さんがMedical Image Analysis Center (MIAC), University of Baselに2回目の短期留学しており、研究室を見学させていただいた。既に最初に短期留学した米川君の仕事は論文として掲載されており、次に留学した中村さんは日欧MSのMRI所見の比較研究を論文にまとめている。驚いたことにMIACは、3階建てのまるで民家のような建物だった(図22~24)。緑に囲まれた静かで落ち着いた環境の中にあった。ドアを開けると、様々なオブジェで壁面が飾られ、研究室もデザインかアートかの研究室のよう。バーゼル大では、MSの臨床試験で世界的に有名なKappos教授のところで講演させていただいて、とてもいい記念となった。

図24
図24.MIACで中村さんたちが解析に使用している研究室。ここでじっくり研究をすれば、いい仕事もできそう。
図23
図23. 階段を3階まで上るにつれ、白壁に面白しろいオブジェが飾られているのが次々と眼に入る。
図22
図22. バーゼル大のメインキャンパスに程近い立地のMIACの建物。ドアを開けると右手の壁面にオブジェ。

 



図26
図26. ライン川から見たエフ・ホフマン・ラ・ロシュのモダンな本拠ビル。 バーゼルはドイツに近く、平坦な土地である。ゆったり流れるライン川や欧州の秋空の青と、白いビルのコントラストが美しい。
図25
図25. バーゼルは、ドイツ、フランスと国境を接する人口17万人の都市で、 学問や芸術文化が栄えた。ライン河畔のLes Trios Rois(3人の王という意味)という由緒ある豪華ホテルにRadueさんは宿をとってくれた。 偶然同じホテルにECTRIMSからこちらの製薬メーカーを訪れたUCSFのHauser教授も泊まっていて、Kapposさんらとディナーを供にした。

 翌日には、Raudeさん自ら車を運転し、バーゼル市内からフィアバルトシュテッター湖畔のカペル橋で有名なルツェルン、そして近郊のピラトゥス山へと案内してくれた。バーゼル(図25)は、エフ・ホフマン・ラ・ロシュ(図26)やノバルティスなどの世界的な製薬メーカーの本拠地である。ライン川にかかる橋の向こうはドイツ、こちらはフランス、通りをはさんでスイスという位置に、ノバルティスの本拠地はあった。ビックリしたことに3カ国にまたがって会社の敷地が存在するのである。各国の税制や法規制に応じて最適のところで薬品を造り、ビジネスの契約をしているという。こんなグローバルな企業を相手に戦わねばならないとは、さぞかし日本の製薬メーカーも大変だろとエールを送りたくなった。

 ルツェルン市から足をのばして標高2132メートルのピラトゥス山に行く。ふもとのルブナッハシュタットから世界一急勾配の登山鉄道に乗って頂上へ向かう。赤い車両のこの登山鉄道は、1889年の開通だと聞く(図27)。あいにく厚い雲が空を覆っていて、山頂に行っても何も見えないだろうなあと残念な気持ちを抱えて乗車。ところが、驚いたことに延々30分以上もかけて雲を突き抜け山頂に達すれば、どこまでも青い空に燦燦と太陽が輝き、スイスアルプスが遠望される(図28)。19世紀にこの登山鉄道を作り上げる技術力に脱帽(図29)

図29
図29. 下りの登山鉄道の車窓から見ると、驚くほど急勾配。 程近いチューリッヒにあるスイス連邦工科大学は世界大学ランキング10位以内で、 スイスの工学は今に至るまで世界トップレベルである。主にはドイツ系の人たちがこれを支えているようだ。 Radueさんもドイツ生まれで、ピラトゥス山に来たのは初めてで感激したという。
図28
図28. 山頂に着けば別世界。山頂のレストランではジビエ料理が食べられる。僕はイノシシにしたが、中村さんはバンビを食べた。
図27
図27. 登山鉄道は途中で乗り換える。5月から11月まで運行されている。あいにく空には厚い雲。

 


 11月15日の熊大との恒例のサッカー大会には、驚いたことに荒木淑郎熊本大名誉教授が応援にかけつけてくれた(図30)。荒木先生は九大神経内科初代助教授にして熊本大学第一内科教授として熊大神経内科の生みの親である。双方にとっての大先輩を前にして引き分けの好ゲーム。僕は直前に夜に雨の中を傘をさして自転車をとばして転倒し右膝に打撲傷をおっていて、足を引きずりながらの参加である。またしても誰か熊大の若手と衝突して右足親指を打撲して半年ほども痛みが残った。翌一月に箱崎宮にお参りに行ったときに、左足首を捻挫・剥離骨折していまだに左足首が痛くて走れない。

 実は新年はスペインのマドリッドで迎えた(図31)。古傷を重ね、その痛みに耐えつつ、そこそこの人生を生きるのが幸せというものかと思うこの頃である。

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図31. 2015年12月31日、大晦日のマドリッド、プエルタ・デル・ソル(太陽の広場)。ここで恒例のカウントダウンが始まる。
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図30. 熊大グランドでのサッカー試合後に。九大神経内科は歴史的にも様々な大学神経内科とつながりが多い。そのようなつながりを大切にしたいものである。僕は足の痛みのためにヨロヨロ。

 



 

平成28年7月11日
吉良潤一