金はないけど夢はある:長い目で見ることを思う酉年の正月 (平成29年1月3日)】


 AMED(国立研究開発法人日本医療研究開発機構)が出来てからというもの、研究費の申請は、目下うちは6連敗中である。5回ほどはヒアリングに呼ばれているが、ただの1回も採用されていない。わざわざ博多から丸の内まで自分の金を使ってプレゼンに出向くのも、負けが重なるとつらい。AMEDはヒアリングまできちんとして実施して、採用課題を選ぶというスタンスなので、ヒアリングまで行って落ちる人が必ずいることになる。今のところ、うちはヒアリング要員である。5回ヒアリングで落ち続けたら1回通してくれるくらいの配慮はないものかしら。ヒアリングに行って感じるのは、AMEDは過去の実績と出口戦略に重きを置き過ぎてはいないかという点である。そもそもPMDA(日本医薬品医療機器総合機構)に薬事相談に行っていないと、ヒアリングに残っても、そこでPMDAに相談に行っているかと質問されて、「行ってません」、ハイさようなら、でおしまいである。難病のなかでも神経難病はとりわけ病態の解明が困難なのに、実用的な研究ばかりを採用して、わずかな有意差を見出す臨床試験だけで核心に迫れるかは、はなはだ疑問である。AMEDも長期的な視点に立ってもっともっと探索的な研究を2017年には採用してほしいと願う正月だ。 

 ところで昨年は思い立って新年をスペインで迎えたが、今年は福岡でのんびり過ごす。今日は留学生一家を自宅に呼んでいる。教室には、現在、中国人が4名、ウイグル人が1名、インドネシア人が2名、合計7名が留学してきている。かわりに教室からは、米国(サンフランシスコ、シカゴ、ボストン、フィラデルフィア、マイアミ)に5名、英国1名、フランス1名の計7名が留学中である。留学期間は好きなだけ行ってよいことにしているので、鉄砲玉みたいに7年ほども行ったきりのもいる。長い間、海外留学して帰国し、日本の神経内科で果たしてうまくやっていけるかという懸念はある。また、留学することによって、教室で続けてきた研究が中断するというデメリットもある。教室員を留学させないで、自分のところで働き続けさせるのが、一番効率よく論文ができるわけだが、教室の目的は教授を作ることだけではないから、それもどうかなあと僕は思う。留学して異国で暮らしてみないとわからないこともあるし、忙しい日々の臨床から離れるのもよいことだ。神経内科医として面白い人生を送ってほしいと願うので、僕は留学を奨めている。また、海外からも受け入れている。 

 2016年秋の学会シーズンには、10年ほど前にうちに留学していたピネダさんがフィリッピン神経学会の会長をすることになったので、理事長を務める日本難病医療ネットワーク学会の会期と重なっていたが、2泊2日の弾丸旅行でマニラで講演してきた。11月15日に医学部学生の初回の神経学講義を午前中いっぱいやって、一路福岡国際空港からマニラへ飛び立つ。夕方着いたマニラは前回同様に大渋滞で夜遅くにホテルへたどり着く。翌朝は、以前九大神経内科に留学していたチュア(Chua)さんに、国立フィリッピン大学の関連病院であるPhilippine General Hospital神経内科に連れて行かれて、そこで5名ほども回診をする(図1)。ビッカースタッフ脳幹脳炎を診た後は、HIV脳症、クリプトコッカズ髄膜脳炎、結核性髄膜脳炎、髄膜炎菌性髄膜炎など神経感染症が続く。回診が終わったら、排菌があったので飲んどってと抗生物質を2錠ほど渡される。Philippine General Hospitalは、フィリッピンの国立ナンバー1だが、病院の建物は古くて、救命救急センターでは、驚いたことに冷房が効いておらず窓は開け放しで、所狭しと人工呼吸器管理の人が並んでいる。ここは退院後、2割くらいの人が後で結核を発症すると聞いた。幸い、僕は、帰国後も感染症は発症していない。実は昨年10月28日にバンコクで開催されたPACTRIMS (Pan-Asian Committee for Treatment and Research in Multiple Sclerosis)のPresidential Dinner(全員懇親会)は、チャオプラヤ川のディナークルーズだったが、そこに出た人は、うちから行った若手も含めて皆、食中毒でひどい下痢にやられた(僕は以前このクルーズは出たことがあって、タイは喪中でバンコクの街全体が黒一色だったこともあり、ディナーはスキップしたので最後まで元気)。アジアの国に行って怖いのは、今も昔も感染症。

 11月16日の夜は前夜祭で、日本で言えばホテルでの会長招宴みたいなものだが、やはりカソリックのお祈りから始まる。ここでは、歴代会長が名前を呼ばれて、深紅の絨毯が敷かれた会場中央のメインロードを歩いて壇上に上がる。このときばかりは、老齢の歴代会長さんもしっかりと歩む。会長さんの中には、コンデさん、ナバロさん、チュアさん、アマド・サンルイスさん、ピネダさんなど、九大神経内科に留学した人も5名はいる。前夜祭では、チュアさんが神経内科の現状と未来について特別講演をされた。若いころ九大神経内科で知遇を得たチュアさんが、定年退職を控えられて、フィリッピンで長年に渡って神経内科医の育成に情熱をかけてこられた思いを語る特別講演を聴けて本当によかった。アジアの国々には熱い思いで若手を育てている神経内科医が多くいることを、僕らもよく知っておくことが大切だ。

  学会初日の11月17日の朝は、私自身の講演である。ピネダさんは、フィリッピン神経学の父といわれるGilberto Gamez 教授を記念しての、Gilberto Gamez Memorial Lecture という大変名誉ある講演に僕を呼んでくれた(図2、3)。私の講演のあとにピネダさんが会長講演をされた。神経免疫学に関する教育的ないい話だった。フィリッピン神経学会は現在440名ほどの会員数で、毎年、20名ほど増えているという。今度、フィリッピン神経学会は神経免疫学ブランチ(委員会)を新設し、ピネダさんはその委員長に就任した。10年も経つと、いろいろなところで芽は育つ。海外留学生の受け入れも短期的には大変なばかりだが、長期的にみるといいこともある。海外留学生を受け入れてよかったかなんてことは、20年くらいみないとわからない。僕は任期の関係で今年1名海外の大学院生を受けいれて、それが最後の人になるけれど、短期留学の医学生は、今年はトルコ、フィリッピンから受け入れる予定である。2017年は世界的にはグローバル化への反発から国家レベルでは内向き志向が強くなりそうだが、長期的な視点に立った民間レベルの国際交流は深めていきたいものである。


図3
図3. レンジデントナイトで踊るフィリッピン神経学会の歴代会長。これも宇川教授にいただいたもの。何年か前にバギオで開かれたフィリッピン神経学会に行ったときにレジデントナイトで皆が踊るのに驚いたが、今回は日本に帰らないといけなかったのでレジデントナイトには残念ながら出ることができなかった。宇川先生が後で写真を送ってくれたのを見ると、やはり今度も歴代会長さんが皆で踊ったのねという感じ。右端が現会長のピネダさん。
図2
図2. Philippine Neurological Associationでの特別講演後の記念写真。中央が会長のピネダさん。写真は、一緒にフィリッピン神経学会に呼ばれていた福島県立医科大学神経内科の宇川教授が撮影してくれたもの。
図1
図1. Philippine General Hospitalの病棟で回診後の記念写真。ここはフィリッピンの東大病院といったところ。

 特別講演の後は、一人脱髄性疾患の患者さんのコンサルテーションを終えたら、もう空港へ向かう時間だ。夕方6時半の便で発って深夜に羽田に着き、品川で一泊して朝一番の新幹線で名古屋へ向かう。朝8時からの日本難病医療ネットワーク学会理事会にかろうじて間に合った。第4回日本難病医療ネットワーク学会学術集会は、岐阜大神経内科の犬塚教授に会長を務めていただいた。犬塚先生とは、34年前のNIH留学時に同じアパートの同じフロアに住んでおられて以来のお付き合いである。


図4
図4. 日本難病医療ネットワーク学会の沿革と参加者数の推移。連絡会、研究会、学会と、だんだんとレベルアップしてきた。

 ところで日本難病医療ネットワーク学会といっても知らない人が多いと思う。平成10年(1998年)12月3日に日本で初めて公的な難病医療コーディネーター(難病医療専門員)を導入した福岡県重症神経難病ネットワークを立ち上げた。このネットワークは、看護・介護に大きな負担がかかる筋萎縮性側索硬化症(ALS)などの重症神経難病患者さんの長期療養受け入れ先を、福岡県下で神経難病医療ネットワークを設立してみつけていくことを目的とした。医療相談、療養・生活相談、長期・短期の入院施設の確保、神経難病に関する情報提供、医療従事者研修会、療養環境調査等、幅広い活動を実施してきた。難病医療コーディネーターは各県に一人と孤立していることが多く、教育研修の機会も乏しいことから、平成11年(1999年)に西日本難病医療ネットワーク連絡会という勉強会を福岡で立ち上げ、全国の難病医療コーディネーターに呼びかけてこの勉強会への参加をお願いし、毎年1回で計5回(第5回は東京で初の全国大会)実施した(図4)。平成16年(2004年)には、第1回日本難病医療ネットワーク研究会を福岡市で100名を越える参加者で開催した。研究会を9回重ね、平成25年(2013年)には僕が初代理事長となって、日本難病医療ネットワーク学会を設立した。第1回は大阪大神経内科の望月教授にお願いし、大阪市において600名を越える参加者で開催できた。昨年までに4回の学術集会を重ね、会員数も355名となり、医師、看護師、難病医療コーディネーター、保健師、理学療法士、作業療法士、社会福祉士、介護福祉士、行政関係者、患者会など多様な職種、様々な立場の人が和気あいあいと集う学会へと成長した。この学会は設立以来、全員懇親会に力を入れていて、第4回も仮装パーティーで大いに盛り上がった。本学会は、難病医療ネットワークに関わる課題を広く研究・教育し、神経難病をはじめとする難病の医療とケアの向上を図ることを目的とし、学会機関誌(ISSN 2188-1006)も年に2回発行している。福岡県の重症神経難病ネットワークも机一つ、難病医療コーディネーター1名で細々と始めたが、20年継続して、年間予算も20倍となり常勤の相談員7名の難病相談支援センターに発展し、小児から成人まで切れ目なく療養病床の確保から就労・就学相談まで行なうようになった。当初ネットワークになんとか参加していただけないか県下の病院にお願いしていたころは、この全く金にも業績にもならない事業が先行きどうなるかと危ぶまれたが、20年も経つと芽はそれなりに育つ。

 2017年1月1日付けで、当教室から村井弘之君が、成田に新設された国際医療福祉大学医学部神経内科の主任教授として赴任した。村井君は人柄もよく、特に教育に優れているので、医学部教授向きの人である。同大学は、私学医学部では一番安い授業料(6年間で約1800万円と聞いた)なので、偏差値も私学では最上位クラスの順天堂大学医学部レベルの受験者が受けるとの予測らしい。1学年140名の学生のうち20名は海外からの留学生で、ミャンマー、ベトナム、モンゴルなど各国から選抜された最優秀な留学生に奨学金を出し、経済的な負担なしで卒業できるので、将来は帰国してアジアの医学界・医療界を牽引する人材が出てくると期待される(海外からの医学生を一人日本で育てるには1億円以上かかる)。村井君はうちでは一番英会話に堪能だから、国際医学教育にピッタリだ。彼も僕以上に金はないけど夢はあるタイプだから苦労すると思うが、長い目で見て多くの将来性のある若い人を育てるだろう。夢があっていいね。

 村井君の専門は、重症筋無力症(MG)である。我が国でMGを一番の専門とする人が医学部神経内科の主任教授になるのは、昭和57年(1982年)から平成12年(2000年)まで金沢大学神経内科の初代教授として活躍された高守正治先生以来のことである。MGが専門の人はいい仕事をしていても、なかなか日本では神経内科の主任教授になれない状態が続いていたので、神経免疫学の分野からすると村井君が主任教授に就任できたのは、本当によかった。ただ村井君はMGだけで教授になれたのではないと思う。神経内科だけで年間約800名の入院患者のある第一線の救急病院(麻生飯塚病院)の神経内科の責任者(脳卒中センター長)として、40歳代半ばで5年半ほども脳卒中急性期診療に取り組んできたことも評価された気がする。また九州地区のプリオン病のサーベイラインス委員も平成12年(2000年)以降、16年間に渡って務め、現地調査を彼一人で行ってきたことも、評価の対象にはならなかったかもしれないが、立派なことである。当教室の脳卒中研究グループも脳神経血管内治療学会専門医6名を擁するまでになったので、成田で急性期診療に取り組む際には応援できるといいね。

 村井君のお父さんは、当教室の大先輩で産業医大神経内科初代教授の村井由之先生である。父子ともに医学部神経内科の創設者となるのは、とても珍しいことだと思うが、それに価する人材である。村井君には神経免疫班の事務局、神経免疫学会の事務局、日本神経学会学術大会の事務局と、班会議・学会・学術大会の3大事務局を全て担ってもらった。名事務局長の村井君には、僕はとてもお世話になった。村井君なくしては、これらはうまくいかなかった。彼には大変感謝している。主任教授になれて本当によかった。これで村井君も事務局長は卒業だ。教室も村井君が出て、私以外は全て平成卒の人になった。僕が教室の責任者となってからでは、教室・同門から神経関係は村井君で6人が教授となった。これからは平成卒の人が頑張ってほしい。

 大学の一番いいところは、毎年若い人が入ってきて、研究の夢を追い続けることが出来ることだ。教室では、臨床医でやっていこうと思っている人であっても大学院に行きたくなったら行くことを奨めている。研究の喜びも苦しさも、研究に真剣に取り組む時間を持たない限りわからない。また研究経験を持つことで、日進月歩の臨床の理解も深まる。教室では10数年前からグリアの研究を進めてきた。この数年、神経科学の領域では、ミクログリアやアストログリアなどをテーマとする論文が指数関数的に増えている。Glia誌によれば、2015年にニューロン関係の論文数をミクログリア関係の論文数が超えたということである。ここではMicroglial synaptopathyなどグリアの視点からみた精神・神経疾患の病態の解明が期待されている。昨秋には教室の山崎君の図表17個の大論文がJournal of Neuroscience誌という権威ある基礎ジャーナルに掲載された。教室のグリア研究も2017年、2018年にはもっとグレードアップして報告できるものと期待している。また、同様に10数年前から取り組んできた脱髄性疾患の大規模遺伝・環境因子コホート研究も、その成果を世に問う時期に来ている。酉年の酉は、果実が成熟の極限に達した状態を表しているそうだ。収穫した作物から酒を抽出する意味もあるという。さて今年の年末には、10年来取り組んできた研究成果が実って、おいしい酒を飲みたいものだ。

 今年は、僕らの神経内科が入居している医学部臨床研究棟B棟が1976年の竣工以来40年ぶりに改修されるので、正月明け早々に旧歯学部の古い建物に引越しである。2017年は仮住まいでの不自由な研究環境が1年間続くけれど、長い時間をかけて取り組んできた研究成果を発表して、ヒアリングでうちを落とし続けたAMEDの審査員の鼻をあかしたい。

 

平成29年1月3日
吉良潤一