【症例の記述と21世紀の神経内科医の育成(2001年7月)】

  九大神経内科の教授に任ぜられて、早4年近くが過ぎました。 教室の人手不足は今なお深刻ですが、幸いこの間毎年5、6人の入局者がありましたので、若い人達を大切に育てていけば教室もそのうちにぎやかになってくるものと思います。 21世紀最初の同門会報の巻頭言にあたり、これから神経内科を志す若い人達をいかにして育てていくべきかについて私見を述べ、皆様のご意見をいただきたいと存じます。

  神経学の父シャルコー教授が多発性硬化症を独立疾患単位として初めて記述したのは、1868年のことです。 19世紀から20世紀前半にかけての神経学の発展は、ゆるやかなものでしたが、20世紀後半、特にこの四半世紀は神経学がめざましい発展を遂げた時代でした。 私が25年前初めて神経学の講義に接したときには皆目原因のわからなかった、遺伝性神経疾患の大部分の原因遺伝子が次々と解明され、今日神経学もまたポストゲノムの時代を迎えたのであります。

  現代の若い神経内科医が学ぶべきことは、実に多くのものがあります。 膨大な数の神経・筋疾患、おびただしい数の神経・筋疾患原因遺伝子、画像診断、電気生理、神経病理に至るまでの幅広い知識が求められ、 脳卒中急性期の処置から神経難病の介護に至るまで多様な診療技術を修得せねばなりません。

  このような時代にあっても、私はなお神経内科医にとっての原点は、症例の記述にあると考えます。 図1には1998、1999、2000年の3年間に日本神経学会の学会誌である「臨床神経学」に掲載された症例報告の数を、各施設ごとに集計して示しております。 「臨床神経学」は邦文誌ですが、その査読は誠に厳しいものがあります。Abstract、Figure、Tableは英文で、ISSNのナンバーも割り当てられていますので、掲載論文はオリジナルとしての価値があります。 今回の集計は第1著者の第1所属(症例報告時の所属)で行っています。関連病院からの報告で最後に所属大学の教授の名前がついているものは、関連病院として集計しています。 九大神経内科からの報告は全てうちの病棟からの報告です。原著研究論文は除いております(当教室では研究論文は必ず英文で書く方針をとっていますので)。 一見しておわかりのように、20世紀最後の3年間における「臨床神経学」に掲載の症例報告数は、九大神経内科が日本一です。 もっともこの間「臨床神経学」にrejectされた論文数も8編にのぼり、こちらの数でもまず間違いなく日本最多でありましょう。 しかし、我々はこのことを恥じる必要はありません。恥ずるべきはrejectされることではなく、症例を記述せず埋もれさせることであるからです。 2001年も掲載予定が3編、現在審査中が9編あります。このことを我々は大いに誇りに思ってよいと考えます。 この3年間というもの大学神経内科にいた者の数は、教官、医員、大学院生、2年次の研修医まで全部かき集めても常時16−18名程度に過ぎませんでした。 ですから、これは乏しいマンパワーで歴代の病棟医長、副医長、病棟医が努力を重ねてきた成果といえます。 21世紀にあってもぜひ我々はトップランナーの位置をキープしていきましょう。 付言しますと、上位8施設のうち5施設までが神経学会九州地方会の所属です。 これは神経学会九州地方会の活発さを反映していると同時に、故黒岩義五郎先生以来の臨床神経学を大切にする本地方会の伝統の一つの表れと感ずるものであります。

図1
図1.臨床神経学に1998年から2000年に掲載の症例報告・短報
(3編以下は省略、原著研究論文やletterは含めていない。第一著者の第一所属にて集計)

  しかし、一方で「臨床神経学」に掲載の症例報告数は指標の一つに過ぎず、症例報告も英文で書かない限りinternationalには認められないこともまた事実です。 我々はこの3年間に英文誌に重要な臨床報告(症例報告)を発表してきました。それらは、

・ 第8染色体8q22.1-24.1に連鎖する新しい遺伝性脊髄小脳変性症(SCA16と命名された)(Neurology)
・ Kennedy-Alter-Sung病と同様の表現型をとる常染色体優性遺伝の新しい運動ニューロン疾患(Neurology)
・ アトピー性脊髄炎の発見(J Neurol Sci, JNNP)
・ 成人型Hopkins症候群の最初の報告(JNNP)
・ ブタ回虫性脊髄炎の第1例(JNNP)
・ アトピー性疾患を伴う平山病の初めての報告(JNNP) などです。

  また、昨年度は教室の菊池仁志君の症例報告が、第1回福岡医学雑誌(Fukuoka Acta Medica)優秀論文賞(毎年度症例報告が1編選ばれる)として表彰されました。 これらの臨床報告は医学・生物学的に大きな意味を持つものであり、これらの臨床の言葉で記述されたものを今度は分子の言葉で語れるよう、現在分子遺伝学的・分子免疫学的研究を進めているところです(図2)。

図2

  一方、平成15年度より九州大学は独立行政法人化する見通しです。今後、大学医学部並びに附属病院は、厳しい経営の論理に直面せざるを得ません。 しかし、そういう時勢ではあっても、我々にとって守るべき最も大切なものは学問の論理であると考えます。 ただ学問の論理を守るためには経営の論理に耐えるだけのものを築いていくことが不可欠です。 この3年間で私どもの神経内科病棟の平均在院日数は60−70日から32−35日に短縮し、病床稼働率も85−88%から93−95%に上昇しています。 つまり、3年前の約2倍の延べ入院患者数をこなしていることになります。 また当科は医師一人あたり(文部教官+医員)の収益も既設の専門内科(循環器内科、呼吸器科、心療内科等)の中では最も高いレベルにあります(神経内科が唯一医師一人一日あたり収益10万円を越えている)。 これには

1. 福岡市東区医師会との連携による脳卒中救急後方支援システム(第2内科脳循環代謝研究室と協力して2週間交代で24時間脳卒中ホットラインで脳卒中急性期患者を受け入れ)の開設
2. 福岡県重症神経難病ネットワークの設立と発展
3. 脳の健康クリニック(神経内科・精神科共同の物忘れ外来)の設置
4. 睡眠時無呼吸クリニックの開設
5. てんかんビデオ脳波モニター室の設置

  などの新しい試みが貢献していると思います。独法化された際に経営の論理に対して数字で説明できるだけのものを、一方で我々は持っておく必要があります。 同時に高度先進医療の開発や神経疾患の病因の究明など大学院大学本来の使命についての成果を、一般国民にわかり易く提示することで九大神経内科の存在意義を理解していただくことが不可欠です (国民に対するアカウンタビリティー)。ここに示した図はその一助になるものと私は考えております。

  このような状況下にあっては現今の病棟医長は大変です。私も病棟医長は30代に5回やりましたが、当時はのんびりしていて数字のことはいっさい出てきませんでした。 病棟医長をやりながらRIセンターに足繁く通いシークエンスゲルを自分で流していた時代です。今はそういうわけにはいきません。 これからは病棟医長はキャリアーパスの一つと位置付けて、病棟医長の職務にある間は、若手医師やクリニカルクラークシップの医学生の教育・指導、症例報告の指導等の教育と臨床に専心していただきたい。 これを一期立派にやり遂げた者に講師や関連病院の部長をお願いする方針で臨みたいと思います。 病棟医長・病棟副医長はレジデント・研修医に、レジデントは研修医・ローテーターに、研修医はクリニカルクラークシップやベッドサイドローテーション中の医学生にと、 先輩から後輩へ順に知識や技術、診療姿勢を教えていくことが望まれます。「Teaching is learning twice」といわれるように、教えることで逆に教えている自分が学ぶものは大です。 レジデントや研修医もその業務の中に後輩の教育が含まれていることをよく自覚してください。

  大学神経内科の教育にあっては、神経学の診かたと考え方、最先端の医学知識、様々な臨床神経生理学的検査とその判読(脳波、筋電図、誘発電位、てんかんモニター、 PSGによる睡眠時無呼吸モニター、ビデオ眼振計、自律神経機能検査など、臨床神経生理の飛松教授のご指導に負うところが大)、神経・筋病理所見の見方(神経病理の岩城教授のご指導による)などの修得が基本です。 これに加えて、一定期間前述の脳卒中救急後方支援システム、脳の健康クリニック(物忘れ外来)、福岡県重症神経難病ネットワーク等を担当してもらい、脳卒中の急性期診療や痴呆患者の診療と精神科的対応、神経難病患者の介護・福祉などをも学んでほしいと思います。 さらに今後は関連病院とより一層連携した研修医教育が必要と考えています。 内科も含めた一般診療や救急は、飯塚病院脳卒中センターなどの関連病院の神経内科でぜひしっかりきたえていただきたい。 国療筑後病院神経内科を一定期間ローテートして、筋ジストロフィー症や神経難病のターミナルケアーについて学ぶことも大切でしょう。 九大脳研各部門と密接に連携した教育体制、関連病院も含めた幅広い臨床研修システムを作り上げる方向で努力していきたいと考えております。

  そのような中で大学神経内科でしっかりと身に付けてほしいと私が願うことは、受け持ち症例を正確に記述する精神であります。 症例を正確に記載し報告として残すには、詳細な観察とその診療録への記載、問題点についての考察、指導医とのディスカッション、 患者・家族との適切なコミュニケーション、文献調査、現代医学の最先端情報の収集、そして忍耐強い経過のフォローが要求されます。 若い間でなければ、このような精神は身に付かないと思います。ポストゲノムの時代にあっても神経学にとって最も大切なことは、症例の記述であると考えます。 正確に記述された症例を持っていることが、より重要になる時代ともいえましょう。一例をおろそかにする者は、結局一例に泣くことになるのであります。 私どもの教室では、今後とも「一症例から出発したNeuroscience」をキャッチフレーズとして掲げていきたいと思います。 昨今の研究・医療機器、試薬等の高額さは驚くばかりです。当教室は慢性的な研究費不足に悩み、マンパワーもスペースも限りがあり厳しい研究環境にありますが、 いつの日にか症例を正確に記述する心を持った若手により他に類をみないユニークな研究で必ずや世界のトップへの道が切り拓かれるものと信じております。