研究紹介

神経病理学分野では神経疾患の病理形態学的研究を基盤としています。さらに生化学的および分子生物学的手法を加えて、その病態解析と治療法開発を目指しています。主な研究対象はプリオン病、脳腫瘍、神経変性疾患で、病院業務としては神経疾患の生検診断と剖検を担当しています。さらに病態機能内科学分野との共同で久山町研究における認知症剖検症例の神経病理診断と臨床病理学的研究に取り組んでいます。

1)プリオン病
 初代教授の立石潤らにより、ヒトプリオン病の脳乳剤をマウス、ラット脳内に接種して、世界に先駆けて実験小動物における伝播実験が初めて成功したのが1977年です。感染因子がslow virusと考えられていた当時から、プリオン仮説を提唱したPrusinerがノーベル賞を受賞するに至った現在まで、いわばプリオン病研究の黎明期から今日の発展に至るまで、当教室から脈々と病態に関わる新しい知見が世界に向けて発信され続けています。国内的にも、東北大学に栄転した北本哲之教授や堂浦克美教授などプリオン病研究をリードする人材が育ってきています。当教室はヒトプリオン病脳の病理解析を担ってきた国内でも有数の施設であるという実績により、貴重な標本が数多く集積されているという大きな学問的財産を蓄えています。これまでの当教室におけるプリオン病研究の歴史のうちには、日本人のプリオン病の特徴を明らかにするなど人体病理学的に多くの貢献がなされてきています。また、堂浦らによるプリオン病治療のための基礎研究は、ペントサン硫酸やマラリア治療薬などいくつかの治療候補薬を同定し、現在福岡大や長崎大など多施設で行なわれている臨床治
療研究の足がかりとなっています。
 プリオン病は感染性を有するという点で他の神経変性疾患と性質を異にしますが、構成的に発現している正常蛋白の高次構造が変換され、難溶化した異常蛋白が蓄積し、神経細胞毒性を来すというコンフォメーション病の性格はアルツハイマー病など他の疾患群と相通じるものがあります。モデルマウスが確立されているという点からも神経変性疾患の病態解明において有用な研究対象と言えます。現在の我々のテーマは、第一にプリオン病におけるシナプス関連蛋白発現の変化を解析することです。特にシナプス開口に関わるSNARE蛋白の早期からの発現低下がプリオン病の病理所見のhallmarkである海綿状変化と神経ネットワークの機能障害に繋がる可能性を検討しています。第二に、異常型プリオン蛋白の生化学的解析特にオリゴマー状態の蛋白解析の手法を模索しています。高度に凝集しアミロイド形成した蛋白よりも、コンパクトに重合した蛋白のほうが神経細胞毒性が強いと考えられ、オリゴマー状態の簡便な検出法を確立することは、感染予防という観点からも重要です。今後も厚生労働省のプリオン病及び遅発性ウイルスに関する調査研究班班員としての貢献、および
地域でのプリオン病剖検、病理解析の拠点としての貢献を続けたいと考えています。

2)神経発生と脳腫瘍の研究
 脳の組織発生は、胎生初期に外胚葉から誘導される神経管の形成から始まります。最初神経管は一層の神経上皮細胞から成る単純な構造の管ですが、脳の発生には、この神経上皮細胞の分裂によって将来ニューロンやグリア細胞に分化する前駆細胞が生み出され、最終目的地まで移動することによって細胞が正しく配置され,分化を遂げ、細胞間の連関や回路が形成されることが必要です。一方,脳腫瘍,特にグリオーマと呼ばれる最も頻度の高いグリア由来の腫瘍では、個々の腫瘍細胞があたかも神経系の前駆細胞のように脳の中を移動し、腫瘍が拡大していきます。正常の前駆細胞が見事に制御された増殖・移動・分化の動態を示すのに対し、腫瘍は無制限、無秩序,無目的に増殖し,移動し、既存の脳組織を破壊していきます。正常前駆細胞は確固たるルールに従って増殖・移動しているのに対し、グリオーマではそのルールの大切な部分が破綻しているのだという考え方ができます。グリオーマはその浸潤性の発育のために手術的に全摘出することが難しく、化学療法や放射線治療にも耐性を示し、ヒト腫瘍の中でも最も難治性の腫瘍のひとつです。私たちは、グリオーマの新たな治療戦略への糸口をつかむために、神経系前駆細胞とグリオーマの生物学的動態を比較しながら研究しています。細胞移動に関してはウイルスベクターなどを用いて細胞を蛍光標識し,ビデオ顕微鏡撮影により生きたままのラットの脳切片上でその移動様態を動的に観察するという手法をとっています。これにより正常前駆細胞の細胞分化に密接に関連した特異的な移動経路や、脳内に移植したグリオーマ細胞の血管に沿った、盛んな細胞分裂を伴う移動様式を可視化することに成功しました。また,これら細胞の移動および増殖に関する細胞内機構として、ダイニンやLIS1といった微小管関連蛋白が重要な役割を果たしていることを示唆する結果を得ています。今後とも細胞レベルの動的な解析と分子レベルの機能解析を組み合わせて、グリオーマの治療に結びつく細胞の"ルール"を見つけていきたいと思います。

3)久山町認知症研究
 剖検による人体病理学的研究として平成13年より病態機能内科学(旧二内科)との共同プロジェクトとして久山町研究における認知症疾患の病理学的解析を行なっています。久山町研究は、久山町(人口約7000人)の住民を対象とし、1961年より今日まで継続している心血管病の疫学調査です。特徴として対象者の死因を原則として病理解剖にて詳細に検討していることにあります(通算剖検率81%)。久山町研究症例の第3集団(1988年~)から新たに認知症調査を開始されたのが久山町認知症研究です。この研究は第3集団の全ての剖検症例について認知症疾患の病理診断を確定し、得られた神経病理所見と臨床疫学データを対応させ、それらをデータベース化しています。それによって病型分類ごとの危険因子の探索を行うための基盤を形成することを目標にしています。一般住民を対象とした疫学調査では認知症のスクリーニング、用いる臨床診断基準、断面および追跡調査の精度が問われますが、正確な認知症の診断には剖検による病理診断が欠かせません。認知症発症者の剖検率が89.5%(1985年)、77.0%(1992年)、73.4%(1998年)と高く、他の疫学研究にはない診断の精度が極めて高い研究です。さらに認知症の代表であるアルツハイマー病(AD)とレビー小体型認知症(DLB)は1990年代に定量的な臨床病理学的診断基準が新たに提唱されました。そこで、本研究では新しい診断基準にしたがって久山町剖検例の脳病理学的変化とともに臨床事項を再評価し、発症時と死亡時の各認知症疾患の頻度を明らかにしています。混合型についても定量的な病理変化をもとにその分類を試みています。その結果、認知症の病型別頻度はAD、脳血管性認知症(VD)、DLBの順に多く、日本人の認知症の頻度にも欧米化の傾向がみとめられます。具体的には混合型の症例も含めADの所見を有するものが54%と最も多く、次いでVDが45%、DLBが32%であり、DLBの多くはADを合併していました。また従来のDLBの診断基準は臨床診断と病理診断でその頻度が大きく異なることがこの研究を含め問題点として指摘されています。昨年その問題を改善するために新たなDLBの診断基準が取り決められました。現在、この新しい診断基準による分類を再適用し、その適否を検討しています。以上、本研究によって得られた認知症に関する臨床病理学的所見の詳細なデータベースは危険因子を検討するための基盤形成として重要なものです。さらにゲノム情報の蓄積を目指すことによって、様々な認知症疾患の危険因子の判定が行えます。その成果の一つとして、糖尿病がADの病理変化の危険因子となることを見いだしました。今後、これらの成果に基づく介入試験を構築することによって、将来、認知症の予防や軽症化に寄与する研究へと発展できることが期待されます

(文責:岩城 徹)