東日本大震災:私たちは

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更新日 2016-04-14 | 作成日 2008-03-25

 東日本大震災:私たちは

福島県いわき市での“心のケア”活動報告

第一報

厚労省精神・障害保健課から、3月22日に「福島県を応援して欲しい」との要請があり、そこで福島医大の丹羽真一教授に相談し、いわき市の心のケアチームに合流することになりました。
いわき市は、福島第一原発の南に位置し、20~30Kmの自主避難地域を含む、周辺含めて約50万人の都市です。大気中放射能は、毎時0.5 micro Svと福島県のなかではやや低値を示していましたが、原発の新たな暴走の可能性に備えて、放射線科の専門医に放射線被曝の講習を受け、線量計と安定ヨウ素を渡してもらうなど、少々準備に時間をかけました。ちなみに、僕らが携帯した線量計によれば、いわき市で(3泊4日)総被曝量は7.64 microSVでした。ニューヨークと東京を往復すると200 microSvですから、少量であったと言えます。
いわき市には、震災直後から、大阪のさわ病院から派遣されているチーム(緑川医師、薬剤師、看護師1名、訪問看護師1名)が活動を続けています。これまでにもすでに、成増厚生病院、横浜市大精神科から応援があり、福島医大は、2~3名が、数日おきに現地の情報収集を兼ねて応援に来ています。
初日は、彼らと一緒に避難所をまわり、二日目からは、さわ病院チームと九大病院チームとが分かれて活動しました。この時点で、避難所は48カ所、避難者数は3012名(福島県全体では、避難所446、避難者36227)でした。外へ移れる方から徐々に避難所を出て行き、どこも縮小傾向にあり、小さな避難所は統合されつつありました。今後は、どこにも行く先の無い、弱者の中の弱者が残されていくことと思います。
島のように点在する避難所を除くと、町は普段の活動をとり戻しつつありました。ちょうど入学式もあり、体育館で肩身の狭い思いをされている避難者の姿と晴れやかに入学式に向かう生徒や家族の姿とが極めて対照的でした。町には物資もガソリンも届きだしており、食堂、ホテルなども徐々に利用ができるようになりました。また、帰路につく8日の時点では、地元の精神科医療システムも少しずつ立ち上がってきたようです。
4月7日には、昭和大の加藤進昌教授ら6名が応援に来られましたので、引き継ぐことができました。さらに4月11日からは、国立精神神経医療研究センター(NCNP)が7月までチームを派遣するようです。こうなると、さわ病院チームもかなり楽になるか、あるいはこの時点でNCNPが中核となり、さわ病院チームは帰る、ということになるかも知れません。
しかしながら、2011年4月3日中國新聞の記事によれば、岩手35チーム、宮城76チームに対し、福島2チームと、医療チームの数をみても福島は、原発事故のために敬遠されています。僕らが駆けつけた時には、状況は改善されているようですが、それでも今後引き続き支援が必要です。九大精神科の第二陣は4月18日に出発しました。

(神庭重信)


準備について
今回の震災に当たって、医療支援で福島県に応援に行くことは決まりましたが、具体的な派遣場所や、業務内容がなかなか決まらない中、準備を開始しなければなりませんでした。さらに、病院から物資や経済的な援助は受けることができましたが、支援先との情報連絡をはじめ、現地までの足や物資の輸送など、すべてを精神科でマネージしなければいけませんでした。
準備にあたっては、何よりもまず、現地の情報が必要です。ところが、被災地の情報を正確に把握することが、非常に困難でした。今回の震災では、被害が広範囲に及んでおり、それぞれの地域で地震、津波、原発など、被害の種類も異なっていました。そして、それが原発、物流、ライフラインの復旧など、多くの要因で、刻一刻と変化していました。新聞やマスメディアの情報は、まとまってはいるけれども、若干のタイムラグがあり、ネットには、リアルタイムの情報が上がるけれども断片的で、しかも時間の流れの中にすぐ埋もれてしまいます。また、すでに現地入りしている医療従事者からの情報も、津波被害が大きかった地区からのものが多く、完全自立型のチームが必要に思われました。そういった状況で、最低限の自分たちの足と水食料を含めた物資を持参できるように、準備だけは、行っておく方針としました。
次に大変だったのは、現地に入るルートの決定です。首都圏は、原発パニックで、ガソリンや飲用水不足が起こっていましたので、首都圏で物資を調達することは困難と判断し、福岡から比較的大量の荷物を運びこめるルートを模索しました。鉄道や高速道路の復旧状況をにらみながら、新潟経由の磐越自動車道が、現実的だとは早い段階で結論できたのですが、新潟では福島方面へのレンタカーの貸し出しを制限していたり、思わぬ障害があって、一つ一つ現地までの道のりを押さえていくような作業となりました。
結果的には、派遣地となったいわき市では、我々が到着する数日前に、ガソリンの供給が回復したのをきっかけとして、物流が急速に改善していました。そして、ライフラインの復旧とも相まって、被害が少なかった地域では、普通の市民生活が戻ってきていました。我々の準備は、ややタイミングを逸した、オーバーなものになってしまっていました。

さわ病院との連携について
我々が赴いたいわき市には、福島県立医大のこころのケアチームとして、さわ病院から派遣された精神科医を含む4人のチームが常駐し活動をしていました。加えて、隔日で福島県立医大から精神科医を含む3-4人のチームが応援に来るといった体制でした。我々は、このさわ病院チームに合流したのですが、ちょうどそのころ、日本医師会災害医療チームJMATから、国立精神神経センターの井上医師と大村市から駆けつけた小児科医の出口医師がこころのケアチームに参加しており、総勢9名で活動を行いました。
このメンバーでいわき市全域をカバーしていたわけですが、こころのケアチームとして、避難所を個別に訪問し、問題を拾い上げる活動に加え、JMATから上がってくる相談にも対応していました。JMATは、各チームに避難所が割り当てられており、比較的深くそこにかかわっていることが多く、個別の問題に関して有用な情報の交換が行われていました。しかし、時には、一般身体科医師では見逃すようなケースを、我々が発見することもあり、お互いに良い連携を保ちながら、被災地のケアを行っていたと感じました。

(三浦智史)


震災支援報告
神庭重信教授、三浦智史先生と私の3名で、4月4日(月)から4月8日(金)まで震災支援のため、福島県いわき市に行ってまいりました。詳しい報告は後日いたしますが、取り急ぎ簡単なご報告をさせていただきます。
移動手段の確保が必要と考え、レンタカーを利用したのですが、予約をした時点では燃料満タンで貸し出せるところが少なかったため、飛行機で新潟に入り、レンタカーを借りて、いわき市に入ることにいたしました。4月4日の夕方の便で新潟に入り、4日は新潟に泊まり、翌日朝にレンタカーで新潟を出て、磐越自動車道をとおり、正午ごろにいわき市に着きました。いわき市では、いわき市の心のケアチームの一員として、既に活動をしていたさわ病院のチームとともに、主に避難所をまわって、避難されている方々に声をかけ、被災者のメンタルヘルスの維持に努めてきました。
4月5日午後から湯本第三小学校、平体育館。
4月6日午前に小名浜第二中学校、小名浜公民館。午後に江名中学校、江名小学校。
4月7日午前に磐崎小学校、長倉小学校。午後に湯本高校、好間公民館。
4月8日午前に内郷コミュニティーセンターと避難所をまわり、昼にいわき市を出て磐越自動車道を通って、新潟に向かい、18時新潟発の便で福岡に戻りました。
毎朝9時にいわき市総合保健福祉センターで地元の保健師さんを交えてその日にまわる避難所の確認等のミーティングをおこない、避難所をまわり終わった後にも、保健福祉センターに集合し、その日の振り返りと継続支援の必要な方の申し送り等のため、ミーティングをおこなっていました。
私たちが着いたころは、いわき市のライフラインは復帰しつつあり、都心では電気、ガス、水道は復旧し、コンビニエンスストアも営業しており、食事のとれるお店もメニュー限定で始まっていました。しかし、一部の地域ではまだ水が出ないところもあり、自衛隊の給水車に頼っている避難所もありました。近隣の医療機関は徐々に立ち上がってきている時期でした。ライフラインが復旧してきたこともあり、被災者の中には自宅に帰る人たちも出始めており、避難所は縮小され徐々に統廃合されているところでした。避難されている方々は様々で、津波で家をなくした方、自宅の水が出ないので避難されている方、家は全く問題でないが原発30km圏内なので避難されてきている方など、個人を取り巻く状況はそれぞれ異なっていました。長期にわたる避難所生活のため不眠を訴えられる方や血圧の上昇、糖尿病の悪化をみとめる方が多かったです。未治療で自宅に引きこもっていた統合失調症の患者さんや、震災後服薬が中断されていた慢性の統合失調症の患者さんなどもおられました。今後順調に進めば、避難されている方々は仮設住宅や市が借り上げた住宅に移り、4月末ごろには避難所は閉鎖される予定となっており、これからの支援の方法は異なってくると思われます。

(實松寛晋)


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東日本大震災災害派遣 報告書


第二報

教室からの第二陣として、4月18日から22日までいわき市に行ってまいりました。市内の物流は随分改善し、市民の生活も正常化に向かっている様子でしたが、避難所は減っておらず、多数の人が不自由な生活を余儀なくされていらっしゃいました。多くの人にとって必要なのは、「心のケア」よりも、住居とかお金とか、もっと具体的なものなのですが、やはり一部の方には精神科的な支援の必要が認められます。常日頃、自分は診察室にいて、患者さんの方が出向いてくださる状況に慣れきっていましたが、自分から出向いて需要の状態そのものを評価するというのは、何とも難しい仕事であるように思われました。今後どのようなかたちで、どれぐらい支援を続けていくのがよいのか、まだ見通しが立っていないのですが、地元担当課は、細く長く支援してもらえることを希望されているので、今後も状況にあわせて、方針を決めていきたいと考えております。
教室からの支援につきましては、今後も当メーリングリストを通じてご報告させていただきますが、他にも県や医師会を通じて、東北のさまざまな地で支援にあたられた方がいらっしゃるとお聞きしております。すでに数名の方には原稿をお願いしているところですので、近日中にお届けできればと考えております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

(本村 啓介)


4/18~22の日程で本村医師、小林看護師とともに活動を行ってきました。
先にアクセスのことについて述べますと、今回は福岡-羽田(空路、2時間弱)、羽田-東京駅-郡山駅(モノレール、山手線、東北新幹線、計約3時間)、郡山-いわき市(レンタカー、約1時間半)、という経路をとりました。
荷物の量と乗換えの手間を考えると伊丹経由での福島空港からのアクセスがより容易に思いますが今回はチケットを確保できませんでした。
活動内容はかなり詰まっており、レンタカーのプリウスを利用して広大ないわき市の中心部、沿岸部、山間部を駆けめぐりました。また活動内容も大規模体育館、小規模集会所での避難者の診察、山間部小学校への訪問、乳幼児健診参加の母親を通じてのこどものこころのケア、と多彩なものでした。
診療中にたまたま遭遇した東電による原発避難者への賠償説明会は怒声の飛び交う殺伐とした雰囲気となり、震災、津波に重ねて起きた原発問題が被災者にもたらしたやり場のない怒りを目の当たりにして、やりきれない気持ちになりました。
4/20の水曜はほぼ丸一日を費やし、いわき市南西の山間部、田人地区の支援に行きました。4/11の余震により大規模な山崩れが起こり犠牲者の出た山村は、まだ中心部への道路が通行止めのままでしたが、小さな集会所に避難したお年寄りはみな元気で突然現れた私たちを明るく暖かく迎えてくれました。そこでは今なおドーン、ドーンと地の底から突き上げるような余震が続いていましたが、「毎晩宴会して楽しくしとるんよ。あんた達も泊まっていかんね」と優しく笑う彼らの態度は、もちろん被災直後の気持ちの昂ぶりはあるのでしょうが、未曾有の大災害に立ち向かう日本人の気概と慎ましさを感じさせてくれ、私たちの心を強く打ったのでした。
活動中は朝夕のミーティングを通じてチーム内での疎通が十分に取られており、チームリーダーであるさわ病院緑川医師のフレンドリーで包容力のある人柄がチームの円滑な活動をいっそう促進していました。自分自身もチーム医療という観点からも多くのことを学べたと思います。また参加できればという思いを残して帰路につきました。

(中尾智博)


第三報

福岡県心のケアチームでの活動報告

私は4月2日〜4月10日 の期間、東北地方太平洋沖地震の被災地である宮城県気仙沼市に、福岡県心のケアチーム第2陣として支援に行ってまいりました。
今回の派遣は厚生労働省からの支援要請によるもので、福岡県・福岡市・北九州市の3自治体合同チームで、精神科医師・保健師・臨床心理士・作業療法士・事務職等、計4〜5名で構成されています。

支援担当地区と宿泊地は共に気仙沼市内の本吉地区で、現地に入った時点で主要な施設の電気・ガスは復旧していましたが水道は断水状態で、15ヶ所の避難所に約2,700人の住民の方々が避難されている状況でした。

本吉総合支所の精神担当保健師に支援の具体的な調整を行っていただきました。主な支援内容は、I.避難所の心のケア巡回相談(月・水・金)、II.個別訪問(火・木・土)、III.本吉総合支所の職員への心のケア相談(月)です。同時期に気仙沼市では、愛知県、北海道、山梨県などの心のケアチームが活動しており、連絡会議を行いながらチーム間で情報共有を努めていました。

現地で支援者として働いている方々の多くが被災されており、外から支援に入る私たちにとって、支援者の方々のメンタルヘルスへの取り組みは必須であると実感しました。私たちは震災から3週間後の現地で活動を行いましたが、今後も時期に応じた適切な心のケアが必要とされています。今回の経験を活かしながら、今後も引き続き災害時こころのケア対策に取り組んでいきたいと思います。

(北九州市立精神保健福祉センター  小楠 真澄)


第四報

災害支援報告

5月16日(月)から5月20日(金)まで震災支援のため福島県いわき市に行ってまいりました。ここに報告します。

16日に大阪伊丹経由にていわき市に入りました。いわき市の被災状況は、海岸周辺は津波被害で全壊家屋が立ち並んで、震災後2か月を経過した時点でも瓦礫の山がある状態でしたが、市街地はほとんど平常の状態でした。

17日より、国立精神神経センターのチームと並行して心のケア活動をしました。主な活動としては、避難所の訪問によるケアと、乳幼児健診での母親の相談を受けるということを行いました。乳幼児健診は効率よく大勢にアプローチできる機会として、いわき市の心のケアチームが継続して活動しているとのことでした。

保健福祉センターも十分には避難所の様子を把握できていなかったので、状況把握のためなるべく多くの避難所を回ること、押し付けにならない程度の乳幼児健診でのアプローチがよいだろうと考え、我々は支援活動を行いました。
実際に訪問して、初めてわかる情報もありました。

合計で13か所の避難所を回りましたが、避難されている方の転居地がほぼ決まり、5月末前後で閉鎖される予定の避難所もありました。また、小学校・中学校の体育館を利用した避難所は、授業開始とともに閉鎖され、公民館を利用した避難所に統合されていく傾向にありました。

避難所では、精神面での不安を語られる方がおられましたが、むしろ衛生面や栄養の偏りが気になりました。

避難されている方は、いつも訪問者にお礼を言う連続になっているようで、むしろ我々に何かをくれたりすることで喜んでくれる方も多く、お菓子など有難くいただきました。

乳幼児健診では、多くの母親が子供さんへの放射能の影響を気にしておられました。また、お子さんが震災後一人でトイレに行けなくなった、などの相談も受けました。

被災された方への支援は今後も必要であり、今後、更に精神科が重要となる時期になります。一方で、今後の心のケア活動においてはニーズが多様化し、臨機応変な対応がチームに求められるだろうという印象を持ちました。

(鬼塚俊明)


福島県いわき市 こころのケアチーム 派遣ご報告

このたび、当科から第三陣目の医療派遣として、5月16日から5月20日までの5日間、鬼塚俊明先生・藤井美和看護師と共に福島県いわき市に行ってまいりましたのでご報告申し上げます。

今回私は大学院生という立場ではじめての派遣となりました。やや実務的な話になりますが、当初問題となっていた大学病院職員でない者が派遣される場合の災害保険に関してですが、日本医師会が組織した災害医療チーム:JMATが主宰する災害保険に無事加入することが出来、私も被災地への医療派遣に参加することが出来ました。

大震災よりはや2ヶ月が過ぎ、復興に向けて様々な活動がなされ始めてはいましたが、いわき市は未だ35カ所の避難所、約1370名の避難者数(5月16日時点)を抱えた状態でありました。活動初日に被災地視察として、いわき市南東部に位置する小名浜地区に行きました。小名浜地区は震災後の大津波で被害の大きかった地域であり、土地の低い海岸線沿いは未だに多くの瓦礫が残っておりました。原形をとどめていない家財道具、見たこともない形にねじ曲がった自動車、大きく傾いた家屋などが雑然と残っており、それでも「瓦礫の8割方は片付いた状態」と聞き、改めてその被害の大きさを知り、ただ驚くばかりでした。

現地での活動ですが、我々より一歩先にいわき市に入っていた国立精神神経センターからの派遣チーム(精神科医2名、看護師1名、管理栄養士1名)が主導をとってくださり、活動は二手に分かれて行いました。毎朝・夕にいわき市職員の保健師も同席の上、じっくりとしたカンファレンスを行っており、チーム間の疎通は非常に円滑だったように思います。
我々が行ったことは、主に避難所への訪問診察と乳幼児検診での母子ともに対するメンタルヘルスケア活動でした。いわき市は広く、レンタカーでカーナビを頼りに避難所を廻りました。以下に活動日と場所を報告いたします。

5月16日(月):福岡空港-大阪伊丹空港経由-福島空港 レンタカーにていわき市へ移動
5月17日(火):平地区/1歳6ヶ月児検診(いわき市総合福祉保健センター)
5月18日(水):小名浜地区/避難所訪問診察(7カ所) 小名浜地区/4ヶ月児検診(小名浜市民会館)
5月19日(木):常磐地区/避難所訪問診察(6カ所) 勿来地区/3歳児検診(勿来市民会館)
5月20日(金):レンタカーにて空港へ移動 福島空港-大阪伊丹空港-福岡空港

震災の被害が色濃く残る中で、現在のいわき市は新たな段階への過渡期にあるように感じました。避難所には未だ多くの被災された方々が生活を送っておられますが、避難所は縮小傾向にあり、その中の少なくない方々は新たな生活拠点を探されている状況でした。避難所で困難を抱えておられる方々は、先陣の先生方が診られたものと同様のものが多かったのは事実でありますが、それに加え被災直後の昂ぶりからある部分では醒め、より現実的な不安が背景にあるように感じられました。乳幼児検診の会場では、小さなお子様を抱えられる方々から、子供たちへの放射線の影響、特にその長期的な影響を心配する声が多く聞かれました。中には子供が成人後の婚姻への影響までも口にされるお母さんもおられ、被災された方々の行き場のない気持ちを垣間見て、やりきれない気持ちになりました。

今後は更に被災地の状況、被災された方々の状況というのは刻々と変化していくものと思われます。まだまだこれからも支援が継続的に必要であることは確かでありますが、その中で我々が行うこともそれに応じた流動的なものであるべきだと思いました。

被災地の一日でも早い復興と被災者の皆様のご健康をお祈りして、私からのご報告とさせていただきます。

(脳生理学研究室 大学院生 小原尚利)



第五報

岩手県への災害支援報告

九州大学病院子どものこころの診療部から、7月3日から10日にかけて、災害後のメンタルヘルス支援のために、小児科医師、心理士、精神科医師3名のチームとして岩手県に赴いた。仙台空港はまだ定期便が十分に復旧しておらず、東京から新幹線での往復となった。

私たちの目標は三つあった。一つは、吉田と長年交流の深い岩手医科大学精神科医局で、県下に医療支援に出向いている教官を助けるべく、研修医に対し教育研修を行うことである。二つ目は、岩手県の周産期母子メンタルヘルスへの支援である。吉田らの母子メンタルヘルスのチームは、10年余にわたって、岩手医大、岩手県の行政の保健師や助産師、および岩手県医師会の産婦人科医会のスタッフと、産後うつ研究スクリーニングの実施をはじめ、包括的な育児支援を目指した共同研究を行ってきた。岩手県はほぼ県下全域にわたって、子どもを持った妊産婦は概ね全員、母子メンタルヘルスの健診システムに乗る素地のある全国でも類い稀な地域である。震災後も、息長く継続ができるようサポートをしなければならない。三つ目は、津波による大きな被害を受けた沿岸地区に対し、県医師会から診療支援の要望があったが、私たちができることは何かを私たちの体験をとおして探ることであった。

大まかな全行程は次の通りである。

(1)講義・研修関連:(7月3日)岩手児童精神学術講習会での講演『母子保健研究と活動の最前線―チームでの途切れない活動のあり方―』、(7月9日)岩手医科大学 精神科医局 研修医への児童精神医学集中講義

(2)周産期母子メンタルヘルス関連:(7月4日)岩手県産婦人科医会主催 妊産婦メンタルヘルス調査研究委員会への参加、岩手県庁保健福祉部、児童家庭課を訪問。現在の医療体制および、遺児、孤児への対応、子どものこころのケアプランについて説明を受けた。(7月4日)一関保健所、(7月5日)宮古保健所において講演 『妊産婦および児童のメンタルケア学習会』多くの地域で、エジンバラ産後うつ病質問票(EPDS)、育児支援チェックリスト、赤ちゃんへの気持ち質問票は、震災前後で絶えることなく、実行継続されていた。自ら被災し、家族と会えない不安に耐えながら、妊婦と赤ちゃんを支え続けた助産師から、震災前後におけるPDS得点の変化について、貴重な発表をしていただいた。被災妊婦のEPDS得点は震災直後一時的に上昇していたが、1か月後には非被災妊婦との有意差の無いところまで低下していた。この結果にはまだ十分な考察と解析が必要であるが、震災の最中にも、保健活動に取り組まれた、そのご尽力に平伏する限りであった。

(3)沿岸部地区への支援関連
7月4日~8日をかけて、久慈、野田村、宮古、山田、大槌、釜石、大船渡、陸前高田と沿岸部地区の保育所や診療所を訪れた。野田村保育園では、乳幼児のトラウマについての講習を行った。ここの保育園は、津波の発生で流されてしまったので、園児たちは、4月より臨時に開設された園で、通園を再開した。発災日は、園児は保育士たちに抱えられて一人欠けることなく助けられたそうだが、その時の保育士たちの義務感、切迫感、恐怖感はいか程であったか想像に絶する。子どもたちは私たちが近寄ると人懐こく近寄り次々に話しかけてきた。現地の保育士らは「岩手の子どもは普段はもっと恥ずかしがり屋でおとなしい」と不安げに語っていた。私は、少しの間、子どもたちと一緒に遊んだが、その間にも、子どもたちは“救援物資”“避難所”などの言葉を頻繁に使い、積木で「津波ごっこ」をした。子どもたちのこのような反応は、数か月前はもっと激しかったそうである。園を開園した保育士たちの労は計り知れないが、その成果あって、子どもたちも少しずつ日常の営みを取り戻そうとしている。まだこれからも長い道のりである。保育士たち自身もいかに支えられていくかとい
うことが、直接子どもたちのこころに関わるだろうと感じられた。

岩手県は、四国とほぼ同等の広さを持つ広大な県である。巨大地震の影響は広大な県全域に多様な影響を及ぼしたが、想像を絶する津波の影響を受けた沿岸部地区には、今なお深い爪痕を残していた。特に、地域社会のリーダーや医療の要となる長を失った陸前高田市などの地区は、県外からの急性期支援に支えられながら、どう立ち上がればよいのか、まだ、前の見えない復興の闇を模索している。津波の被害の少なかった盛岡市を中心とする内陸部の支援者らも、沿岸部の状況には深く心を痛めており、精力的に活動されていた。災害から約4か月が経った今、精神保健医療ほか、子どもの擁護、保育、教育に携わるスタッフらの様子には、被災地区、被災地周辺地区いずれにおいても、不安、苦痛、そして疲労が明らかであった。

私たちも毎夜のように、細かな余震で目覚めた。7月10日、私たちが岩手県を発とうとするとき、滞在中でもっとも大きい揺れを感じた。この地を離れる私たちとは違い、発災後頻回に揺れを感じているかれらの「今」と「これから」の不安は尽きないことだろう。かれらの独特の気質に触れ、私たちがむしろ力を与えられる感触さえあった。

このような中で、喜びの一報もある。平成23年6月26日「平泉-仏国土(浄土)」をあらわす建築・庭園及び考古学的遺跡群が、世界遺産に登録された。岩手県の希望の一つになってくれることを祈りたい。

吉田らが長年行って来た母子メンタルヘルスのしくみが、岩手県全体によく浸透していることが私にもよく理解できた。このようなメンタルヘルスの健診システムが既にあることは、今回のような特別の事態の発生時に、大きな役割を果たすであろうし、私たちも、そのように努めなければならないのだと実感し、帰途についた。

九州大学病院子どものこころの診療部
錦井友美、岩元澄子、吉田敬子

(錦井友美)


第4回福島県災害派遣報告

H23年7月4日~8日の間、私、臼杵理人先生(国立災害医療センター)、冨森玲子看護師長の3人で第4班として福島県いわき市を訪問しました。訪問中は2班に分かれての活動でしたので、私が担当した部分のみご報告します。

7月4日(月曜日)午前 福岡空港を出発

伊丹空港乗継で福島空港に15時30分頃到着。駐機しているのは、今私が乗ってきたANAと外国の航空会社との共同運航の定員50人ほどの小型旅客機だけで、空港というより停留所と言った方がいいような閑散とした空港でした。2時間もしたら職員も休み時間になるそうです。多分、JALの路線が廃止になったからでしょう。空港からは冨森師長とともにレンタカーでいわき市内に入り、宿泊先で臼杵先生と合流しました。その日は、いわき市総合健康保健センター(以下センター)の担当者に到着した旨のみ電話連絡し、実際の活動は翌日から。

7月5日(火曜日)避難所の訪問

朝9時前にセンター集合してミーティング。センター職員の指示に従って、今後は2班に分かれての行動となる。午前は近隣の数か所の避難所を訪問の予定でしたが、急きょ措置診察依頼が入り、避難所訪問は平地区(センターから車で10分程度の近隣)の1か所のみでした。その避難所(体育館)にいる職員の話では最大130人いた避難者も、今は自宅、仮設住宅などに移ってしまい、名簿上残ったのは50人程度だそうです。確かに、段ボール製の衝立で仕切られた“しま”はぎっしりというかんじではなく、それなりに余裕のある配置になっており、普段着の避難者がくつろいでいました。ちょうど現地職員と長崎県の自治体職員が避難者に昼食を配っているところでした。避難者から現状を聞くつもりでしたが、そのことを切り出す前に職員から、残っている避難者はもともと自活能力の低い人々で入所時に本名や住所を確認していないため、荷物だけ残して何日も所在不明であったり、不定期に夜間に戻ってきて宿泊施設として利用したりしているとか、セクハラや盗難などのモラルハザードもあって困っているなど1時間近くも話し込まれ、避難者と直接会話はできませんでした。

午後は車で海側に1時間くらいの勿来(なこそ)地区にある介護施設にいる脳性四肢麻痺の方の訪問。途中、橋が落ちて通行禁止の箇所があったり、ほとんどの屋根にはブルーシートがかけられたりなど、この辺りまで来ると復旧もまだ十分ではない印象でした。彼女は寝たきり全介助でしたが、ヘルパーを利用しながら在宅だったのに、地震後からは不眠、情緒不安定で在宅できなくなったそうです。

7月6日(水曜日)

午前は父親、長男、長女が軽度精神遅滞、母親が統合失調症の家庭訪問。自宅の居間には段ボール箱にあふれるほどの何かを録画したビデオテープが置いてあって、尋ねると地震が来たらすぐ持って避難できるようにと長男が置いていて、触ると暴れるのでそのままにしているとのことでした。そんなに貴重なものには見えなかったのに。
午後は小名浜(おなはま)地区というセンターから車で30分ほどの海岸側地域の1歳半健診で母子メンタル相談。数人の保健師と栄養士、看護実習生とともに意見交換。

7月7日(木曜日)

午前は、他の二人は雇用促進住宅(避難住宅)で住民の交流会に参加。
私は、OCDの男性の家庭訪問。朝からずっと2階の自室で寝ていてほとんど降りてこず、地震の後1か月くらいは病院も閉鎖されていて、受診もできていなかったらしい。デイケアなど促してみましたが、それまでの主治医は地震をさかいに退職してしまい、今の主治医とはまだ関係ができていないので話せるようになったら相談してみますとのことでした。
午後はセンターで3歳時健診の母子メンタル相談。

7月8日(金曜日)福岡へ

12時30分福島空港を出発、伊丹空港経由で16時00分福岡空港に到着。

所感

出発前には避難所はもっと混雑していて梅雨に入っても冷房も効かずに、
避難者の衛生面や精神的なストレスが問題となっていると想像していましたが、私が見たいわき市は想像していた状況とはだいぶ違っていました。すべての道路は新しく舗装され、大半の避難者は避難所を出ていて、一見、町は平時に戻っているように見えました。しかし、実は新たな問題が次々におきていて非常に困難な状況が続いています。今でも続く余震。カーテンが揺れると地震と思って3歳の子供がおびえるので窓を開けられない家庭や地震を恐れて居間の隅に緊急避難用に荷物がまとめておいてある家庭。避難住宅ではコミュニティーが形成されずに孤立した高齢者。連日避難所の当直が続いて疲弊した職員。風評被害も深刻です。センターには“スクリーニング会場”があり、そこでテストをうけて証明書を発行してもらわないと県外に転居できないそうです。九州電力の職員がテストをしていました。ちなみに、滞在中の私の被ばく量は平均0.7μSv/8hrでした、自然被ばく量と変わりません。いわき市の名物は魚料理ですが、漁港は閉鎖されたままで魚は県外から輸送されてきます。また、震災前には首都圏からの里帰り分娩が普通だったのに、胎児被ばくを恐れ、逆に福島を出る妊婦が多く、残った妊婦は不安が大きいと保健師から聞いた話も印象的でした。

突然の災害で家族、財産、仕事をはじめ今まで築き上げてきた全てのものを失い、さらに理不尽な原発事故で故郷を追い出され、コミュニティーを失った人々は大変みじめです。彼らには現に身に着けているもの以外は何も残されていないように思えます。九州からきた私がかけようとするどの言葉も、彼らに届くとは到底思えません。その感覚は、ちょうど長期入院中の慢性統合失調症の患者にはじめて会って自己紹介する時に似ています。どんなに共感しようとしてもそれまでに患者が過ごしてきた時間は共有できないのと同じように、今回の震災での被災者の体験をわれわれは共有できないのです。この後も故郷に帰られず、世間の差別に晒されるかもしれない彼らにどんな言葉をかければよいのでしょう?それでも多くを語らず、「遠くから来てくれてありがとうございます」という彼らに、われわれにはない東北人の忍耐気質をみたように思いました。帰りの飛行機から見下ろす福島の新緑の素晴らしさが、彼らの今後と対照的に思えていつになく感傷的な気分で帰途につきました。

(九州大学医学研究院 助教 前川敏彦)


第4回福島県医療支援活動報告

平成23年7/4(月)から7/8(金)にかけて、前川敏彦助教、冨森玲子看護師長と共に福島県いわき市にて医療支援活動を行って参りました。私たちは、各地区の避難所巡回、在宅精神障害者の家庭訪問、在宅精神障害者の家庭訪問、1.6歳児と3歳児健診における精神保健相談、一時提供住宅においての心のケア講話、などを分担して行いました。その概観を述べさせて頂きます。

今回の派遣の所感は(これまでも諸先生方が述べられておりますが)以下の三点に集約されました。一つは、避難所からの移住が進む中で被災者間格差が更に広がりつつある点。一つは、原発事故の影響が精神衛生に色濃く影を落とし続けている点。最後に、破綻したコミュニティの再構築に伴う精神的ケアと適切な心理教育が、今後重要な課題になると推察される点です。

各避難所では、既に殆どの避難者が仮設住宅や新住居への移転を済ませており、災害復興は次フェイズに移行していることが明らかでした。一方で少数の方は未だ避難所に残っておられ、中には情報不足で本来必要なサポートを十分受けられなかった例も散見されました(避難所の存在を知らずに知人宅を転々としていたなど)。特に印象的だったのは、公民館の片隅で盲目の弟を介護しつつ転居先を探す老姉弟です。弟の視覚障害もあり適切な物件が見付からない、と嘆く姉からは疲弊の色が濃く、臥床した弟は応答の力なく明らかに衰弱と抑うつ状態を呈していたため、医療対応が必要と判断してセンターへ介入を提案させて頂きました。彼女たちの数畳隣では「転居先が決まったんですよ」と別の避難家族が笑顔をこぼしており、復興が着実に進む中だからこそ声の小さい者は取り残されがちになるという現実を目の当たりにした感がありました。

また、先行き不透明な原発事故への不安が行く先々で聞かれました。「子供がサッカーをしているが、どこまでグラウンドを使わせれば良いかが心配だ。
それでも此処で生活すると決めたから私が頑張らないと」と避難所で気丈に振る舞いつつも不意に流涙する母親、「親戚の購入した新居の放射線が気になる。
住んで欲しくないが、親戚にどう接すればいいか分からない」と適応不全を呈してセンターへ相談に来る女性、更には行政関係者からも「思う所はあるが、原発関係者が親族に居る者も多く対応がデリケートにならざるを得ない」とアンビバレントな声が聞かれました。住人への持続ストレスとしては地震そのものより大きい印象があるものの、彼等の諦念半分意地半分といった表情を前にして私達は無責任な言葉もかけられず、ただ支持的に接するのが最善と考え話を聞くのみでした。

暗い話ばかりだと気が滅入りそうですが、今回特筆すべきは、精神保健福祉センター主導による一時提供住宅住居者の交流会が初開催されたことです。我々にもメンタルケアに関する講話を行ってほしいとの要望があり、それに応じる形となりました。

血圧測定や健康診断、健康体操などをインテーク代わりに行い、お茶菓子を摘みつつ語り合う形で交流会は開催されました。参加者の方々は、個人情報保護の兼ね合いもあり、隣人の顔や名前も知らなかったようです。最後に私と冨森師長が講話を行いましたが、指導的なものではなく、参加者の「寝ている時に不安感が襲ってくる」「病院が変わったので通院が大変である」などの相談とも独白ともつかぬ生々しい言葉を拾い上げていく形になりました。一部のエネルギッシュな参加者に引っ張られる形で、幾人かの方々が地震体験や現状の問題点を自ら語り始め、徐々に体験を共有していくそのさまは集団精神療法にも近いエッセンスを感じさせました。震災によって関係性を分断された被災者が新規共同体に否応無く放り込まれる中、そこに何とか共感と連帯を取り戻していこうとする、象徴的で印象深いイベントでした。

最後に、支援活動が終了した後、私は単独で福島原発方面に車を走らせました。原発への不安が三々五々飛び出す中、やはり現状を把握したかったのです。
海岸線には津波で壊滅した集落が多く、廃墟には「解体予定」の札が連なっていました。それでも内陸部は一見平和で、子供たちが登下校する長閑な光景が原発半径40km程度まで続きました。その先は徐々に人影が減る一方で、半径30km圏内(避難勧奨地域)からは原発復旧工事の関係車ばかりが土埃を立て往来するものものしい雰囲気が漂い始めます。そんな中、閑散とした集落で老夫婦一家が生活しているのを見つけ少し驚きました。他に行く所も無い、ということでしょうか。半径20km圏内(立ち入り禁止地域)直前には広野火力発電所の白亜の大煙突が天を衝いており、多くの車両が集まる復旧拠点になっていました。一角には放射性物質除染場の立て札があり、その響きに背筋が冷たくなったのを覚えています。やはり原発の問題を抜きにして今の福島の現状は語れない。匕首を喉元に突き付けられて素朴に復興を語ることの難しさを痛感させられたままで、幹線道路が警察に厳重封鎖されているのを見届け、足早に高速道路に乗り込んで帰京の途につきました。

今回の支援に前後して、Lancet誌上に、あるletterのやりとりが掲載されました。英国の論者が日本における災害対応体制の不足を憂い、積極的なカウンセリング介入の必要性を主張したのに対して、国内の論者から、過度の早期介入はトラウマ体験を強調して有害な可能性もあり、被災者のレジリエンスを理解して慎重に対応すべきであるとの反論が投稿されたのです1,2。双方の見解に頷ける面がありますが、こうした論議により現地の状況を意識に浮かべつつ、現場からのフィードバックをまた循環させていくことが、恐らくは良い結果を涵養するのでしょう。

最後に一筆強調しておきたいのは、センター職員や現地の小児科医からは今しばらくの支援継続について切なる要望があった点です。それは単純に人的・物的支援を求めているというより、「私達はどうなるのだろうか?」、そんな当然の不安の裏返しに見えました。そしてその不安に照射されることによって私達自身もまた問われているのだと、強く実感しました。

このように未だ暗中ではありましたが、新しい復興の形を一歩ずつ模索して行く人々のエネルギーに触れた貴重な支援活動でした。活動にあたりまして様々なご助力を頂きました九州大学精神神経科同門会の皆様に、この場を借りて深く御礼申し上げます。

【引用】
1  McCurry J. Japan: the aftermath. Lancet 2011; 377: 1061–62.
2  Kim Y. Post-disaster mental health care in Japan. Lancet 2011;
  378: 317-18

(大学院生 臼杵理人)


福島県災害派遣報告 -第5班-

2011年8月1日から8月5日まで、勝木聡美先生と川津拓也看護師、そして私の3人のチームで、福島県いわき市に災害医療支援第5班として、行ってまいりましたのでご報告いたします。今回は、それに加え、九州大学医学部の5年生および3年生の学生4人も、ボランティアとして同行していました。私は、4月に派遣された第1班にも参加しており、ちょうど二回り目のトップバッターとなりましたので、この4ヶ月間の変化について、感じたことをご報告したいと思います。

4月に第1班として、いわき市に入ったころは、ちょうど原発パニックが沈静化して、人々がいわき市に戻り始めた時期でした。混乱の中にも、これから復興に向けて動き出そうとするエネルギーを感じたものでした。4ヶ月ぶりのいわき市は、街の雰囲気もすっかり落ち着きを取り戻していました。いわき市を離れた子どもや親たちの話も聞きましたが、福島県の中では比較的空間線量が低い町であったことと、原発対策の基地としての役割を果たすようになったことなどより、成人を中心とした人口流入があり、市街地はかえって活況を呈していました。

被災者の置かれている状況も大きく変わっています。仮設住宅への入居が進んでおり、8月1日の時点で、避難所はわずかに5か所、50名程度にまで縮小されていました。仮設住宅では、避難所に比べるとプライバシーが確保されているものの、行政からの見通しは悪くなっており、医療のサポートが必要なケースを把握するのが難しくなってきている様子です。新潟地震の教訓から、被災前の地域コミュニティーをなるべく維持した形での仮設住宅への入居が好ましいと考えられていましたが、いろいろな制約のもと、結局はそうならなかった様子で、仮設住宅での新たな地域コミュニティー作りが課題となっていました。

現地の医療事情も大きく変わっていました。4月には、JMATや多くの医療支援チームが、避難所を中心として活動していましたが、今回は、他の医療支援チームと出会うことはありませんでした。地元の医療機関は、一部の病院の入院機能を除けば、ほぼ復旧しており、震災前の状況を取り戻しつつあるようです。一方、医療保健行政の仕事は山積みで、行政職員の方々は、医療支援が手薄になっていくことに不安を抱いていらっしゃるように感じられました。

実際の活動の中で、今回の支援で特に目立ったのは、小学校高学年から中学、高校生くらいまでの児童思春期のケースです。地震や津波で直接的に大きな被害を受けたり、悲惨な現場を目撃したわけではない子どもたちの多くが、震災から5カ月を経て、今なお、暗闇を怖がる、ひとりで外出できない、せまいところを怖がる、ひとりで眠れない、母親にべったりと甘える、学校にいけない、などの症状を持っていました。母親は、子どもへの対応として、受容としつけをどのように使い分けたらいいのかと悩んでいる様子でした。

全体を通して、街や人は復興に向けて動き出しています。人々の生活も落ち着きを見せつつあります。しかし、いわき市の人々が取り戻しつつある日常は、私から見るととても平穏と言えるものではありませんでした。みなさんが不安を抱えながら、それでも復興に向けて動き出しているのでしょう。具体的な方法は変わっていくかもしれませんが、息の長い支援が必要であることを改めて実感しました。

(三浦智史)


災害支援報告書

8月1日〜8月5日、三浦智史先生、川津拓也看護師、学生4名の計7 名で現地での活動をして参りました。私は大学院生ですので日本医師会の災害保険に入り、同門会の先生方からの寄付より宿泊や交通費を出して頂いております。この場を借りて御礼申し上げます。

今回はチームとしては我々の教室のみでしたので、医師と看護師で3組に分かれて行動しました。私が担当した事を報告いたします。

【活動内容】

いわき市保健所を拠点とし、毎日保健師さんと我々で朝・夕の申し送りを行いながら情報を共有しました。
1日目:保健所での個別面談2件、市内7カ所ある地区保健センターのうち小川地区保健センターからの要請で地区センターに赴き家庭訪問面談1件。
2日目:保健所管轄地域での家庭訪問面談2件、1歳半検診での相談1件。
3日目:仮設住宅の避難者の集いに参加・相談、保健所管轄の引きこもりの方の家庭訪問面談1件、保健所内で個別面談1件。
仮設住宅の集いは、各方面から避難してきた方が孤立することを防止するため、コミュニティーとしての繋がりを促すものでした。2ヶ月間で大人と口をきいたのはレジの人と宅配の人だけという若い母親のお話をきき、コミュニティーとしての重要性を考えさせられました。

【面談について】

私がお願いされた面談では乳幼児を持つ若い母親が多く、始めは子供の発達や情動に対する心配事を話されましたが、次第に、幼子を連れて親戚の家を転々と避難してきた経緯、時には野宿した事、育児や介護を手伝わない夫や舅姑などの家族背景、子供の放射線問題などと複雑に絡まった母親の心理状況を泣きながら話されるようになりました。震災ニュースなど見せない、放射線の影響を心配し屋外での行動を制限する、笑顔やスキンシップを絶やさないなど、子供にかかるストレスの影響を最小限にしようと努力する一方、元来かかえていた諸問題が浮き彫りになり、最低限の生活ができる居住空間が確保できた状況とは裏腹に、心理的に追い詰められていく様子が垣間見えました。それでも子供の心配を通してしか胸の内を話せない状況。また、土地柄なのか、たまたま面談した方々がそうだっただけなのか、閉鎖的な家庭環境に対しては他罰的ではなく、時に自責的になる姿も印象的でした。もちろん、抱え込んでしまうところが問題であるためにそういう方の面談が続いただけかもしれません。
ただ、強く感じたのは、四六時中幼い子供と過ごしているこの母親たちが声を出して泣ける状況があるのかということ。現在何とか保てている適応がいつ崩れてもおかしくはないという不安を持ちました。

【スタッフ】

避難所は回ることができなかったのですが、申し送りで避難所の状況を聞くとやはり被災者の行政に対する不満は大きかったようです。しかし今回改めて思ったのは、当然の事ながら保健所職員も被災者であるという事。明るく愚痴もこぼされずテキパキと働かれ、うっかりすると我々と同じ立場かのように錯覚してしまうのですが、当初は、日中通常業務、それが終わると24時間の避難所管理など行っていたとのこと、それでも仕事だとはいえ、避難所での苦情や攻撃をうける。この方々が笑顔で私たちに接してくださるのは頭が下がる思いがしました。

【余震】

我々が福島を発った後、活動していた場所である浜通りで震度4の地震がおきました。活動中も震度1の地震が起こっていたのですが全く気が付かず、保健師さんに、この揺れに気付かない人がいるのかと目を丸くして驚かれた事を思い出し、 ニュースをみて胸が詰まる思いがしました。

今回、被災の影響は受けていないと言われる方々の面談が多かったのですが、お話を聞くと震災がなければおそらく表面化しなかった問題をかかえている方々が多く、やはり震災の影響は計り知れないと感じ、長期的な支援の重要さを感じました。

まだ考えが整理できていませんが、貴重な体験をさせていただき感謝しております、ありがとうございました。

(大学院生 勝木聡美)

第六報

9月5日から9月9日まで福島県いわき市で、災害支援活動を行って参りましたので報告いたします。私は4月初旬の第一陣にも参加しており、今回が2度目でした。前回は震災後1ヶ月の時期であり、避難所巡回が主な活動で、市民の方々も放射線に備え、屋外ではマスクをしている人がほとんどでした。今回はマスクをしている市民はおらず、夕方のいわき駅前では高校生が集まって、楽しそうに談笑しており、一見すると普段の生活を取り戻しているように見えました。地元の医療機関も通常の診療が可能な状態となっており、避難所も2カ所のみで、数名の方が市の準備した住宅よりも避難所の方が生活に便利であるとの理由で残っているだけでした。私たちの活動内容も震災1ヶ月後とは様変わりし、高齢者や一時提供住宅入居者を対象とした集いでの心のケアについての講話、保健所での精神保健福祉相談、1歳半及び3歳児健診での希望者に対するメンタルヘルス個別相談、地域で心配される家族への家庭訪問などでした。

健診では、「放射性物質が含まれているかもしれない食材をどのように料理すれば安全か」との相談が栄養士に多く寄せられていました。給食に福島県産の食材を使うか使わないか、運動会を屋外でするかしないか、砂場遊びを許可するかしないか、などの対応が幼稚園ごとに異なっており、幼稚園の対応への不満も聞かれました。自費で子供の尿中セシウムを測定し、その結果をどのように解釈してよいのかわからず不安になり、健診で相談されている方もおられました。

家庭訪問では、高齢の母親、弟と3人で同居していた統合失調症の50代の姉が、震災後、元々不規則であった通院がさらに途絶えがちとなり、日常生活を送れているか心配なので、生活状況を見てきて欲しいと病院より依頼があり、訪問したケースがありました。そのケースでは、母親は震災後入院しており、姉と弟で全壊の認定を受けた自宅で生活していました。姉は内服が不規則で、震災後一度も入浴しておらず、夜間に近所を歩き回っている状態でした。

高齢者や一時提供住宅入居者対象の集いでは、「ストレスは大丈夫」「ここに来ることが気分転換でストレス発散になっている」などの声が聞かれ、この集いに参加している方々の健康度の高さが伺えました。講話後の座談会では、元々いわき市に住んでいた人たちよりも、新たにいわき市に避難してきた人たちの方が手厚い公的支援を受けていることに対して、「私たちは税金まで払っているのに・・・」と不平等感を訴える方もおられました。また、市民の間では市長が震災直後に逃げたとの噂が流れていました。実際はメディアへの露出がなかっただけで、対策本部に詰めて忙しく働いており、そのような話が出る度に保健師は噂を否定しているとのことでした。「十分な支援を受けていない」という大声で訴えることのできない思いが、市長への不満となって溜まり、噂となって流れているように、私には思えました。

私が関わった市民の方々は、それぞれ不安を感じながらも、災害を受け入れ、新たな生活に向けて、前向きに動き出そうとしていました。一方、行政機関では、放射線問題、生活基盤が弱く自ら支援を求めることができない人たちへの対応、公的支援のあり方など、まだ多くの課題が残されており、職員は今後に対する不安を強く感じているようでした。被災地の方々には末長い支援が必要です。今回の活動は保健所業務の支援が中心でしたが、震災後半年が経過し、今後どのような形で支援を行うべきか、私たちの医療支援はいつまで続け、どの時点で地元に引き継ぐことが望ましいか、などを検討する時期にきていると感じました。いつの日か、家族と一緒に、復興したいわき市を観光で訪問したいと思っています。

(實松寛晋)


この度9月5日から9日にかけ、災害医療支援第6陣として福島県いわき市に行って参りましたので、ここに報告させていただきます。なお、旅費の面では同門の先生方からの寄付よりご支援いただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
今回の当院からのメンバーは、實松寛晋助教、田村拓哉看護師、ボランティアの九大学生2名、私の計5名でした。

■日程

9月5日(月):福島空港からいわき市へ
9月6日(火):AM平地区家庭訪問1件
      PM来所相談2件
9月7日(水):AM家庭訪問1件
      PM三和地区家庭訪問3件
9月8日(木):AM保健センターにて、いわき内郷雇用促進住宅入居者を対象としたお茶飲み交流会
      PM来所相談1件、家庭訪問1件
9月9日(金):いわき市から福島空港へ。帰途

■家庭訪問

もともと漁師、津波で漁船と家族を失い今は一人で仮住宅に居住し、アルコール依存になっている方がおられました。震災の話題になると顔色が変わり、表情を強張らせ無言になられたため、それ以降は世間話しか出来ませんでした。漁を再開したいが船もないしそもそも福島の魚はもう売れない、とのやり場のない嘆きに、胸が詰まる思いでした。恐らく我々の過ごしたものとは全く密度も質も違う半年間を過ごしたはずで、遠く九州から期間限定でやって来た立場で一体何が言えるでしょう。どんな言葉も意味を成さないと感じました。
また、長年住み慣れた一軒家を津波で失い仮住宅に転居したものの、環境の変化に馴染まず不眠を訴える中年男性の方がおられました。仮住宅の薄い壁ゆえの近隣との摩擦、避難所から仮住宅へ転居し孤立した状態で、無理もない当然の反応でした。

彼等はほんの一部であり、保健所側がカバーしきれていない方々も他に大勢おられるはずです。大々的に報道こそされませんが、個々の抱える一見小さな問題は、復興を長期的に考えたとき非常に切実だと感じました。他、震災後通院が途絶え症状の悪化したSCの女性、過疎地区で通院困難なSCの男性、難治OCDで外出出来ない状態の男性の方などを訪問しました。皆さん共通して「遠いところからよく来てくれた、本当にありがとう」と心からの感謝を伝えてくださり、懇切丁寧なおもてなしを受けたお宅もあり、その慎ましさに本当に頭の下がる思いでした。

■来所相談

もともと強迫傾向のあった初老期女性で、放射性物質の影響が心配で新聞・テレビなどで情報を集めれば集めるほど不安でたまらないという方がおられました。真否の分からない情報が溢れ混乱した現状ならではの訴えでした。他、アルコール依存の父親についての相談、震災後服薬中断しているうつ病の方の相談がありました。

■地区の交流会

雇用促進住宅入居者を対象としたお茶飲み交流会で、ストレスについての講話を行いました。20名ほどの高齢者が参加されており、性別制限は特に無いはずですが全て女性で、和気あいあいとした雰囲気でした。ある80歳代の女性は「津波で一番辛かったのは二十歳の頃から書き溜めていた日記を流されたこと。だけど、それはまた書けばいいから」と明るく話されました。過程を経てやっと言語化出来るようになったのかもしれません、そのたくましさに光明をみる思いでした。

■街の雰囲気

我々が到着した日は丁度、高速道路の本格的な復旧工事が始まった日らしく、至るところで工事が行われていました。夜に街を歩く機会がありましたが何となく閑散とし、飲食店では、支援の方々でしょうか、地元以外の方言が飛び交っていました。いわき市の海岸では、瓦礫はほぼ撤去されていましたが、鉄骨だけになった家屋や海側のみ枝が全て折れた樹木など、未だ爪痕は大きく残っていました。

■保健師さん

センターでのミーティング中、震度3の余震があったのですが、動揺する我々を尻目に淡々とミーティングを続ける姿が印象的でした。また、訪問に向かう車中で、本音を聞ける機会がありました。震災直後から日付や曜日の感覚がしばらくおかしかったがやっと元に戻ったこと。ご自身の子どもへの放射性物質の影響を気にしつつ、しかし仕事や学校の都合があるため引越しなどの強行手段は現実的ではなく、気にしながらも日常生活をこなすしかないこと。自らも被災者であり大変な状況のはずですが、決してそれを表に出さず助け合って激務をこなされており、東北人の気質のようなものを感じました。

挫けても当然といえる状況で、被災地の方々は少しずつ復興に向けて歩き始めていることを肌で感じました。雇用や住宅の問題など現実的な問題が徐々に表面化していく中で、我々の出来ることは限られており、まさに今ここで求められることをしていくしかないと痛感しました。最も避けるべきなのは震災の記憶を風化させることで、被災地の方々が最も恐れることでもあると感じます。

貴重な機会を与えてくださったことに、心より感謝を申し上げ、私からの活動報告とさせて頂きます。

(岡田佳代)

第七報

10/3から10/7の日程で、いわき市の支援に行ってきました。私は4月以来2回目の訪問で、同行の本田医師、加峯看護師は今回が初めての訪問です。前回はまだ交通網が整っておらず東京で飛行機から新幹線に乗り継ぎましたが、今回は伊丹経由で福島空港に空路で到着し、レンタカーのプリウスで1時間余かけていわき市に入りました。市内は全体に平常を取り戻しつつある印象でしたが、湾曲した道路やヒビの入った建物など所々に地震の痕跡が残っていました。4月には津波で壊滅し全てが瓦礫で埋め尽くされていた豊間の海岸にも足を伸ばしましたが、瓦礫は取り除かれ更地になっていました。

業務は3名で分担して、来所者相談、幼児検診、一時提供住宅訪問などを行いました。

地元の医療ネットワークが復旧しつつあることもあってか相談案件自体は減りつつある印象でしたが、地域全体で見ると震災、原発の長期的な影響によってうつ病、PTSD、アルコール依存症といった精神疾患が増えつつあるとのことで、今後メンタルケアに対するニーズは高まることが考えられました。そのことと関連して私は市内の公的機関の窓口職員を対象として、精神疾患および自殺に関する講演も行いました。もともと福島県は自殺率が高い県であり、今回の大災害が被災者に与える心理的影響は長期的にもかなり深刻と考えられます。地元の診療体制が整っていくなかで今後どのような形で外部からの支援を行えばよいのか、考えながら帰路につきました。                             

(中尾智博)


福島県いわき市への医療支援として、先日いわき市に行って参りましたので御報告いたします。

10月3日は移動日で福岡空港より伊丹空港を経由して福島空港に向かいました。福島空港到着後はレンタカーを借り、いわき市へ移動しました。慣れない土地ということもあり若干迷いながらでしたが想像していたような地震の爪痕は見られず比較的スムーズにいわき市へ到着しました。多少道路がうねっている部分はありましたが、復旧作業もずいぶんと進んでいるんだろうなと感じました。その日はそのままホテルへチェックインとなりました。翌日よりの活動開始を控え自分に何ができるだろうかという不安を抱きつつ眠りにつきました。

翌日10月4日8時45分にいわき市にある総合保健福祉センターに集合し、活動は3手に分かれました。私は聖路加病院のボランティアチームで編成された「希望と絆」チームによる一時提供住宅訪問に同行しました。韓国俳優のペヨンジュンさんが寄贈したため「ペヨンジュン号」と名付けられたバンに乗り込み、聖路加病院の元看護師の岩田さんとともに午前午後ともに仮設住宅や国の借り上げ住宅、雇用促進住宅などの一時提供住宅の訪問を行い現在の状況の確認を行いました。以前は地震や津波の恐怖や不安を訴え、抑うつ症状を呈している方も多かったようです。そういった方々のフォローという形での訪問だったわけですが、現在は仕事に出かけていたり買い物に出かけたりと活動的に生活している方も多く、不在の方が半数でした。お話を聞いた方も当初の不安や抑うつ状態からずいぶんと改善を見せている方がほとんどのようでした。皆さん少しずつ災害を乗り越え前に進んでいるんだと感じました。

ただ依然として原発事故後の不安や恐怖感を訴える方が多く、特に子供の通学面での不安が大きいようでした。
「地震や津波だけならまだよかった。原発事故があったせいで元に戻れない」
「私たちは小さい頃からひたすら原発の安全性を教え込まれてきた。子供達にもそう教えてきて、それを信じてきた。事故が起きてこれだけの被害が起きて何を信じればいいか分らない」
「こんな危険性も知らずに原発を作る時には建設に関わった。恐ろしい事に関わってしまった」
「原発事故の時にはこの世の終わりかと思った」
と多くの住人が原発事故への恐怖感や絶望感、裏切られたという思い、自身への罪悪感など悲痛な思いを抱えている現実がありました。

2日目の10月5日はセンターが主催する精神科デイケアである「ほのぼの」グループの調理実習に参加させてもらいました。患者さんたちも地震や津波、原発事故という様々な災害を乗り越え、現在の環境に適応しようとしているんだなと感じることができました。午後は来所相談を行いました。地震後に不安を訴えている83歳の女性2名と男性1名の面接を行いました。3人共に同級生ということでお互いを心配し合って来所相談となった様です。大きな災害を共に乗り越えようとしている人の絆というものを感じました。一方で高齢化の進む町での周囲のサポート体制の必要性を強く感じました。

2日目の支援活動終了後には福島県内で津波の被害を受けた地域を車で走って見てきました。ところどころに無残に廃墟となった家屋が残っており津波の被害の大きさを目の当たりにしました。災害当日の事を考えると身の毛のよだつ程の恐怖感と苦痛を受けたのだろうと思いました。そして多くの命が失われたことを思い冥福を祈らずにはおれませんでした。

最終日の10月6日には午前中に再度「希望と絆」チームによる一時提供住宅訪問に同行しました。原発から2キロ圏内という近い場所で生活していたため避難生活を続けている66歳の女性を訪問しました。
「最近やせてきた」「髪が抜ける」などの訴えがあり「内部被爆では無いか」と高度な不安状態となっている女性でした。これまで真面目に夫を支えながら生きてきた彼女が大きな恐怖にさらされ毎日を不安に過ごしている事を考えると非常に切ない気分となりました。そんな彼女も面接をしていくうちに笑顔をみせ「少し安心しました。楽になりました」と話してくれました。ほんの少しでも彼女の力になれたと思うと私自身も安心しました。

午後は来所相談を行いました。もともと精神科通院をしていた方々が震災を契機に治療中断や症状悪化しているケースでした。いずれも治療再開出来ており少しずつではありますが改善の傾向を見せていました。今後の治療継続を促す程度で面接は終了しました。

大地震や大津波といった天災に加え原発事故という史上最悪の人災を受けた影響というのは計り知れないものがあります。きっとまだまだ復興には時間がかかると思います。しかし、これほどの大災害を乗り越え少しずつ元気を取り戻しつつある現状をみて「人の力」の強さを実感しました。そして「人の絆」がいかに大切か実感しました。途方もない大災害ではありますが、日本全国民が力を合わせればきっと乗り越えていけると思います。

今回の医療支援に参加させて頂き大変多くのことを学ぶ事ができました。私自身今後の人生においても貴重な経験を得ることができました。医局の皆様方、誠にありがとうございました。

(本田慎一)

第八報

4月下旬にはじめていわきを訪れて以来、半年ぶりにまた行って参りました。夏までに消滅した避難所にかわって、多数の「借り上げ」住宅が、帰宅できない被災者の方たちの住まいとなっていました。震災直後の、混乱と高揚とが奇妙に入り交じった急性反応の時期は過ぎ、市街地は一見平静を取り戻しているように見えました。ところが、保育園で相談を受けたケースで、こどもの奇妙なふるまいの陰に両親のPTSDが見つかったり、相談に来た市の臨時職員で、重いうつ病が見つかったりと、4月には会うことのなかったようなシビアなケースに、たびたび巡り会うこととなりました。過度に抑えられ、凍りついたような笑顔が一瞬にして崩れ、涙がとめどもなくあふれてきて、いまなお恐怖が反復されているさまが語られるのを聞いていると、多くの人では一過性に終わる急性期の反応が、一部の人では反復され増幅され、「反応」の域を越えた病となっていくことが実感されました。その場でできることと言えば、傾聴し、ご苦労をねぎらったうえで、医療機関受診につなげる程度でしたが、症状とは時間の外で繰り返され、治るとは時間の流れのなかに戻ることであったと、改めて思い起こされました。

                         (本村啓介)

第九報

東日本大震災-いわき市支援を終えて

2011年12月4日から8日まで、僕達は再びいわき市の医療支援に出かけました。今回は第9陣ということになり、個人的には、4月7日以来、約8ヶ月ぶりにいわき市に入ったことになります。

上野駅まわりでJRいわき駅に着いたのは、夜の8時過ぎでした。4月の頃は常磐線が不通でしたから、今回初めて駅に降り立ったのですが、駅舎を一歩外にでて驚いたことは、その街の明るさでした。駅前からまっすぐに伸びる中央通りの両側には街路灯が灯り、小料理屋が広がる辺りは特に明るく、質素でわびしいものでしたがクリスマス風のイルミネーションすら飾られていました。地方都市だけにこの時間になると人通りはめっきりと少なくなっていましたが、それでも制服姿の学生たちがたむろする、どこにでもあるような駅前の様相を呈していました。

昨年の4月に来たときには、この中心街ですら全体に薄暗く数件の店だけが外の明かりを消してひっそりと開業しているだけで、どこが駅かすら分からない有様でした。ひっそりと点滅を繰り返している交差点のランプが奇妙に浮き上がって見えるほど、いわき市は重苦しい暗闇に包まれていました。当時はやっとライフラインが回復したばかりで、開業していたホテルも一軒しかありませんでしたが、今回は、あちらこちらのホテルが開業しているようで、いわき市が日常生活を確実に取り戻しつつあることを実感できて嬉しく思いました。

先に到着していた小原知之先生と伊東看護師の出迎えを受けて、駅前のホテルまで歩いて向かいました。地震でできた道路の段差やひび割れ、建物の傷跡などには、表面的な修復が施されていましたが、うっかりすると段差でよろめくような状態で、完全な復旧にはまだほど遠いことがわかります。ホテルに到着すると、当時と全く同じように、原発の作業員なのか建築業者なのかは分かりませんが、作業服姿の泊まり客で混み合っていました。

体育館などを利用した避難所は完全に無くなっており、避難されている方々はみな、市の雇用促進住宅や仮設住宅に移っていました。ちなみに東北3県でも避難所は全部閉鎖され、皆さんが仮設などに移ったと聞きました。しかし、その数は33万人にも達しているそうです。いわき市には市外から避難してこられた方が2万人近く滞在しており、一方で8千人のいわき市民が市外へ出て行ったといいます。地方局のテレビ放送を見ると、時々刻々大気中の放射能の数値が表示されており、原発事故が今も市民を不安にさせていることがわかります。

僕達に今回要請された活動は、福祉センターでの来所相談と電話相談、個別訪問、市民公開講座での講演だけで、いわき市での心のケア活動は、表面上は、収束したかのように思われました。仮設などに移った方々で精神科医療が必要な方には地元の医療が提供できているようでしたし、こころのケアは、相互の見守り、相談受付などの方法で対応しているようでした。

地元の病院の精神科医、看護師と昼食を共にする機会がありました。精神科医療もほぼ震災以前の水準に戻っているそうです。しかし彼らからとても気になる話も聞きました。それは、震災直後に福島を離れて戻ってきた医療従事者と、残って医療を続けた人たちとの間に、埋めることの難しい溝ができている、ということでした。きっとこれは、医療者に限った話ではないでしょうから、余り表沙汰にはなっていませんが、福島に特有の深刻な問題なのだろうと思います。

保健センターの職員は、これからも予想できないことが起こるのではないか、その際に自分たちはどう動けばよいのか、との不安を抱えているようでした。現地の精神科医には保健センターの支援をするまでの余力が無いのでしょう。できれば関係を絶ちたくないといった様子でしたので、今後はSkypeを用いたテレビ会議で連絡を取り合うことを提案させていただき、現在その準備に入っています。

支援に行かせていただき、現地を見てまわり、現地の人々と接した者は、みな何か、他では得られない何かを体験をしてきたと思います。それは、医療者として働きながら、日常の忙しさの中で見失いがちなこと、すなわち「私たちは人の役にたてる」ということを改めて知ったということではないでしょうか。

(神庭重信)