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歴史的背景

研究倫理の歴史など知らなくても、倫理審査に携わることはできます。しかし、高度に発達した今日の研究倫理は、長い歴史の末に築かれてきました。これを知ることができれば、倫理審査への心構えは変化するに違いありません。

1. 戦争と医学 - 研究倫理の原点 -

医の倫理の起源というと、紀元前4世紀の「ヒポクラテスの誓い」がすぐ思い浮かびますが、これはあくまで医療者としての医師の倫理の起源であって、研究者としての医師の倫理が論じられるようになるのは、はるか後世、医学が科学の一つとして発展を始めた19世紀になってからです。

ジェンナーによる種痘の人体実験やパスツールによる狂犬病ワクチンの人体実験など、18世紀から19世紀にかけて、臨床医学研究に実験的方法が次第に用いられるようになりました。しかし、「ヒポクラテスの誓い」のような医療者の倫理規範だけでこれに対応することはできませんでした。研究は、必ずしも目の前の患者の健康を目的とするものではないからです。しかし、当時の研究では、家族や隣人など研究者の周囲にいる人々が被験者となることが多く、被験者になることの同意は自然な形で得られていたのだと思われます。

研究に言及した倫理規範のうち最も古いものとして、新しい治療の試みにおける同僚への相談の必要性を述べた英国の医師パーシバルの綱領(1803年)や、非治療的な研究における自発的同意の必要性を述べた米国の医師バーモントの綱領(1833年)などが知られています。これらをそれぞれ、倫理審査とインフォームド・コンセントの起源と見なせないこともありませんが、大きく普及はしませんでした。

フランスの著名な生理学者ベルナールは、1865年に著した『実験医学序説』に、「たとえその結果が科学にとってきわめて有益、すなわち人々の健康に役立つことであっても、被験者にとって害にしかならない実験は決して行ってはならない」と書いており、ヒポクラテスの「無加害の原則」が、研究者としての医師の倫理へと拡大したことを示しています。ただし、ベルナールは、「(死刑囚に対する実験は)何らの苦痛を与えず、何らの不都合をも引き起こさない限り、十分許されてよい」、「いかに動物にとって苦痛であり、また危険であろうと、人間にとって有益である限り、(動物実験は)あくまで道徳にかなっている」とも述べており、今日では認められない倫理観も持っていたようです。

そのような中、一国の倫理指針として作られたものに、1900年のプロシア帝国宗教・文部・医学省令「すべての大学病院、集合診療所、病院の施設長への指示」があります。これは、1892年のナイセル事件を契機に発令されました。この事件は、ブレスラウ大学教授ナイセルが梅毒ワクチンの研究で健康な子供や売春婦を梅毒に感染させたもので、その方法の是非をめぐって論争が起きていました。この政令では、同意を得ずに診療目的以外の医学的介入を行うことを禁じました。ドイツではその後、ワイマール共和制時代の1931年、やはり人体実験スキャンダルを機に、先進的な「人体実験に関する指針」が作られましたが、残念なことに、ナチズムの台頭により反故と化してしまいました。

20世紀に入ると臨床研究は急激に巨大化し、しばしば大量の被験者を要求するようになりました。そうなると、研究者と被験者の個人的なつながりは薄れ、多くの被験者は研究者にとって名も知らぬ患者となりました。また、何よりも大きな変化は、被験者個人の直接的な利益にならない研究が増加したことです。以前は人体実験といえども多くは治療的研究であり、実験の成功は被験者個人の幸福に直結していましたが、医学の発展に伴い「最大多数の最大幸福」が求められるようになると、目の前にいる患者の利益より、その背後に控える患者予備群の利益が優先され始めました。

こうして医学研究が大量の被験者を要求していたところへ、第二次世界大戦が勃発しました。戦争という極限状態では、人間の尊厳を守り抜くことは極めて難しく、人権は容易に蹂躙されます。また、軍事医学的な研究が、さらに多数の被験者を求めました。医学研究という側面から見ますと、第二次世界大戦は、大量かつ容易に被験者を供給する恰好のシステムとして稼働してしまったのです。

ナチス・ドイツでは、優生学や人種衛生学に基づく「劣等民族」排除政策を背景に、「いずれ始末される」人間として、強制収容所の囚人達が人道に反する人体実験の犠牲となりました。日本では抗日ゲリラやスパイなどとして捕らえられた人々、あるいは戦争捕虜が、生物兵器開発や戦陣医学研究などを目的とする生体実験の犠牲となりました。

一方、戦勝国であった米国でも、原爆開発計画(マンハッタン計画)に伴い、放射性物質の人体への影響を調べるため、プルトニウムを静脈注射したり、大量の放射線を人体に照射したりする実験を、一般市民や兵士などを被験者として行っていたことが、今では明らかになっています。広島・長崎への原爆投下を、広義の人体実験ととらえることもできるでしょう。

現代の戦争は、医学研究にも多大な影響を及ぼすのです。

2. 倫理規範の形成

ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク国際軍事裁判の中で、戦争裁判でありながら被告のほとんどが医師(被告23名中、20名が医師)という極めて特異な裁判が米国により開かれ、ナチスの医師らによる非人道的行為が裁かれました。検察団の訴追に対して弁護団は、「大きな善(多数の人々の救済)のためには、小さな悪(多少の人命の犠牲)は許される」として被告らを弁護しましたが、判決は、7名を絞首刑、5名を終身刑、4名を禁固刑に処しました。

この裁判の最も大きな歴史的意義は、人体実験に関する最初の国際的な倫理規範となったニュルンベルク綱領が、1947年の判決に伴って作られたことにあります。ナチスの残虐な人体実験を裁くに当たって、人体実験そのものを罪悪とすると、医学研究全体を否定することになってしまいます。なぜなら、人を対象とする研究は医学の進歩にとって必須だからです。米国の医学者アイビー(生理学・薬理学)とアレクサンダー(精神神経医学)の二人が起草したこの綱領は、医学研究における人体実験の必要性を認めつつ、「容認できる人体実験とは何か」を示した世界初の倫理規範です。

全10項目のうち、第1項「被験者の自発的な同意が絶対に必要不可欠である。(以下略)」と第9項「被験者には(中略)実験を中止する自由がなければならない」の二つは、今日でいうインフォームド・コンセントや自己決定権の概念を示しており、特に注目されます。

ニュルンベルク綱領は医学研究倫理の原型であり、後に作られた数多くの法令や指針に多大な影響を与えました。1964年、世界医師会が採択したヘルシンキ宣言は、人体実験を行うに当たって守るべき具体的な手続きを示したものですが、基本理念はニュルンベルク綱領を踏襲しています。ただ、ニュルンベルク綱領は、ナチスの医師たちが行ったような非治療的人体実験を対象としており、より頻繁に行われる治療的研究を想定していません。ヘルシンキ宣言は治療的研究をも対象に加え、さらに、同意の“絶対性”など、ニュルンベルク綱領の問題点を改訂して作られました。初版以来6回にわたる改訂を経て、35項目から成る最新版(2008年ソウル改訂版)となり、今日も、人を対象とする研究の世界的な基本原則となっています。さらに、国際医科学団体協議会(CIOMS)と世界保健機関(WHO)は、ニュルンベルク綱領とヘルシンキ宣言をもとに、特に途上国への適用に際して不足する部分を補い、詳細な指針「人を対象とする生物医学研究の国際倫理指針」を作成しています。

一方、時代は遡りますが、ニュルンベルクの医師裁判を行った米国自身は、ナチスの非人道的行為を自らの問題としては捉えていませんでした。

第二次大戦中、米国では医学も軍事研究の一環ととらえられ、兵器研究とともに国家プロジェクト的な色彩が濃くなっていましたが、戦後もその方向が継続されました。規制らしい規制もなく、一方、医学研究の国家予算はうなぎ登りに増加したため、臨床研究は精力的に推し進められ、研究者達は20年にわたる「黄金時代」を謳歌します。先に述べたように、マンハッタン計画の一環として放射性物質の人体への影響を調べるプロジェクトに、多数の米国民が巻き込まれていたことが、後年明らかにされましたが、当時は一般の人々は知るよしもありませんでした。

しかし、米国の研究者にとって「古き良き」時代は、ひとりの人物により終止符を打たれることになります。1966年、ハーバード大学医学部教授であったビーチャーは、『ニューイングランド医学雑誌』に「倫理と臨床研究」と題する論文を発表します。この論文でビーチャーは、1950〜60年代に米国内で行われた22の非人道的な人体実験を例示し、告発しました。この中には、某州立学校の知的障害児らを人為的に肝炎に罹患させて行った研究や、高齢の入院患者に無断で癌細胞を静脈注射した実験などが含まれます。

この告発に促されるように、国立衛生研究所(NIH)は1966年、公衆衛生局を通じ、連邦政府が出資した研究すべてを包括する倫理指針を発表しました。この指針で注目に値するのは、研究計画を審査する委員会(施設内審査委員会:IRB)の設置を、国の方針として初めて研究施設に求めたことです。NIHは研究のインフォームド・コンセントには限界があると考えていました。被験者にとって研究内容の完全な理解は実現不可能と見たのです。倫理審査委員会の設置は「ヘルシンキ宣言」にも当時は盛り込まれておらず、画期的な新手段の提案でした。

しかし、以後も「人体実験」スキャンダルが相次いで持ち上がります。ついに医学研究の倫理は連邦議会に持ち込まれ、激しい論争の末、1974年、医学研究全般にわたる規制を目指す初の法律となった国家研究法(National Research Act)が成立しました。

この法律の成立には、当時スキャンダルを巻き起こしたタスキギー梅毒研究が追い風となりました。これは、公衆衛生局がアラバマ州タスキギーで40年にわたって行ってきた研究で、梅毒に罹患した黒人住民を無治療の下に置き、梅毒の自然経過を観察するというものでした。被験者が徴兵されると梅毒が治療されてしまうため、徴兵されないように手配し、さらに、有効な治療薬ペニシリンが入手可能になっても与えませんでした。

国家研究法は、臨床研究を実施する機関にIRBの設置を義務づけるとともに、「生物医学・行動学研究における被験者保護のための国家委員会」を設置しました。この委員会により臨床研究の倫理基準が検討され、1979年、「被験者保護のための倫理原則およびガイドライン」、通称ベルモント・レポートが発表されます。

ベルモント・レポートは、研究に関する責任の所在を明らかにするため、研究と診療は明確に区別されるべきことをまず述べます。そして倫理規範は、わずか3つの原則、すなわち、「人格の尊重」「恩恵(善行と訳されることもある)」「正義」にまで凝縮され、これらはそれぞれ、「インフォームド・コンセントの確保」「危険性と利益の評価」「被験者の公正な選抜」として臨床研究に適用されました。ベルモント・レポートの原則主義は、多項目から構成されて煩雑だったそれまでの綱領の欠点を克服し、必要かつ十分な判断基準を提示するものとして、極めて高い評価を獲得しました。

連邦政府諸機関は、ベルモント・レポートを根本原則として、臨床研究の諸規則を作成しますが、機関毎に異なるルールを設けていては煩雑なため、基本的に全ての機関が、保健福祉省(DHHS)の連邦行政規則第45編第46部(45CFR46)の一部を、共通の規則(通称コモン・ルール)として採用するようになり、今日に至っています。

3. 日本への波及

今日、インフォームド・コンセントは生命倫理における最大のキーワードですが、その概念を初めて世界へと発信したのはニュルンベルク綱領でした。今日、生命倫理学は大変広範な対象を扱う学問に発展していますが、その起源は、戦争中の非人道的人体実験への反省から生まれた研究倫理だと考えることができます。戦後になされた反省の結果、1960〜70年代、欧米では臨床研究に対する法規制や倫理指針が次第に整備されたのです。

さらに、当時の「異議申し立て運動」の高まりの中で、「消費者としての患者」の権利も求められるようになり、これに応じて、医学研究のみならず一般の診療行為へと、生命倫理は適用範囲を拡大して行きました。1973年の米国病院協会「患者の権利章典」、1981年の世界医師会「患者の権利に関するリスボン宣言」はその現れです。

つまり、世界史的な文脈としては、生命倫理は人体実験の倫理(ニュルンベルク綱領)に始まり、次いで臨床研究の倫理へと進化し(ヘルシンキ宣言)、やがて診療一般の倫理へと拡大された、と見ることができます。日常診療よりも、危険度の高い医学研究の方が先に取り上げられたことは、当然の成り行きといえるでしょう。しかしながら、欧米でも、臨床研究の法規制が実現するまでの道程は、決して容易なものではありませんでした。米国の国家研究法は、医学界の猛烈な反発により、当初は挫折を余儀なくされましたが、長い闘いの末、やっと成立に漕ぎ着いたのです。

ところが、日本の生命倫理には、そのような歴史的文脈がありません。インフォームド・コンセントの概念は、1980年代半ば頃導入されましたが、人々が求めて勝ち取ったというわけではなく、欧米で用いられていた方法に倣っただけでした。しかも、導入されたのは、診療行為に関するインフォームド・コンセントに限られ、医学研究における被験者の自己決定権を意味するものではありませんでした。さらに、本来、臨床研究全体を対象とするべき倫理審査委員会は、日本では治験だけのルールとして、しかも、倫理的な理由というよりも、「治験の質を確保しないと医薬品開発の国際競争に取り残される」という市場経済的な理由により導入されました。

つまり、生命倫理は、日本へはその歴史の前半部分(研究倫理史)をスキップして、日常診療の倫理として海外から脈絡なく伝わり、より危険度が高い臨床研究を対象とする研究倫理は、それ以前に解決済みでなければならなかったにもかかわらず、後回しにされ、未だに取り残されたままなのです。このことは、本来ならば国民の手でしっかり決着をつけるべきであった戦時中の非人道的人体実験の責任がうやむやにされてしまい、ほとんど反省らしい反省がなされなかった日本の戦後史と無関係ではないと思われます。

歴史的文脈の欠如と一致して、日本の研究倫理は戦後40年以上にわたってほとんど放置され、その間、数多くの人々が臨床試験による健康被害に遭ってきたと考えられます。日本に倫理指針を作る動きがやっと始まったのは1980年代ですが、自発的に始めたと言うより、医薬品開発競争上の圧力や諸々の不祥事により、取り掛からざるを得なかった、と言うべきでしょう。

1989年に初めて作られた治験のルール「医薬品の臨床試験の実施に関する基準」(いわゆる旧GCP)は、法的拘束力がない上、内容にも不備が多かったため、1993年にはソリブジン薬害事件の発生を許してしまいます。1997年に治験だけはようやく法規制され、世界水準並みの「医薬品の臨床試験の実施の基準に関する省令」(GCP省令)が作られましたが、それ以外の研究領域は、現在も法の枠外に置かれたままです。

治験が法規制された後、2000年に無断遺伝子解析研究が社会問題化したことなどを契機として、臨床研究の倫理指針が次々に作られるようになります。2001年の文部科学省・厚生労働省・経済産業省の「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」、2002年の文部科学省・厚生労働省の「遺伝子治療臨床研究に関する指針」と「疫学研究に関する倫理指針」、そして2003年の厚生労働省の「臨床研究に関する倫理指針」と、続々と公表されました。

しかし、GCP省令も含めて、何か社会問題が起こる度に、関係各省が、その部分だけに継ぎを当てるような指針を作ったため、日本の研究倫理規制は、無計画で系統立っておらず、指針間に整合性がありません。今日、これが、倫理審査の現場で混乱を招く原因となっています。