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倫理原則と倫理指針

倫理審査には「羅針盤」が必要です。委員の「感性」も大切ですが、それだけに頼るのは危険です。羅針盤、すなわち倫理原則と倫理指針に基づいて、合理的な審査がなされるべきです。倫理原則とは、研究倫理の根幹をなす基本的概念を特定したもので、これにより合理的な思考の枠組みが提供されます。一方、倫理指針は、倫理原則に基づいて定められた規則集と言ってよいでしょう。日本では、倫理指針は数多く作られましたが、肝腎の倫理原則がないため、多くの問題が残されています。早急に、倫理原則の確立と、これに基づく倫理指針の整理が望まれます。

1. ベルモント・レポートと「原則主義」

1974年、米国では、臨床研究全般の規制を目指す法律として国家研究法が成立しました。ベルモント・レポートは、この法の下に設置された「生物医学および行動学研究の対象者保護のための国家委員会」が1979年4月18日に提出した報告書で、正式には「研究対象者保護のための倫理原則および指針」といいます。あくまで米国内の倫理綱領ですが、ベルモント・レポートが研究倫理の歴史に与えたインパクトの大きさは計り知れません。

なぜインパクトが大きかったのでしょうか。それは、倫理的考察の基本的枠組みを、簡潔かつ極めて的確に示したからです。それまでの綱領は、いわば「規則の寄せ集め」に過ぎませんでした。しかし、ベルモント・レポートは、いかなる倫理的問題も、普遍的な3原則、すなわち「人格の尊重」「恩恵(善行)」「正義」のいずれかに当てはめることができること、そうすることによって、臨床研究に関する問題ならどのようなものでも筋道を立てて合理的に考察できることを示したのです。

ベルモント・レポートの凄いところはこの「原則主義」だけではありません。第2章に示すように、研究という行為を明確に定義づけ、倫理審査の対象とすべき行為の範囲を明示した点にもその徹底ぶりが表れています。この、徹底した議論と考察の後に生まれた研究倫理のエッセンスは、CIOMSとWHOによる「人を対象とする生物医学研究の国際倫理指針」など、後に発表される国際綱領に多大な影響を与えました。

ベルモント・レポートの全文(日本語訳)を第10章に掲載していますので、ぜひ、味わいつつ読んでいただきたいと思います。

2. 日本にも倫理原則を

ベルモント・レポートの原則は、倫理的な問題を考える枠組みを提供します。ほとんどの倫理的問題が3原則のいずれかに当てはまるため、そこを考察の出発点とすればよいのです。

しかし、残念ながら、日本では、ベルモント・レポートのような研究倫理の原則が定められていません。日本は、倫理原則という研究倫理の「根幹」を築くことなく、何らかの現実的問題が起きる度に、倫理指針という「枝葉」を乱発してきました。その結果、いったい何に従えばいいのか、倫理審査の現場には混乱がもたらされています。日本では、倫理的問題にぶつかった時、乱雑に伸びた枝葉の中から、当てはまる一枝一葉を手探りで見つければなりません。それでも探し出せればいいのですが、複雑な現実的問題にぴったり当てはまる項目は見つからないことがしばしばあります。すなわち、倫理指針のみに依存する倫理審査は、応用が利かないのです。

本来ならば、欧米並みに、臨床研究全体を包括する法制度を設け、そのもとに日本の倫理原則を作るべきです。しかし、その時がいつ来るのか分かりません。ベルモント・レポートがあるからいいではないか、と言われるかも知れません。たしかに、ベルモント・レポートの3原則のコンセプトは、我々も支持します。しかし、日本の倫理原則を改めて作った方がいいと考える理由があります。第一には、ベルモント・レポートはあくまで米国の原則であり、日本で考えられたものではないこと、第二に、ベルモント・レポートは、若干古くなった部分があり、特に第三原則のコンセプトはもっと拡大した方がよいこと、第三に、「人格の尊重」「恩恵(善行)」「正義」という表現は、日本語として必ずしも根付きやすいと思えないからです。そこで、本書で、日本の倫理原則を提案することにしたいと思います。

本書が提案するのは、「尊厳性」「有益性」「公正性」の3原則です。これらは、それぞれ、ベルモント・レポートの「人格の尊重」「恩恵(善行)」「正義」に相当しますが、単に表現を変えただけではなく、それらが包含する内容を拡大し、今日の状況に適合させています。

第1原則 尊厳性

ベルモント・レポートにいう「人格の尊重」は、主として人間の自律性を扱っていますが、この「尊厳性」には、「命の尊厳と人の尊厳を守る」という思いが込められており、その対象は、生きた人間のみならず、遺体、人体由来の臓器・組織・細胞・蛋白質・DNA・その他の物質、遺伝情報、診療録情報など、個人を識別しうるあらゆる物および情報を包含します。

適用:インフォームド・コンセント

第2原則 有益性

ベルモント・レポートの第二原則(beneficience)は、ふつう「恩恵」や「善行」と訳されていますが、ここではもっとドライに「有益性」としました。なぜなら、利益とリスクは、本来できる限り定量化して評価すべきであるにもかかわらず、「恩恵」や「善行」という言葉からは、厳格な比較考量を連想しにくいからです。また、「恩恵」や「善行」という言葉からは、厳しく求められる義務ではなく、それを超えた「慈善行為」を連想しがちですが、ここで言おうとしているのは「必ず果たさなければならない義務」のことだからです。

なお、第2原則の扱う利益には、被験者への利益のみならず社会への利益も含まれ、研究の科学性・合理性に関する判断は、この第2原則に照らしてなされなければなりません。科学的でない研究は、利益とリスクの評価を行うまでもなく却下できますので、「適用」の筆頭に「科学性」を挙げました。

適用:科学性、利益とリスクの評価

第3原則 公正性

ベルモント・レポートにいう正義とは、概して「分配の正義」です。すなわち、被験者が公平に選ばれているか、リスクを背負う者と恩恵に浴する者が異なっていないかということで、これは、米国のマイノリティー差別を念頭に置いた概念です。国家研究法の成立に最も影響を与えたのは、黒人労働者を対象としたタスキギー梅毒研究だったのですから、無理もありません。

もちろん、日本にも差別は存在します。しかし今日、社会的に公正と見なされる研究とは、被験者選択が公平であるだけでは不十分です。たとえば、捏造・偽造・盗用などの不正行為はもちろん、研究結果の発表方法や、利益相反の扱いも、大きな倫理的課題です。この第3原則は、あらゆる観点から、研究を行う状況や諸条件が公正さを保つことを求めています。

適用:対象者の選択、責任ある遂行、結果の発表、利益相反

3. 法令・綱領・指針をどう適用するか

倫理審査に際して、いつでも参照できるように、臨床研究の倫理審査に必要な法令・倫理綱領・倫理指針等を、第10章にまとめて掲載します。この内、ニュルンベルク綱領は歴史的なものですが、他は現行の規則です。

ニュルンベルク綱領

第二次世界大戦前にも、見るべき綱領がいくつか発表されていますが、本格的に研究倫理が発展しはじめるのは、ナチスの人体実験への反省によって1947年に生まれたニュルンベルク綱領からです。今日から見ると非常にシンプルで、このままの形では使えない部分もありますが、研究倫理の原点とも言える倫理綱領なので、あえて掲載しました。

第1項で、インフォームド・コンセントの理念についてのほぼ完全な記述がなされ、「同意の取得」という生命倫理の基本的手続きが、ここで初めて世界的に発信されたのです。

国際人権規約

「国際人権規約」は、1948年の国連総会で採択された世界人権宣言を基礎として、これを条約化したもので、人権諸条約の中で最も基本的かつ包括的なものとされています。この中で、1958年の国連総会で採択され、日本も1979年に批准した「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(自由権規約または国際人権B規約ともいう)の第7条は、現在、日本で唯一、臨床試験全般を被験者の同意なしに行ってはならないとする法的拘束力のある規制と読み取れます。

ただし、この規約は医学研究に特化したものではなく、「医学的又は科学的実験」が何を意味するのか説明していないため、実効性を求めるには抽象的すぎます。

ヘルシンキ宣言

臨床研究の倫理審査に従事する前に必ず読んでほしいのは、言うまでもなくヘルシンキ宣言です。1964年以来6回にわたる改訂を経て、練りに練って作られた、もちろん現行の、「臨床研究の憲法」です。

名前だけなら誰でも知っていますが、中身を読んだことのある人は意外に少ないものです。しかし、倫理審査を行う人が「憲法」を知らずにすむわけはありません。それほど長くはないので、未読なら一度は必ず通読していただきたいと思います。

人を対象とする生物医学研究の国際倫理指針

ヘルシンキ宣言は「憲法」なので、あまり細かい記述はありません。しかも、ベルモント・レポートのような「原則主義」に基づいて書かれていないため、羅列とまではいいませんが、必ずしも系統立った構成になっていません。1982年以来、国際医科学団体協議会(CIOMS)が世界保健機関(WHO)と共同で作成してきた「人を対象とする生物医学研究の国際倫理指針」は、これらヘルシンキ宣言の不足を補うとともに、世界のあらゆる国々や地域で通用するよう、詳細に記述された指針です。これはかなりの長文で、一息に読むのは大変ですが、判断に悩んだ時の参照用として用いれば、問題解決の糸口が見つかるのではないかと思います。

この指針は全21項目で構成され、系統的に配置されています。第1項は全般的事項、第2項と第3項は倫理審査に関する項目、第4〜7項が「尊厳性」、第8〜11項が「有益性」、第12項以降が「公正性」の各原則にほぼ該当する項目です。いずれの項目にも充実した解説文が付けられており、指針を理解する上でたいへん役に立ちます。

日本の各種法令・指針

前章で申しあげたように、臨床研究は、研究方法論により系統的に分類されます。法令や指針などは、この分類に沿って作られるべきです。ところが日本ではそうではなく、研究方法論別カテゴリーに基づく規制と、研究分野別カテゴリーに基づく規制が混在しています。その結果、研究によっては、いくつもの指針にまたがってしまうことがあり、何に従えばいいのかわからない、という混乱を招いています。

合理的な規制がなされるように、法令や指針が整理されることを強く望みます。極めて特殊な研究を扱う「遺伝子治療臨床研究に関する指針」などは別としても、「疫学研究に関する倫理指針」と「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」は、「臨床研究に関する倫理指針」と統合されるべきです。

しかし、今のところは、下に示す数多くの法令・指針から、当該研究に当てはまるものを探し出すことから始める必要があります。本書には、参照する頻度の高いもののみ全文を第10章に掲載していますが、ページ数の都合で全ての法令・指針を掲載することはできませんでした。