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おわりに

特定領域研究「性分化機構の解明」を終了するにあたり
長濱 嘉孝(基礎生物学研究所 生殖生物学研究部門)

平成16年夏に発足した特定領域研究・諸橋班「性分化機構」がもう直ぐに終了する。実に、あっという間のことであり、まさに“Time flies”である。性分化現象に共通の問題意識を持ちながら、種々の動物を対象として、分子生物学的、発生生物学的、かつ内分泌学的研究手法を駆使することにより、性分化の普遍的分子メカニズムをより深く理解しようという本領域研究の当初の目的は十分に達成されたといえる。個別的になされていた日本における性分化研究を、特定領域研究班として緊密にグループ化することにより、世界をリードするまでに大きく発展させた成果は特筆に値する。いうまでもなく、この成功は諸橋領域代表の突出したリーダーシップ、そして精力的に研究を実行した各班員の努力の賜物である。

まず、欧米にも例を見ない日本独特の研究システムといわれる特定領域研究について触れることにする。そもそも特定領域研究(古くは、特定研究、重点領域研究などと呼ばれていた)は、我が国の学術研究の水準向上・強化につながる研究領域を特定して、一定期間、研究の進展等に応じて機動的に推進することにより当該研究領域の研究を格段に発展させることを目的として始まったものであり、このユニークな研究システムは日本における基礎科学の進展に大きく貢献してきたのである。生命科学分野ですぐに思いつく課題として、「細胞周期」、「転写制御」、「形態形成」などの重点領域研究があり、これらはいずれも当時の生命科学における先端的重要課題であり、それぞれの研究代表者が数年おきに交代することで、少なくても10数年はこれらのグループ研究は継続された。私自身も岡田節人先生、次いで江口吾朗先生が研究代表者を務められた「形態形成」や毛利秀雄先生が代表の「生殖系列」の班員として大変お世話になった。「形態形成」はその後も研究代表者が何人か交代してごく最近まで継続されたが、「生殖系列」(生殖系列の分子機構に関する基礎研究)は4年間だけで終了したのはとても残念なことであった。ただ、同じ略称名(生殖系列)の特定領域研究が、平成19年度から、佐々木裕幸教授(遺伝学研究所)を領域代表として新たにスタートした。平成7年からの4年間は、東京大学の山本正幸教授(当時は基礎生物学研究所の客員教授も兼任されていた)が研究代表として主宰された特定領域研究「生殖細胞の特質」が実行され、私も第一班「生殖細胞の成立の分子機構」の班長をつとめた。この研究班では、酵母と種々の動物を対象とする研究者が協力しあい、生殖細胞の特質と減数分裂の制御に関わる重要な分子をいくつも同定し、生殖細胞の挙動を分子メカニズムとして全面的に解明する上での大きな足掛かりを築くことができた。このように、日本独特の研究システムである特定領域研究はわが国における生命科学の研究発展に重要な研究基盤を提供してきたのであるが、残念ながら特定領域研究の新規課題の採択は一昨年で終了してしまった。研究者としての最初のステップを重点領域研究で育てられた我々の年代の多くの研究者のなかにはこのユニークな研究体制の復活を願っている人は少なくないのではないかと思う。

さて、本領域で取り上げた性分化機構の研究に関する最近30年の動向を振り返ってみよう。1980年代はヒトの性決定遺伝子の同定に関する研究が大きなトピックであり、激しい競争が長いこと続いた。結局は、1990年にイギリスの研究グループがヒトの性決定遺伝子SRYを発見したことで決着をみた。当然のことながらこの研究はその後の特にマウスを中心とした哺乳類の性決定/分化の研究に大きく貢献したばかりでなく、非哺乳類における研究も多いに刺激することとなり、世界の多くの研究室でそれぞれが対象とする脊椎動物種の性決定遺伝子を探索する生物学的研究が精力的になされた。しかし、その成果は期待したほどには芳しくなく、結果として哺乳類以外の脊椎動物にはSRYのホモログは見つからなかった。そのような状況下、脊椎動物の性決定/分化の国際的研究を大きく活性化したのはVal Lance教授(当時、San Diego Zoo)である。爬虫類の性決定/分化の研究者である彼は、1997年にハワイのワイキキビーチのリゾートホテルを会場としてThe Biology of Vertebrate Sex Determinationと題した国際シンポジウムを企画した。いろいろな脊椎動物を対象として性決定/分化機構を解析する研究者に呼びかけたところ、世界各国から100人余りの参加者が集まり、成功裏に終了したのである。開催地がハワイであったということもあり、このシンポジウムは大好評で、各国からの参加者の強い要望により、それ以後、ほぼ3年毎に開催されることが決まった。第1回以来、このシンポジウムの象徴として、インドのシヴァ神Ardhanarishvara(身体の左半分は女性、右半分は男性という両性像)の写真が抄録集の表紙に使用されている。一昨年私も、思いがけなくこのシヴァ神像を手に入れることができた(写真)。今振り返ると、脊椎動物の多様な性決定/分化の仕組みについての本格的研究は、この国際シンポジウムの開始とともに始まったといっても過言ではないと思う。私もこのハワイ・シンポジウムにはすべて参加してきたが、毎回多くの研究仲間達と充実した、楽しい数日間を過ごすことができた。今Val Lance教授のこの志は、少しずつアメリカのBlanche Capel教授やRichard Behringer教授 に引き継がれようとしている。

少し遅れて日本でも、平成14年10月に脊椎動物の性決定/分化に関する重要な国際シンポジウムが開催された。諸橋教授が文科省の援助を受けて基礎生物学研究所(基生研)で開催した「Molecular Mechanisms of Sex Differentiation」と題する研究集会である。このシンポジウムでは国外から20名、国内から7名の第一線の研究者が招待され、3日間にわたって200名を超える参加者が先進的な発表と活発な討論を行った。またこの期間中、世界の性決定/分化研究をリードするAnn McLaren教授、Robin Lovell-Badge教授、Peter Koopman教授などが日本人若手研究者との交流を積極的に行ってくれたことは有難いことであった。当時、日本での性分化研究はいくつかの研究室で個別になされてはいたが、お互いの交流はほとんどなかったので、上記のような機会は日本人研究者を大いに刺激したものと考えられる。その後、基生研で開催されたこのシンポジウムが契機となり、性分化機構に関する特定領域研究の申請への気運がいっきに高まり、諸橋教授を中心として実現に向けての準備が進められたのである。幸いなことに、この申請は採択され諸橋教授を領域代表として性分化機構の特定領域研究が発足することになった。従って、特定領域研究・諸橋班のまず目指したことは、国内における性分化研究者の緊密なネットワークを構築して、その研究基盤を堅固なものにしようということであった。

そしてこの5年間、諸橋領域代表の強力なリーダーシップのもとに、1)性分化の分子基盤の解析、2)脳の性分化と行動の解析、3)性分化異常症の解析、という相互に密接に関連する3課題に焦点を絞り、班員間の緊密な協力のもと、日本国内における性分化研究が強力に促進され、大きく進展したのである。これまでにも多くの重点・特定領域研究が実施されるのを見てきたが、本研究班のように研究課題がシャープに絞られたプロジェクトは他に例を知らない。この班会議では常に数十名の性決定/分化に興味をもつ多様な研究者が集り、活発な討論がなされた。性決定/分化に関して、このような大きさの研究グループは国外には皆無である。また、この研究班からは多くの若い研究者が育ち、そのうちの何人かは独立して自身の研究室を持つに至ったことも特筆されることである。次の世代を背負う若手研究者を育成するということは、諸橋領域代表が常に気にかけてこられたことである。

こうして概観すると、国内外における性の生物学、特に性分化研究の最近の進展は、国際的にはVal Lance教授が1997年に始めた脊椎動物の性決定の生物学に関するシンポジウム、日本国内では諸橋教授が主宰した特定領域研究「性分化機構」が多大な影響を及ぼしたといえる。特筆されることは、世界の性決定/分化の研究者の多くが、この2つの国際ネットワークの中で共に緊密に連携されていることである。昨年9月に福岡で開催された本特定領域・国際シンポジウム「International Symposium for Sex Differentiation」でもこのことははっきりとみてとれた。この4月にはまた、第5回のThe Biology of Vertebrate Sex Determinationの国際シンポジウムが3教授(Lance、Capel、 Behringer)の協力のもとにハワイ島のコナで開催される。日本からも諸橋教授をはじめ数人がスピーカーとして招かれている。また、本特定領域研究からも多くの班員が参加すると聞く。ハワイの美しい自然の中で、この5年間の本特定領域研究の成果を世界各国からの性分化研究者に紹介する絶好のチャンスである。以前にも書いたが、私自身、性の研究を本格的に始めようと決めたのはハワイの小さなサンゴ礁の島、ココナッツアイランドでハワイ産ベラの不思議な性転換現象に出合ったことがきっかけである。私自身も、このシンポジウムではこれまでの魚類の性分化研究について総括し、次の展望をじっくりと考える機会としたいと思っている。

本特定領域研究を終了するにあたり、研究を実行した各班員の努力と総括班の先生方の適切なご指導に心より感謝申し上げたい。


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