生物は外界の酸素濃度を認識する巧みな仕組みを保持しています。酸素濃度が低下すると、生物は低酸素シグナルを活性化し低酸素状態に適応します。低酸素シグナルの中心的分子がHypoxia inducible factor (HIF) およびprolyl hydroxylase (PHD)と呼ばれる分子です。HIFは低酸素誘導性の転写因子で、酸素濃度が低下するにつれて漸増し、vascular endothelial growth factor (VEGF) やエリスロポエチン (EPO) などの遺伝子発現を誘導し血管新生や造血などを刺激します。HIFレベルは酸素濃度感受性タンパクPHDにより酸素濃度依存性に調節されています(図1)。酸素が十分にある場合、HIFはPHDにより特定のプロリン残基の水酸化を受けて分解され、一方酸素濃度が低下すると、PHDの酵素活性が著しく低下するためHIFは分解されず、HIFは核内に移行し、低酸素応答配列(HRE)依存性に遺伝子発現を活性化します。
低酸素シグナル経路は種々の病的な状態で活性化されていることが知られています。例えば、動脈硬化病変の粥腫中心部や肥満状態の脂肪組織はpO2 10mmHg程度の強い低酸素状態にあり、低酸素シグナルが亢進していることが報告されています。低酸素シグナルの活性化は低酸素状態を改善するために作用するものですが、一方、病変部では炎症やアポトーシスを促進したり、誘導された血管新生自体が炎症細胞の供給などを介して炎症を増悪する方向に作用している可能性があります。すなわち、動脈硬化病変や脂肪組織における低酸素状態と低酸素シグナルの活性化が悪循環を形成し病変の進行を促進している可能性があります。逆に、心筋梗塞や脳梗塞など虚血性疾患の治療には、血管新生をより効果的に誘導することが必要であり、この場合は低酸素シグナルのより強い活性化が必要となります。このように、低酸素シグナル活性を正に負に調節することが、幅広い疾患の治療となりうる可能性があります。
私たちは遺伝子組み換えマウスを用いて、細胞特異的に低酸素シグナル活性を調節する方法としてCre-loxPシステムを用いています(図2)。2つのloxPと呼ばれる配列に挿まれたエクソン配列は、Cre recombinaseの作用により切り出され、その遺伝子は失活します。Creの発現をある特定の細胞特異的プロモーターで調節することにより、その細胞だけで遺伝子を欠失させることができます。現在、この手法を用いて、心筋細胞や脂肪細胞特異的なPHD欠損マウスやHIF欠損マウスの作成を試みているところです。近年、PHD阻害薬の開発が貧血や虚血性心疾患の新しい治療薬として盛んに試みられています。私たちのマウスにより得られた情報が、心筋梗塞や肥満など近年増加傾向にある疾患の治療の一助になれば幸いと考えています。
図1 酸素濃度が漸減するに従ってPHD活性も徐々に低下します。図左にあるHIF-aの水酸化を介した分解系は抑制され、代わって図右の反応系にシフトします。分解を免れたHIF-aはHIF-bとダイマーを形成し低酸素応答配列と結合し、VEGFやEPOなどの遺伝子発現を促進します。
図2 PHDやHIFなどの遺伝子上の特定のExonがloxPと呼ばれる配列に挿まれたマウス(左)を、細胞特異的に、例えば心筋細胞のみCre recombinaseを発現するマウス(右)と交配することで、心筋細胞のみPHDやHIFが欠損するマウスを作成することができます。心筋細胞でのPHDやHIFの役割を生体レベルで解析することが可能になります。