九州大学病院検査部  2008年1月11日
検 査 だ よ り
第34号
検査部創設50周年を迎えて、そして次の50年へ       検査部長 康 東天
  昨年2007年は九大病院検査部創設50周年の節目の年でした。10月には、医学部100周年記念講堂にて検査部創設50周年記念行事が開催されました。現役検査部職員のみならず多くの来賓、検査部OBの方々にも来て頂き、約300人もの参加者で50周年を祝うことができました。検査部一同心より感謝申し上げます。同記念行事のセミナーではOBの方からは検査部創立以来の歴史を振り返ってもらうことができ、現検査部の一員として思い出深くもあり、感慨深くもありました。懇親会では、検査部創設時の技師のメンバーともお話ができ、現在でもボランティアで地域医療に関わって活躍している話を聞いて現役は一層がんばらねばとの思いを強くさせられました。

  検査部の歴史を紐解いて見ますと、1956年の中央検査部準備室を経て1957年に旧歯学部地下で、中央検査部生化学検査室が産声を上げています。翌1958年には細菌検査、生理検査が開始されており、すでに現在の検査部の原型が形成されています。その後の歩みを年表で見ていると、九大病院の検査部がいつもその時代の検査の先端にいたことがわかり、このように九大病院検査部が日本の検査医学の発展の先頭に立ち続けてきたことは、我々の誇りでもあり励みでもあります。しかしこのことは、実は九大病院の各診療科が最先端の医療を続けて来ていたことの賜物であり、各診療科には心から敬意と感謝を表するところです。今後も、各診療科と連携しながら九大病院全体の検査のニーズに応えられるよう頑張って行きたいと考えています。
 
  さらにこれからの50年へ向けた課題として、九大病院検査部は臨床検査の先端に位置するだけでなく、日本と世界の臨床検査医学という領域で指導的立場に立って行きたいと願っています。そのためには、検査部のメンバーは検査技師、医師を問わず、新しい検査の開発、さらには真に新しい検査の開発に求められる新しい生命現象の追求にも取り組む必要があります。そのことを通じて臨床検査医学という領域だけでなく医学全般さらには生命科学そのものへ貢献できる検査部へと発展したいと考えていますので、今後ともご指導ご協力をよろしくお願い申し上げます。

 
検査の充実を目指して その10■     検査部技師長 栢森 裕三

 
 
検査部創設50周年の御礼
   

  検査部が発足して昨年50周年を迎えました。

昭和32年に、それまで各診療科が行っていた検査を一元的に中央化する形で発足しました。その記念の式典を10月7日に百年講堂において開催させて頂きました。ご来賓の水田病院長、髙栁医学研究院長をはじめ、ご参列頂きました皆様方に改めてこの紙面を借りて御礼を申し上げます。ひと口に50年と申しますが、この間の検査技術の進歩は目覚しいものがあります。「検査部創設50周年記念誌 未来へ」にも書かせて頂きましたが、我々検査部ではその時代時代の最先端の検査技術を進取の精神で導入し、九州大学病院における診療に役立つ検査の専門家として、さらに、日本の臨床検査のリーダーとなるべく努力をして参りました。これもひとえにこれまでご支援頂いた各診療科の方々の賜物であり、さらに検査部歴代OB、OGの皆さんのお陰と感謝しております。

臨床検査の歴史は、診療という観点から見れば医学や薬学と同じくらいの歴史をもちますが、ただ「検査技師」という制度的に認められたことをその原点としますと、衛生検査技師法が成立した昭和33年であり、約49年のまだまだ学問的な歴史からすると若い分野ということになります。その前年に検査部が創設されたことは、将にわが国の臨床検査の歴史と機を一にしていることは誠に感慨深いものがあります。

検査の充実を目指す検査部内外の諸先輩方の未来志向の考えは、検査技術に対する大いなる情熱、技師法制度の設立以来現在に至るまで普遍的な検査データを生み出す努力を継続して来たこと、さらに将来の検査技術の向上と引いては医療、医学の発展を見越したいろいろな工夫を行ってこられたこと、数えれば切りがありません。その結果の一つとして、例えば臨床化学検査を引き合いに出してみますと、その工夫の一つが昭和30年代半ばから始まった自動化技術の発達であろうと思います。緩和な条件下、微量な試料で、短時間に大量処理できる装置が開発され、その後のコンピュータ技術の発達を追い風に、病院全体の診療システムと直結した、現在の臨床検査では当たり前の状況が生み出されてきました。この結果、用手法の時代とは比較にならないくらい精度の良い検査データが診察前に得られることになり、医療へ大変大きな貢献をするに至っています。

今後も先人達が行ってきたこれまでの真摯な取り組みを継続して実行していくことが臨床検査<学>の発展と、同時に医学の進歩に寄与する道と考えます。
 

正しい検体の採取から検査部まで ‐その24 ■  濱崎直孝(現:長崎国際大学薬学部)

臨床検査の問題点(2)

 免疫化学検査での注意点

感度がよい免疫反応を利用すると血中の微量なホルモン、蛋白質などが測定できる。現在は非常に多くの種類の検査項目について、免疫反応を利用して出来るようになった。今回はその中で幾つかの免疫項目の例について注意点を述べる。

 免疫・血清検体の採血、保存、運搬

 採血の体位とタイミング

採血の体位や日内周期変動などに配慮して採血をしなければならない。このような配慮は免疫反応を利用する測定法に限ったことではないが(検査だより第15号(2001年5月1日発行)参照)、変動を受けやすいホルモンなどの測定に免疫反応が良く利用されるので、改めてここで記す。

レニンの測定は採血体位の影響を受けやすい。横臥位から立位に変わるとレニン活性は上昇する。コルチゾールは午前4時から午前6時の間が高い。成長ホルモン、黄体形成ホルモン(ルトロピン:LH)や卵胞刺激ホルモン(FSH)などのホルモンは必要時に一過性に分泌されるので中央値(median value)を決定するときなど採血のタイミングに注意する。

 冷蔵か冷凍か?

インスリン、プロインスリン、C-ペプチドは単に氷中で保存するだけで安定である。このようなホルモン測定用検体は採血後できるだけ素早く冷却遠心(4℃)して血清分離し、測定までは凍結させて保存する。凍結検体は完全に解凍して測定に用いる。溶血が起こるとインスリン、プロインスリンともに低下するので、溶血をできるだけ避ける。素早く血清分離し、血清を-70℃で保存するとガストリン、ペプシノーゲン-1、インスリンなどは長期間安定である。

 抗凝固剤

免疫化学検査は血清でもヘパリン採血血漿でも測定可能である。エンドルフィン、バソアクティブインテスティナルペプチド(VIP)、サブスタンスP、膵ポリペプチドなど不安定なペプチドホルモンの測定用検体はEDTA 採血をし、素早く血漿を分離して凍結保存をする。

 蛋白質分解酵素阻害剤

不安定なペプチドホルモンや酵素の測定には、蛋白質分解酵素阻害剤、アプロチニン(商品名:トラジロール)、を含む抗凝固剤(EDTA、ヘパリン)にて採血する。アプロチニン活性はカリクレインの阻害活性(kallikrein inhibitory units: KIU)で表現するが、ペプチドホルモンや酵素測定用検体には500 から2,000 KIU/mL 添加すればよい。EDTA-アプロチニン混合溶液はグルカゴン、ACTH、レニン、消化管ホルモン(β-エンドルフィン、セクレチン、ニューロテンシン、グルカゴン、ソマトスタチン、VIP)などの測定用に使用される。

グルカゴン定量の例で説明する。1mL 血液当たり 1.5 mg EDTA と2,000 KIU アプロチニンを含む溶液に採血した場合と、アプロチニンを含まないEDTA 採血の場合を比較すると、グルカゴンはEDTA 採血の方が約26%高値になる。これは採血から測定までの間にグルカゴンが分解して、その分解産物にもグルカゴンの抗体が反応するためである。蛋白質分解酵素阻害剤(アプロチニン)がグルカゴンの分解を阻止し、グルカゴンを安定化させていることになる。ヘパリンとアプロチニンの混合液はソマトスタチン、セレクチン、グルカゴン、C-ペプチド、やコレシストキニン(=パンクレオザイミン)を安定化する。

補体活性、副甲状腺ホルモン関連ペプチド(PTH-RP)、カテコールアミンの例

EDTA 採血し注意深く素早く分離しても補体は活性される。蛋白質分解酵素阻害剤、ナファモスタット(フサン)をEDTA 溶液に添加することで、補体の活性化(C3a, C4a, C5a)は抑制される。EDTA 採血検体の凍結・融解を繰り返すと補体活性はその度に活性が約2倍に活性化されるが、ナファモスタット(フサン) 中に採血した検体では凍結・融解による活性化は抑制される。

腫瘍マーカーである副甲状腺ホルモン関連ペプチド(PTH-RP)はEDTA やヘパリン中で不安定で、16時間、室温保存で10%以下になってしまう。EDTA・アプロチニン・ロイペプチン・ペプスタチン混合液中(1.5 mg EDTA, 500 KIU アプロチニン, 2.5 mg ロイペプチン・2.5 mg ペプスタチン/1mL 血液)では室温で1時間、又は、4℃で24時間は安定になる。しかしながら、この溶液中で保存しても室温で24時間放置すると約60%が失活する。EDTA 溶液のみだと室温、1時間で70%が失活する。

カテコールアミン測定用には60 mg/mLのメタ重亜硫酸ナトリウム(Na2S2O5)又は、還元型グルタチオンと90mg/mL のEGTA 溶液中に採血する。この溶液中に採血しても検体は氷中に保存し冷却にて遠心分離する。血漿分離後直ちにプラスチック容器に移し、しっかりと閉栓し測定直前まで-20℃以下で凍結させておく。この状態で保存すると少なくとも3カ月は安定である。
 

感染制御のために(12) ■     検査部助手  内田勇二郎

ESBL警戒警報      
 感染症治療において薬剤耐性菌の存在は常に頭を悩ませる問題である。その薬剤耐性機構にはいろいろなものがあるが、その中でも当院で増えつつあるESBL産生菌について述2べることにする。ESBLとは、基質特異性拡張型β-ラクタマーゼ(extended spectrum β-lactamase)のことで、遺伝子はプラスミド上に存在し、一般的にペニシリン系、第一世代・第二世代・第三世代・第四世代セフェムおよびモノバクタム系薬の耐性に関与する。そのため、細菌検査室で行っているスクリーニング検査において、この酵素産生が示唆された菌の感受性検査結果は、MIC値が低くても、ペニシリン系、第一世代・第二世代・第三世代・第四世代セフェムおよびモノバクタム系薬は耐性として結果を返すことになっている。そのESBL産生菌が当院で急速に増加傾向にある。E. coli におけるESBL率は、2004年は4.7%であったが、2007年の1月~10月まででは9.6%と約1割近くまで増加していた(図1)。K. pneumoniae においては、2004年は1.1%であったが、2006年には8.4%まで上昇し、今年は6.1%と前年よりは下がっているが高い割合を保っていた(図1)。

ESBL産生菌の治療薬としては、一般的にイミペネム(IPM)などのカルバペネム系薬やシプロフロキサシン(CPFX)などのフルオロキノロン系抗菌薬が使用される。ESBL産生菌において、当院ではカルバペネム耐性のE. coli やK. pneumoniae は認められなかったが、CPFX耐性菌は全体の割合と比較し非常に高く、それぞれ63%、70%であった(表1)。したがって、ESBL産生菌の治療薬は非常に限られたものとなってきており、少なくとも外来治療が困難になってきていることが推測される。

分離部位としては、K. pneumoniaeはESBL産生の有無に関わらず呼吸器系と尿路系に多かったが、E. coli において、ESBL産生株は血液検体にも多く分離されることがわかった(全体4.5%、ESBL 19.2%)(図2)。

検査上の問題として、便検体からのESBL産生菌の検出が困難である点がある。便検体から分離された菌の感受性検査は、サルモネラ菌やカンピロバクターなどの明らかに病原菌として考えられるものもしくは、単一菌で占められ臨床上問題がありそうな状態になっているものに限って通常施行される。E. coli やK. pneumoniae などの腸内細菌は便検体中にあっても常在菌として処理され、感受性検査を行っていない。裏を返せば、ESBL産生の腸内細菌が腸管内でリザーバーとなっており、しかも呼吸器や尿路系などの感染症を治療しても腸管内に住み続ける可能性があるということである。更に、ESBLの遺伝子はプラスミド上にあるため、他の菌種に伝達する可能性もある。したがって、ESBL産生菌が認められた場合には、原則個室管理し、接触感染対策を行う必要があるが、感染治療が終了しても保菌しているものとして管理する必要がある可能性がある。

ESBL産生菌の急速な増加と薬剤耐性化の原因は、明らかではないが、抗菌薬の適切な使用以上に院内感染対策が必要となってきているようである。日本ではMRSAがコントロールできなかったことから、ESBL産生菌をこれ以上増やさないためには、全患者に対し接触感染対策を行う必要があるという意見もある。根本的に入院管理体制を変えなければいけない時代になってきているようである。
 

ちょっと一息♪                      ペンネーム:白いかもめ
 検査部鉄分検査室より⑲

昭和三十年代

 昨年11月山崎貴監督<ALWAYS 続・三丁目の夕日>が封切られた。

 この映画は、平成17年(2005)公開の大ヒットした<ALWAYS 三丁目の夕日>の続編である。この前作は、東京タワーが建設される時期の昭和33年(1958)の東京の下町が舞台の作品で、日本アカデミー賞などを受賞した。この映画公開前から進行していた昭和ブームに火をつける役割を演じた。

 前作、続編の今回作とも「鉄分」の高い映画でもある。今風な言い回しなら「鉄萌え」な映画である。

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前作の<ALWAYS 三丁目の夕日>では、青森から集団就職列車で「ろくちゃん」こと星野六子(堀北真希)が到着するのを自動車修理工場の「鈴木オート」の鈴木則文(堤 真一)が上野駅に3輪自動車ミゼットで出迎える。

初の集団就職列車は、昭和29年(1954)4月5日8両編成の青森発上野行き列車で、中学卒業したての622人が乗りこんでいた。昭和50年(1975)までこうした集団就職列車が運行されていた。上野駅は、北から首都圏への出入り口として賑わいをみせていた。

尚、集団就職は、東北の印象が強いが、九州からもあった。九州からは、関西、中京圏へが多かった。

さて、平成3年(1991)6月20日の東北・上越新幹線東京乗り入れで、上野駅のターミナルの地位が低下したが、以前は在来線優等列車が次々と発着する終着駅の風情を漂わせていた。最盛期は新幹線登場直前で、上野・仙台間の<ひばり>、上野・盛岡間の<やまびこ>、上野・青森間の<はつかり>、上野・山形間の<やまばと>、上野・会津若松間の<あいづ>、上野・新潟間の<とき>、上野・長野間の<あさま>、上野・金沢間の<はくたか>といった在来線特急が頻繁に発着していた。こうした往年の活気を前作は、映像化している。

上野の地名は、伊賀上野の大名・藤堂高虎の屋敷があったことに由来し、上野駅は日本鉄道上野・熊谷間開通に伴い明治16年(1883)7月28日に仮駅舎で開業した。2年後に煉瓦造りの駅舎が完成したが、大正12年(1923)の関東大震災で全焼した。木造仮駅舎で営業を続け、昭和7年(1934)4月5日より現駅舎での業務が始まった。

この上野駅駅舎は、昭和初期を代表するモダンな建築であり、そのDNAは、函館本線小樽駅駅舎、南満州鉄道の大連駅駅舎、樺太西線の真岡駅駅舎に引き継がれている。

北の玄関である上野駅にはそれを象徴するものが構内にある。

ふるさとの 訛なつかし 

停車場の 人ごみの中に

そを 聞きにゆく

 石川啄木は、明治35年(1902)11月1日に盛岡から上野駅に到着した。啄木が見た上野駅は、先代の煉瓦造りの駅舎であった。上野駅15番のりば端に、この歌碑がある。盛岡まで鉄道が延びたのは、明治23年(1890)のことで、翌明治24年(1891)には青森まで延伸し、東北本線は全通した。全通時の上野・青森間の所要時間は、約26時間半であった。

  この歌碑のほかにもう一つ象徴するものが、広小路口にある。

     ♪ 1) どこかに故郷の香りをのせて 入る列車のなつかしさ    

             上野は俺らの心の駅だ くじけちゃならない人生が

                あの日ここから始まった

2) 就職列車にゆられて着いた 遠いあの夜を思い出す    

               上野は俺らの心の駅だ 配達帰りの自転車を

                  とめて聞いてる国なまり

弘前出身の井沢八郎が歌った<ああ上野駅>の歌碑である。現在八戸・新青森間の東北新幹線工事が佳境を迎えている。数年後には、新青森からの新幹線列車が東京駅へ滑り込むようになり、上野駅の鉄道における地位は、決定的に変化してしまうことであろう。昭和33年(1958)10月に国鉄線東京以北初の特急列車として常磐線経由の上野・青森間のディーゼル特急<はつかり>が、約12時間で走り始めた。東北本線全線電化は、昭和43年(1968)のことで、ろくちゃんを乗せた集団就職列車は蒸気機関車が牽引していた。現在東京・青森間は最短3時間59分であるが、平成22年(2010)の東北新幹線全線開業時には東京・新青森間は、約3時間10分で結ばれる予定である。<ALWAYS 三丁目の夕日>のろくちゃんの上野駅は遠い記憶になろうとしている。

 
 尚、上野発着の夜行列車は健在で、上野・札幌間の<北斗星>、<カシオペア>、秋田経由の上野・青森間の<あけぼの>、上野・金沢間の<北陸>、<能登>が走っている。夜行列車の存在で上野の威厳を保っている。石川さゆりの熱唱が、聞こえてくるようだ。

       ♪ 上野発の夜行列車 おりた時から    青森駅は雪の中

          北へ帰る人の群れは 誰も無口で    海鳴りだけを きいている ・・・

ところで、<ALWAYS 三丁目の夕日>は、物語が東京タワーの建設の時期に設定されている。東京タワーは物語の通奏低音を奏で、話の進行とともに天へ向かってずんずんと伸びていく。東京タワーは、昭和32年(1957)6月29日に起工し、翌昭和33年(1958)10月14日に竣工した。さすがに「鉄分」の高い鉄塔のことだけはあるもので、「鉄道の日」に竣工している!!

東京タワーは、東京の都市の象徴として、怪獣映画ではモスラやキングギドラ等によって何度も破壊されている。建設当時は戦後復興の象徴でもあったが、超高層ビルが出現してからは、少し存在感を失ってしまい、いつの間にか東京の<自然>の一部のような風景となっていっていた。ところが、石井幹子の設計によるライトアップで、東京タワーは復権をはたし、以降TVドラマの夜の場面によく登場するようになった。<ALWAYS 三丁目の夕日>は、東京タワーの出生の場に立ち合わせてくれ、初発の驚異を呼び覚ましてくれる。

さて、テレビ地上波のデジタル化に合わせて、墨田区に新東京タワー計画が進行している。既に公表されているデザインによれば高さ約610mで、平成23年(2011)開業予定である。福岡都市圏の<菅原伝授手習鑑>の舞台にもなっている標高258mの天拝山、標高367mの立花山、標高597mの油山や首都圏の標高599mの高尾山や長崎の標高333mの稲佐山あるいは広島の標高70mの比治山や札幌の標高531mの藻岩山などよりはるかに高い!!

このタワーを巡って新たな物語がやがて紡ぎ出されることであろう。

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現在公開されている<ALWAYS 続・三丁目の夕日>(以下、<続>と略記)は、前作の舞台となった昭和33年(1958)の翌年の昭和34年(1959)の設定となっている。

<続>では、東京タワーは高度成長期の始まりの東京の風景にすっかり溶け込んだ存在になっている。鈴木オートに住込みのろくちゃんは、鈴木家の一員のようになじんでいる。この鈴木オートのお向かいさんが、駄菓子屋の茶川商店で、芥川賞をめざす貧乏文士の茶川竜之介(吉岡秀雄)が住んでいる。

<続>の中で「鉄分」の最も高くなる場面は、茶川と互いに魅かれあうものの東京から去る石崎ヒロミ(小雪)が、東海道本線特急<こだま>に乗る場面である。

戦時中特急・急行は全廃され戦後は、昭和24年(1949)東京・大阪間に特急<へいわ>が9時間で走り再開した。翌年<へいわ>は、<つばめ>に改称された。昭和31年(1956)11月東海道本線全線電化により電気機関車牽引の客車特急<つばめ>は、東京・大阪間を7時間30分で走るようになり、ようやく戦前の水準を越えた。そして、昭和33年(1958)11月1日のダイヤ改正で、国鉄初の電車特急<こだま>が登場した。東京・大阪間、東京・神戸間各1往復の設定で、東京・大阪間を6時間50分で走った。滞在時間は、約2時間ながら東京・大阪間の日帰りが可能となり、「ビジネス列車」と呼ばれた。一日で行って帰ってこれることから<こだま>と名づけられた由。

<こだま>の車両は、ボンネットのある151系電車で、8両編成でクリーム色地に赤い帯が入っていた。従来の国鉄の車両の意匠には無かったもので、デビュー当時は新鮮な驚きで迎えられたのかもしれない。<続>の登場人物の生活空間の中に、<こだま>が画面に突如登場したときの質感の差異は、高度成長期の入り口を予感させてくれる。

  この151系<こだま>は、昭和39年(1964)10月1日の東海道新幹線開業で引退し、<こだま>の名称は東海道新幹線の各駅停車列車の名称に引き継がれた。開業時東京・大阪間の路盤が安定するまで<こだま>は5時間、<ひかり>は4時間で走った。1年後に、<ひかり>は、3時間10分で走るようになった。新幹線の登場で決定的に日本列島の時間空間が変容することとなる。

さて、前作と<続>ともに、東京都内を網の目のようにレールが敷かれ走っていた都電が、物語の背景に登場する。前作では、建築中の東京タワーが印象的であったが、<続>では日本橋が印象的である。東京オリンピックにあわせて高速道が建設されその高架道路が覆いかぶさる前の空が大きく広がっていた日本橋を映像で再現している。「鉄分」高値の人には、その日本橋を行き交う都電も必見ものである。

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では、昭和33年(1958)を描いた<ALWAYS 三丁目の夕日>、昭和34年(1959)を描いた<ALWAYS 続・三丁目の夕日>と同時代の福博はどうであったのだろう。

それは、西鉄ライオンズの黄金の時代であった。

 
 
西鉄ライオンズは、昭和29年(1954)に三原脩監督に率いられ初のリーグ優勝をはたし、戦力が充実しつつあった。そこへ昭和31年(1956)大分県立緑丘高校から西鉄ライオンズに一人の投手が入団した。入団間もない春の島原キャンプでは、中西太や豊田康光らのバッティング投手を務めオープン戦で結果を残し、開幕から一軍入りをはたした。1年目は、21勝6敗、防御率1.06の成績であった。因みに昨季福岡ソフトバンク・ホークスの打撃陣の前にたちふさがった東北楽天の田中将大投手は、11勝7敗、防御率3.82であった。

2年目の昭和32年(1957)からは、3年連続30勝を記録し、昭和36年(1961)にはスタルヒン投手とならぶシーズン最多の42勝を記録した。昭和39年(1964)酷使した肩を故障し、昭和41年(1966)にリリーフに転向し、昭和44年(1969)のシーズンで引退した。まさに昭和30年代に大活躍をした投手である。惜しいことに昨年11月亡くなった。別府市民球場に「稲尾記念球場」の愛称が冠されることになった。

 稲尾和久投手入団の年から西鉄ライオンズは、3年連続日本シリーズ優勝を成し遂げる。中でも昭和33年(1958)の日本シリーズは伝説的である。読売ジャイアンツに3連敗し、大手をかけられるところまで追い込まれた。雨による第4戦の順延を奇貨として、第3戦から5連投の稲尾投手の4連勝で日本シリーズを制した。第5戦では延長10回巨人の大友投手の内角シュートを平和台球場左翼席へのさよならホームランを稲尾投手自ら打ち、投打に渡り大車輪の活躍をみせた。この劇的な勝利に熱狂的なファンが手を合わせる場面があり、「神様、仏様、稲尾様」という名言が生まれた。

追悼記念に、映画<鉄腕投手 稲尾物語>の上映会が福岡で行われた。昭和34年(1959)作の映画で、稲尾投手自身が主演し、三原脩監督以下中西太、豊田康光、関口清治、大下弘ら西鉄選手全員も参加し、また野球解説者の小西得郎なども出演している。

<ALWAYS 三丁目の夕日>の時代、平和台の夕日は赤く燃えていた。暮色の深まりとともにカクテル光線が輝きを増し、歓声が市内電車の走る通りまで届いていたのだった。

ところで、当検査部もこの時期の昭和32年(1957)に中央臨床検査部として発足している。前述のように交通事情は、現在と大きく異なり学会等参加も一苦労であった。日本シリーズを戦った西鉄の選手たちも博多・東京間の移動は列車であった。彼らが発着に利用した博多駅は、祇園町交差点付近にあった旧博多駅で現博多駅は、昭和38年(1963)開業である。この博多駅ビルは、現在工事用の壁に覆われて外観を見ることはできなくなっており、今年度内に解体されてしまう。昭和30年代の博多駅の風景が消えつつある。

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 <ALWAYS 三丁目の夕日>や<ALWAYS 続・三丁目の夕日>の舞台の昭和30年代の夕日三丁目は、もちろん架空の町である。昭和30年代の町を体験したいなら、大分県豊後高田市がお勧めである。豊後高田では、マスコミで昭和30年代ブームが出現する前からそうした町作りを行っていた。これから団塊世代の大量退職の時期を迎え、団塊世代の格好の観光地になるかもしれない。

 

外注検査項目の追加及び変更のお知らせ

平成19年12月1日より下記の項目を追加しました。

・抗BP180NC16a抗体は、水疱性類天疱瘡の鑑別診断又は経過観察中の治療効果判定を目的として測定した場合に医事算定できます。

・EGFR遺伝子解析(変異解析)は、悪性腫瘍の詳細な診断及び治療法の選択を目的として患者本人に対して検査し       た場合に、一回に限り医事算定できます。

平成19年12月1日より下記項目の測定方法及び基準範囲が変更になりました。



予約オーダーをされている場合は、オーダー項目一覧よりオーダー再選択をお願いします。


 
平成19年12月7日より測定方法(ELISA法→EIA法)及び基準範囲が異なる項目は下記のとおりです。
予約オーダーをされている場合、診療科セットにされている場合は、オーダー項目一覧よりオーダー再選択をお願いします。

問合せ先:検査部検体検査室(外注)5763

別府だより                 小松 由明(別府先進医療センター)

 別府市は東に別府湾、西に標高1375mの鶴見岳を臨む地形で、冬場は「鶴見おろし」という強風が鶴見岳から海へ吹き抜けるため、体感的には意外と寒く感じることがあります。大分市中心部とは直線距離で十数キロ程度ですが、別府だけ雪が降るようなこともまれにあります。こういう寒い時は、「暖かい温泉に入って体を温めるのが一番!」です。ということで、今回は別府温泉に関することをまとめてみましたのでお読み下さい。 

①源泉総数 2845ヶ所(2002年3月時点) 《文句なしの日本一》
 全国にはおよそ2万7000以上の源泉があるので、全国の源泉の約1割が別府に存在すると言うことになります。(ちなみに世界最大と称されるイエローストーンには、約3000の源泉があると言われています)

②高温泉 別府の源泉の大半が42度以上の高温泉です。これも別府温泉の特徴です。もう一つ付け加えますと、ガスや水蒸気の温泉も多いそうです。これは、空地獄と言われる源泉です。

③1分当たりの総湧出量 約9万5000リットル《断トツ日本一》
 湯布院(2位)も約4万リットルと健闘しています。以下、3位奥飛騨温泉郷、4位伊東、5位箱根と続きます。

④温泉利用の公衆浴場数 約150ヶ所 《日本一》
 以下、2位熱海、3位鹿児島、4位上諏訪、5位箱根と続きます。別府は個人の家でも温泉があります。現在、別府市の世帯は5万世帯を超えていますが、その内3000世帯以上に「マイ温泉」があります。

⑤泉質 10種類
 地球上の温泉の泉質は11種類です。別府には、単純温泉、二酸化炭素泉、炭酸水素塩泉、塩化物泉、硫酸塩泉、含鉄泉、含アルミ二ウム泉、含銅—鉄泉、硫黄泉、酸性泉の10種類があると言われています。現在、無いとされる放射能泉については、かつては鉄輪で存在したようです。ちなみに、北海道の登別温泉には11種類の泉質すべてがあるようです。

⑥入浴方法
 別府では、色々な入湯方法が楽しめます。具体的には、滝湯、泥湯、砂湯、蒸し湯などです。これだけいろいろな入浴方法がある温泉地は少ないようです。

⑦3大秘湯 明礬温泉には、鍋山(高原)、ヘビン湯(川の中)、鶴の湯(墓の後方)の3大秘湯があります。すべて無料の野天風呂です。

興味の出た方は黒川や湯布院ばかりでなく、別府にもよっちょくれ!
 

■新人紹介■
久保山 宏美  9月から生理検査室でお世話になっています久保山 宏美と申します。 まだまだわからない事も多く、皆さんに助けて頂かなくてはいけない場面もあると思 いますが、どうぞよろしくお願い致します。 九大では、生理検査に限らず、さまざまな事を吸収できたらと思っています。九大病院は比較的重症度の高い患者さんが多くおられます。生理検査においては、患 者さんの立場に立った検査・対応を、そして、患者さんが少しでも気持ちよく検査室を後にできるよう、頑張りたいです。
田中 真弓 9月10日から血液・凝固部門でお世話になっております、田中 真弓です。徳島県出身で、今回、人生初めての県外での生活に、公私とも戸惑うことばかりですが、これも良い刺激だと思い、日々頑張っているところです。フレッシュさには若干欠けている新人かもしれませんが、どうぞよろしくお願い致します。
■編 集 後 記■
 新春のお喜びを申し上げます。本年は九大検査部51周年にあたります。諸先輩たちの熱い思いを次につなげて、検査部の更なる飛躍の年にしたいと思っています。昨年より流行の兆しがある新たな感染症にはご注意を!検査部は院内感染予防に全力を注いでいます。

  今回も鉄分検査室、内容の濃いお話でした。私事ですが昭和30年代後半に大分の田舎に生まれた私には昭和40年代豊肥本線を蒸気機関車が勇壮に走っていたのを幼心にも熱く感じられた時代でした。寝台特急「富士」に乗って18時間かけて東京に行った時もわくわくしながら電車に乗っていた気がします。時代は変わり、スピードと効率が求められる時代になりました。検査然り、研究然りです。皆フルスピードで高速道路を突っ走っているような時代です。たまには稲尾の故郷別府温泉で、副部長お勧めの由布院温泉または豊後高田の昭和の町でゆっくりするのもいいものです。私は大学院時代よく、別府温泉や当時は寂れた感じの由布院温泉に研究の合間(?)によく出かけていました。熱い湯が最高です。

  康部長と栢森技師長の熱いメッセージいつもありがとうございます。ところで、早稲田大学ラグビー部を率いて日本ラグビー界で活躍する現在サントリーラグビー部 清宮克幸監督の言葉 「組織つくりで重視することは:熱さです、何をやるにしても熱は絶対欠かすことができないものです。熱さのない組織に、いくら良いものを準備しても結果は出ないと思います(日経新聞) 」 一人一人の自覚が大事ですね。            (内海)