九州大学ホームページ
授のうわごと

2019年ステロイドホルモン学会ニュースレターに掲載
「性スペクトラム」

多くの生物種には精子を産生するオスと卵子を産生するメスが存在します。これまで、この二つの性は二項対立的に捉えられてきました。オスの対極にメスを位置づけ、雌雄を対比することで二つの性を理解してきたのでした。最近になって、このような捉え方に対するアンチテーゼとして「性スペクトラム」という概念が登場しました。つまり、性はオスとメスという二つの極として対峙するのではなく、オスからメスへとスペクトラム(勾配)を描きながら、多様な位置を取り得るという考え方です。典型的なオス(そんなオスが存在すると仮定して)を100%オスとすれば、90%オスや70%オスというオスの状態があるという考え方です。メスについても同様です。
   臨床医の先生方はこのような表現型(症状)を診断の際に見ておられました。性分化疾患の新生児の外性器の症状は、まさにスペクトラム状に分布していますし、性的少数者(LGBT)の症状も多様でスペクトラム状の分布を示すのかもしれません。同様に、基礎研究者もそのような事例を目にしてきました。実験的に作出した性転換マウスの性腺は精巣、卵精巣、卵巣へと転換しました。また自然界でもこのような現象を見ることができます。雌雄で色合いや形態が異なる鳥類には、オスなのにメスの色合いや形態をとる個体が出現する種があるのです。このようにそもそも性を二項対立的に捉えることは困難だったのですが、中間に位置する個体を異常な個体、例外的な個体と見なし、二項対立的な性からスペクトラム状の性へと、性の捉え方のパラダイムシフトが起きるまでに長い時間を要しました。
   では、性スペクトラムの概念のもとに性を理解しようとするとき、100%オス、90%オス、70%オスをどのように定量するのか。これは重要な問題です。その前に、我々の性は個体、臓器、器官、細胞の、どのレベルで確立、維持されるのかについて述べなければなりません。我々は個体として性を有していると理解してきました。実際に、あの人は男性で、あの人は女性と、おおよそ見た目(身体の特徴)で判断できます。では、個体の性の根拠となる最小単位は何なのでしょうか?例えば、骨格筋は誰が見たって雌雄で異なります。筋繊維の大きさと重量や発揮できる力には明確な雌雄差があります。また、あまり知られていないことですが、副腎にも性差があり、齧歯類ではメスの副腎がオスの副腎より大きいのです。そしてこのような性差は何がもたらすのかと問えば、遺伝子発現に性差があるはずと、多くの人は推測します。実際に、骨格筋と副腎の遺伝子発現を調べると性差があります。加えて、肝臓、脳、骨、心臓、腎臓、甲状腺など、実に様々な臓器で、雌雄で異なる遺伝子発現が報告されています。
   これらの臓器や器官は細胞によって構成されていますので、ここで見られる性差は細胞に根拠を求めることができるはずです。では、我々の身体を構成する細胞がそれぞれに性を有しているのか?つまり、オスの皮膚の細胞とメスの皮膚の細胞、オスの肝臓の細胞とメスの肝臓の細胞、オスの血管内皮細胞とメスの血管内皮細胞は性を有するのか、両者に性差が存在するのか?まだ全ての細胞で調べられたわけではありませんが、これまでに調べられた限りでは細胞レベルで性差が認められるようです。遺伝子発現やDNAメチル化、ヒストン修飾を調べた結果です。これらのデータの定量的比較は可能ですので、遺伝子変異を有する個体や特殊な環境下に飼育された個体が通常飼育下での野生型のオスに対し、何%の遺伝子発現を維持するかを示すことで、オスのレベル(スペクトラム上の位置)を議論することが可能かもしれません。
   では何が細胞の遺伝子発現、DNAのメチル化、ヒストン修飾に性差を与えるのか?本学会の会員の皆さん方はよくご存知のように、性腺で産生された性ステロイドは血流によって全身の細胞に運ばれます。細胞に到達した性ステロイドは性ステロイド受容体に結合し、ヒストン修飾の変換を介して標的遺伝子の発現を調節することが知られています。そしてその結果、遺伝子発現は雌雄間で差を生じることになります。しかし、このような性ホルモンによる内分泌制御だけが性の制御に関わるのではありません。例えば、哺乳類のオス(男性)はXとYを1本ずつ、メス(女性)は2本のXの性染色体を持っており、性染色体の構成は雌雄で異なります。しかも興味深いことに、性染色体には2種類のヒストン脱メチル化遺伝子がコードされており、最近、これらの遺伝子が雌雄のクロマチン構造に差を生じさせる可能性を見据えた性差研究が始まっています。H3K4me3(ヒストンH3のN末から4番目のトリメチル化リジン)は活性化された遺伝子の転写開始点付近に多く見られる修飾で、H3K27me3(ヒストンH3のN末から27番目のトリメチル化リジン)は不活性化遺伝子領域に見られる修飾です。これらのトリメチル化に対し、上記の2種類の脱メチル化酵素が働くことで、活性化マークの除去、ならびに不活性化マークの除去を行なっていると考えられます。これらの脱メチル化遺伝子の機能については、まだ詳細な検討が必要ですが、XXの細胞とXYの細胞での遺伝子発現の差を作り出す可能性があります。つまり、細胞の性は性ホルモンによる内分泌制御と性染色体による遺伝的制御によって確立、維持されると考えるべきです。
   私達の研究室では長年に渡り性を対象とした研究を行ってきました。その間、いくつかの点を確認するに至りました。その一つは、「性は内分泌制御と遺伝的制御によって確立、維持される」ということでした。また、このような理解に到達したことで初めて、「全ての細胞が性を有する」と理解できたのでした。先に「雌雄は連続する表現型である(性スペクトラム)」という概念に触れましたが、この概念が提唱されるまでに長い時間を要したのは、このようなステップが必要であったからでした。現在、我が国の研究者達がこの概念に沿って研究を展開しているところです。新たな概念のもと、世界を牽引する成果が出ることを期待しています。

九州大学大学院医学研究院
諸橋 憲一郎

九州大学大学院 医学研究院 分子生命科学系部門 性差生物学講座(分子生物学)
〒812-8582 福岡県福岡市東区馬出3丁目1-1
TEL: 092-642-6181 / FAX: 092-642-6181
Copyright(C) Department of Molecular Biology, Graduate School of Medical Sciences, Kyushu University. All Rights Reserved.