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授のうわごと

性の研究の入り口で(基礎生物学研究所での10年)
諸橋憲一郎

世間知らずの若輩者を教授として迎えて頂いたのは、丁度基生研が20周年を迎える節目の年でしたので、20周年の式典はまるでわたくしの教授着任のために行われたのだと錯覚したのでした。まぁ、このあたりの感覚が「世間知らず」とでも言うのでしょうか。従って、その後の苦労は筆舌尽くし難いものでした(ちょっと、脚色が入ってます)。ラボには実験台が備え付けてありましたが、幸か不幸か、後は広々とした空間以外、ゴミひとつありませんでした。若者風に表現すれば「マジかよぉ」と言ったところでしょうか。着任の挨拶に毛利所長をお尋ねした折には、「君はまだ若いから定年までここに居ることもないでしょう、適当な場所があったら出なさいよ」と言われたのでした。研究者としては正しい身の処し方ではあるのですが、着任の日に言われたものですから、強く印象に残っています。何も無い実験室と、この所長の「でなさいよ」は坊ちゃん教授には往復ビンタみたいなものでしたが、まぁ、そこは世間知らずの強さが勝っていたのでしょうか、こうして無事30周年を迎えることになった訳です(この原稿を提出した頃は、基生研で30周年を迎えるはずでしたが、人生色んなことがあるもので、平成19年4月に九州大学大学院医学研究院へ移動することになったのでした)。

研究室を立ち上げるにあたっては、幸い若い人たちが前任校から一緒に来てくれましたし、岡崎でも数名が合流してくれましたので、お金こそありませんでしたが恵まれた出発でした。それでも、研究室の立ち上げというのは初めてのことでしたので随分勘違いもしました。例えば、所内の諸先輩の研究室を拝見するに、教授とは秘書なるものを雇うのだと理解し、真似てみたのです。ただ、秘書という有り難いものを置いたことがなかったので、どのように働いてもらうものやら皆目要領がつかめず、「先生、暇なんですけど、何かやることはありませんか」と秘書なるものに言われた時には、さすがの若輩者も情けなくなりました。今となっては、一人では何もできないんじゃないかと思うくらい、秘書に飼い慣らされている状況であり、これはこれで情けないことなのです。

さて、わたくしが研究室を立ち上げるにあたり、若者たちに言ったことは、ここでは「性の研究をやりたい」ということでした。「未開拓の分野で、きっと面白から一緒にやってくれないか」と。これといった確証があったわけではないのですが、とにかく面白そうなので決めてしまったのでした。このようなことを「後の祭り」とか「石橋を叩く前に渡った」とか言って非難されるようですが、いずれにしても、わたくしの直感で決まったのですから危険な賭けでした。もちろん未だ勝敗は決したわけではなく、依然として賭けは続いています。しかし、この間感じてきたことは、性が面白いという直感というか、判断に誤りはなかったということです。かくして世間知らずが自信を持ったわけで、ここにきて最強となってしまいました。

基生研に赴任する前は遺伝子発現メカニズムを解析していました。Ad4BPという核内受容体型の転写因子を牛の副腎皮質から精製したのが、わたくし自身が手を動かしてやった仕事です。そして、この転写因子が性の研究へと導いてくれたのでした。従って、これまでの研究も、そしてこれからの研究も遺伝子の転写制御が根底にあります。基生研に着任して、初期に行った実験の一つが、生殖腺関連の転写因子に関するtwo-hybridスクリーニングでしたが、これは水崎博文君と向井徳男君が兵庫教育大学の吉岡秀文先生との共同研究で進めたものです。このスクリーニングから、興味深い因子が同定されました。β-カテニンとAd4BPの相互作用をもとに、河辺顕君と水崎博文君が生殖腺の雌化経路の一端を明らかにしました。Arx遺伝子もこのスクリーニングで単離されましたが、性分化異常をきたす疾患の原因遺伝子であることが分かりました。この仕事は杉山紀之君、向後晶子さん、福田隆之君などが頑張ってくれ、三菱生命研の北村邦夫先生、成育医療センターの緒方勤先生との共同研究として発表することができました。その後、男性ホルモンを産生するライディッヒ細胞の分化との関係で、宮林香奈子さんが引継いでくれています。Ad4BPとDax-1の相互作用からは、鈴木大河君が相互作用のメカニズムを明らかにしました。この結果は埼玉がんセンターの川尻要先生との共同研究として、Dax-1の細胞内局在の調節機構の解明へと発展したのでした。その他に、VinexinやFkh3なども単離され、それぞれ松山誠君、佐藤優子さんと大脇亜希子さんが遺伝子破壊マウスを作製し、解析を行いました。また、最近注目を浴びているSUMO化修飾因子もこのスクリーニングで単離されたのでした。SUMO化修飾によってAd4BPの転写活性が調節されていることを小松朋子さんが明らかにしました。その後SUMO化修飾されたAd4BPを特異的に認識する新たな因子を精製し、小川英知君とともにSUMO化による転写制御のメカニズムを調べているところす。このようにtwo-hybridスクリーニングによって得られた遺伝子は性を理解するための分子基盤を広げるのに大いに役立ちました。

基生研に赴任した当時、培養細胞を使って遺伝子の転写制御の研究を行うことに限界を感じていました。第一、培養細胞は性をもっていないし、組織の特異性をどこまで反映しているかについては常に不安がつきまとっているのです。トランスジェニックマウスを用いた転写アッセイを行うのが、最も信頼できる結果をもたらすと考えることは至極当然のことでした。石原悟君、小島祥君、モハマドズバイル君、嶋雄一君、ファチィヤさん、岡早苗さんなど、実に多くの人達がこの研究に参加してくれたお陰で、胎仔の未分化生殖腺、胎仔ライディッヒ細胞、胎仔副腎皮質、脳下垂体性腺刺激ホルモン分泌細胞、視床下部腹内側核に特異的なエンハンサーを同定することができたのです。組織特異的エンハンサーの同定は二つの点で意義深いと考えています。一つはその構造と機能の解析から、組織発生の時間軸を逆登ることができることです。胎仔副腎エンハンサーの解析は、実際にそのことを示してくれました。胎仔生殖腺と胎仔ライディッヒ細胞のエンハンサーの解析が、性分化のプロセスを明らかにしてくれると期待しています。もう一つは、これらのエンハンサーを使うことで任意の遺伝子の発現を可能にしたことです。実は、生殖腺でも副腎でも、そして視床下部腹内側核でも、わたくし達が同定した遺伝子断片がそのような活性を示す初めての例でした。一方で、このような遺伝子発現の研究は石原悟君が進めてきたAd4BP遺伝子座のクロマチンの構造解析や、福井由宇子さんによるM33遺伝子破壊マウスの解析、ならびに日下雅友君によるEmx2遺伝子破壊マウスの解析結果とつながり、新たな広がりをみせています。性が分化するには雄と雌の経路に必要な遺伝子が、秩序立って働かなければなりません。これらの研究がそのような遺伝子の機能を明らかにすることで、性分化が理解できるはずです。

わたくしは所外の共同研究者にも恵まれました。特に兵庫教育大学の吉岡秀文先生とはニワトリ胚を使った研究から、生殖腺での細胞増殖因子の機能や、鳥の卵巣が左側にだけ作られるメカニズムを明らかにすることができました。現在も、ニワトリの性決定遺伝子の研究を石丸善康君が続けています。東北大学の藤井義明先生とはダイオキシン受容体の卵巣における機能を通じ、ダイオキシンが内分泌撹乱物質として働くメカニズムを明らかにしました。馬場崇君が基生研で行った仕事でした。所内の先生方にも助けて頂きました。特に研究分野が近いこともあり、長濱嘉孝先生には随分助けて頂きました。長濱先生と立ち上げた特定領域研究「性分化機構の解明」が日本におけるこの研究分野の発展に貢献できればと願っています。研究部門の名前を「細胞分化」から「性差生物学」へ変えたのも、そのような意志の現れと理解して下さい。そのような訳で、基生研30周年が、わたくしにとっては着任10周年の記念(九大への転出の記念)なのだと、依然として勘違いを改めることなく、そして世間知らずの力強さを失うことなく生きてゆくべきだと思うのであります。ここに記した方々以外にも、本研究部門に対する貢献を氏名とともに記して、お礼を申し上げるべき多くの過去の在籍者や共同研究者の方々がおられます。この非礼をどうかお許し下さい。

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