網膜疾患の遺伝子治療技術開発
 
「何とか難治性網膜疾患の治療法を確立したい!」
 糖尿病網膜症・加齢黄斑変性を代表とする眼内血管新生疾患や先天性網膜変性疾患である網膜色素変性症は、この医学の進歩した時代においても患者さんと眼科医を悩まし続ける難治性網膜(脈絡膜)疾患といえる。糖尿病網膜症については、レーザーを使用した汎網膜光凝固法の確立と手術手技(硝子体手術)の急速な進歩により、依然として難治性疾患ではあるものの視力予後は近年大幅に上昇した。また、加齢黄斑変性についても手術療法や経瞳孔温熱療法(TTT)などの新しい治療法が登場し、今後の治療効果に期待が寄せられている。一方、眼科領域の疾患の中で最も難治性のもののひとつである網膜色素変性症は、現在までのところ有効な治療法が全く確立されていない。従って、患者さんには絶望感を与え、その患者さんを診察する眼科医もなすすべもなく途方にくれているのが現状で、こういった状況を改善するために、厚生労働省の特定疾患対策研究事業「網膜脈絡膜・視神経萎縮症に関する調査研究」(主任研究者:九州大学大学院医学研究院眼科学分野 石橋達朗 教授)において網膜色素変性症をはじめとする難治性疾患の治療へ向けた研究プロジェクトが現在進められている。

 当教室では、なんとかこれらの難治性網膜疾患、とくに網膜色素変性症の治療法が確立できないものかと試行錯誤を繰り返してきた。そして、これらの疾患の治療法のひとつとして、網膜への遺伝子導入技術を利用した遺伝子治療が応用できるのではないかと考えている。実際に欧米では、小動物での動物実験レベルではあるが、網膜変性症を中心とした疾患モデルに対する遺伝子治療の有効性が証明されてきている(文献)。さらに、網膜変性症を発症する犬に対して遺伝子治療を行い、その犬が障害物にぶつかることなく歩き回ることができるようになった映像が学会(ARVO[American Vision and Ophthalmology] 2001)において紹介され、研究者から大歓声が上がったことは大きな衝撃であった(文献)。また、他の臓器における疾患からやや遅れた感はあるもののアメリカのJohns Hopkins大学においては、加齢黄斑変性(AMD)に対するアデノウイルスベクターを用いた臨床試験が始まろうとしている。こういった状況のなかで、当教室でも国産の新規ウイルスベクター(「国産新規遺伝子治療用ベクターの生体内遺伝子導入特性、生体内動態に関する研究」の項を参照)を用いた網膜への遺伝子導入特性の解析を行い(文献)、その中でサル由来レンチウイルス(SIV)ベクターを用いた遺伝子治療の臨床応用への可能性を見いだすことができた。

1. アフリカミドリサル由来レンチウイルス(SIV)ベクターを用いた網膜への遺伝子導入
 ヒトの眼球および網膜の構造を図1に示す。網膜に遺伝子を直接導入しようと考えた場合、ベクター溶液を硝子体中もしくは神経網膜下(杆体錐体層と網膜色素上皮層の間)へ注入するアプローチがある。ヒトやサルなどの大動物での挙動は現在のところ不明であるが、ラットやマウスなどの小動物を使用した実験においては、硝子体中にベクター溶液を投与しても網膜で遺伝子を発現させることがなかなかできない。おそらく硝子体自体がベクター溶液の拡散を邪魔しているためであろうと予想される。従って、現在のところ手術用顕微鏡下に、非常に細い注射針(30-33G針)を使ってベクター溶液を網膜下(図1右:矢印の部分)に注入するというアプローチで遺伝子導入を行っている。

 これまでに我々は、このSIVベクターの網膜疾患への臨床応用の可能性について研究する目的で、ラットを用いた網膜下投与による網膜への遺伝子導入特性について病理組織科学的および電気生理学的検討を行って来た。その結果として以下のことが明らかになった(文献)(図2
(1)ベクター注入部位に一致した網膜色素上皮細胞にのみ遺伝子が導入された。(その他の神経網膜の細胞には遺伝子発現が認められない。)
(2)遺伝子発現は導入早期(2日後あたり)より認められ、少なくとも1年間は安定した発現を確認できた。
(3)網膜電図(electroretinogram: ERG)を用いた電気生理学的検討では、導入早期に一過性の電位の低下は認めるものの、時間経過とともに導入30日後までには正常域まで回復した。
(4)少なくとも1年間の経過観察期間において、眼球と全身臓器に悪性新生物の発生を認めなかった。
こういった遺伝子導入特性を踏まえ、さらに我々は治療遺伝子を搭載したSIVベクターを用いた網膜疾患モデル動物に対する遺伝子治療の研究を進めている。

2.色素上皮由来因子(pigment epithelium-derived factor: PEDF)遺伝子導入による網膜色素変性症モデルラットの治療
 現在までに有効な治療法が確立されていない難治性網膜疾患である網膜色素変性症は、遺伝子治療のよい適応疾患であると考えられている。この疾患に対する遺伝子治療戦略としてはいくつかのアプローチが考えられるが、我々は種々の神経保護因子を用いて視細胞変性を抑制(遅延)するというアプローチを選択した。
 これら神経保護因子の中で、色素上皮由来因子(PEDF)は1999年に血管新生抑制作用をもつということで注目されているタンパクである。我々はこのPEDF 遺伝子を搭載したSIVベクターを作成し、モデル動物であるRCSラットの治療実験を行い、有効な治療効果を得ることに成功した(文献)(図3)。
(1)組織学的に視細胞数が保たれており、視細胞変性を抑制した。
(2)視細胞変性の抑制には、神経保護因子であるPEDFのアポトーシス(プログラム細胞死)抑制が関与している。
(3)網膜電図(ERG)を用いた網膜の電気生理学的検討において、機能的にも保護効果が得られた。

 現在、その他の神経保護因子や異なったモデル動物において、同様の研究を進めている。また、平成15年度からはSIVベクターを用いた遺伝子治療の臨床研究へ向け、大型動物であるサルを用いた安全性試験を実施し、急性毒性および発癌性などを確認する予定となっている。

 
図1

図1

図2

図2

図3

図3

3. SIVベクターの安全性に関する現在の問題点
 遺伝子治療、とくにウイルスベクターを用いた遺伝子治療の場合は安全性という大きな問題をクリアーしなくてはならない。これまでに欧米で実施されている臨床研究においてもいくつかの事故が報告されている。ひとつは、1999年にアメリカのペンシルバニア大学において、高濃度のアデノウイルスベクターを肝臓に投与した後に死亡したという報告。もうひとつは、2002年にフランスにおいて、重症免疫不全患者に対するレトロウイルスベクターを使用した臨床研究で患者2人が白血病に罹患したという報告である。
 我々が使用しようと考えているSIVベクターはレンチウイルスベクターの仲間に入り、その中の代表であるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)ベクターでは以下に挙げる安全性に関する問題点が指摘されている。
(1)外界に存在するレトロウイルスとの相同組み換えによる、自己複製能を持つウイルス(RCLs: replication competent lentiviruses)の発生
(2)宿主染色体にウイルスゲノムがランダムに組み込まれるため、必要な遺伝子の発現を抑制する可能性(がん抑制遺伝子の不活化によるがんの発生など)

 可能性の高い大きな問題点は以上であるが、この中でSIVベクターを使用する有利な点は、
(1)基本骨格としているウイルス(SIVagm)が自然宿主であるアフリカミドリザルにおいてもほとんど病原性を示さないということ
(2)HIVとの相同組み換えの確率が約1/10であること(文献)であり、安全面での優位性があると考えている。
 その他にも確率は非常に低いと予想されるが、ウイルスゲノムの生殖細胞染色体への組み込みなどの問題があり、この点については大動物で詳細に検討しなくてはならない。これらの問題点を踏まえた上で、治療効果との比較を正確に評価していく必要があると考えている。

 
[参考文献]
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5.Miyazaki M, Ikeda Y, Yonemitsu Y, Goto Y, Sakamoto T, Tabata T, Ueda Y, Hasegawa M, Tobimatsu S, Ishibashi T, Sueishi K. Simian Lentiviral Vector-mediated Retinal Gene Transfer of Pigment Epithelium-Derived Factor Protects Retinal Degeneration and Electrical Defect in Royal College of Surgeon Rats.
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6.Rizvi TA, Panganiban AT. Simian immunodeficiency virus RNA is efficiently encapsidated by human immunodeficiency virus type 1 particles. J Virol 67: 2681-2688, 1993.