婦人科学産科学教室について

ご挨拶

九州大学大学院医学研究院生殖病態生理学(婦人科学産科学)
教授 加藤聖子

皆さん、こんにちは。平成24年8月1日より九州大学生殖病態生理学分野(産科婦人科)教授に就任しました加藤聖子です。
我々のホームページをご覧いただきありがとうございます。
では、我々の教室を紹介いたします。

1 九州大学産科婦人科学教室について

当教室は明治38年に京都帝国大学福岡医学科大学婦人科学産科学講座として開講し、九州大学医学部婦人科学産科学講座をへて平成9年4月から大学院重点化に伴い、生殖発達医学専攻生殖病態生理学分野に改称されました。現在、診療・研究・教育における中核病院として機能しており、207名の教室員が在籍しています。(令和5年4月現在)
2022年8月には、第74回日本産科婦人科学会学術講演会を開催いたしました。

2 診療

産婦人科学は胎児から老年期まで女性の一生を診る学問です。大きく、周産期・生殖内分泌・婦人科腫瘍の分野に分かれます。
我々の教室でもこれらの分野において、患者さんの立場に立った診療を心がけています。ガイドラインに沿ったエビデンスに基づく医療を実践するとともに、新しい医療の開発を目指して、先進医療にも取り組んでいます。さらに県内外の多くの関連病院や開業の先生方と、診療、教育、研究に関する協力体制を構築し、産婦人科医療の発展に努めています。

3 研究

医学の進歩のためには、研究は不可欠であり、産婦人科学の分野も例外ではありません。各専門グループは以下の研究を行っております。

周産期医学グループ

絨毛トロホブラストの発生・分化、胎児行動科学、妊娠合併症の病態解明に取り組み、異常妊娠に対する新たな診療・管理法の開発を目的に研究しています。

生殖生理内分泌グループ

様々な内分泌環境の破綻に原因する疾患の病態を解明し、新たな診断法さらには低襲性治療の開発を目指して研究しています。

婦人科腫瘍グループ

当施設の症例を解析したり、多施設共同研究に参加するとともに、癌発生、さらには癌の特性に関する分子機構を明らかにし、寛解率の向上を目的に診断及び治療法の開発に取り組んでいます。

今後は、従来の研究に加えて、絨毛・臍帯血・子宮内膜幹細胞を用いた再生医療や癌幹細胞を標的とした新規治療法の開発にも取り組んでいきたいと考えています。大学院生・指導教官を中心に臨床と研究の両立を目指しています。

4 教育

医学部の学生には、産婦人科学の基礎知識とともにおもしろさを知ってもらうよう各教員が講義をします。
初期研修では、患者さんに接しながら産婦人科の魅力を伝えるよう指導します。入局後は、産婦人科専門医の修得と各分野のサブスペシャリティを目指すよう指導します。その過程で心・技・体のバランスがとれた医師の育成と、リサーチマインドを持ち臨床医の立場で研究を行う人材の養成を行います。

5 学生・研修医の皆様へ

我々は以下の3つの大きな目標を掲げています。

  1. リサーチマインドを持ち臨床と研究を両立する。
  2. パートナーシップを育て、皆が助け合える職場環境をつくる。
  3. リーダーシップを持ち、世界に情報を発信する教室を目指す。

このような我々の教室に興味をもたれた方は是非、ご連絡ください。

九州大学大学院医学研究院生殖病態生理学(婦人科学産科学)
加藤 聖子

沿革

1905(明治38)年4月高山尚平が初代教授として婦人科学産科学講座を担任することによって、教室としてのスタートを切った。
その翌年に今淵恒寿講師がドイツ留学から帰朝後、1910年に第2代教授に就任した。
1913(大正2)年産婆養成所が設立された。また同9年3月には、医学部正門から直進する大森通りの突き当りに壮大な教室棟(1975(昭和50)年3月移転)が新築された。
1926(昭和1)年1月東京帝国大学助教授白木正博が第3代教授として着任し、教室史上にも輝かしい光芒を放つ一時代を迎えた。
1936(昭和11)年10月馬屋原茂が第4代教授として講座を担当したが勃発した第2次大戦による激動の時期を迎え、診療、研究も空白に近い状態に至った。
1947(昭和22)年3月木原行男助教授が昇任して第5代教授となり、戦後、教室の再興に努力を傾倒し、以後約10年間にわたって研究、診療、教育の各分野に昔日の隆盛をよみがえらせた。
1958(昭和33)年10月第6代教授として古賀康八郎弘前大教授を迎え、教室はさらに新しい一歩を進めた。
1964(昭和39)年初めて同窓会誌が発刊され、1964年5月には病棟が木造の旧棟から現在の中央病棟3階へと移転した。
1968(昭和43)年9月大阪大学より滝一郎講師が第7代教授として着任した。
1975(昭和50)年3月旧研究棟の木造建築がすべて取り壊され、現在の研究棟へ移転した。
1978(昭和53)年4月助産婦学校が廃止され、助産婦教育は医療技術短期大学部専攻科助産学特別専攻においてなされることになった。また、同年10月には、分娩部が中央診療部の一部門として設置された。
その後、滝教授は1981年4月退官され、大阪警察病院院長として赴任された。
1982(昭和57)年3月後任の第8代教授として中野仁雄佐賀医科大学助教授が着任した。
1989(平成元)年附属病院に周産母子センターが設置された。分娩部は廃止され、周産母子センター母性胎児部門に改組された。
1997(平成9)年周産母子センター母性胎児部門に母体胎児集中治療室が新設された。
2000(平成12)年大学院に学府と研究院が設置され、講座は九州大学大学院医学研究院―生殖発達医学専攻―生殖常態病態学講座となった。
2002(平成14)年新病院南棟が開院し、婦人科病棟は新病院6階、周産母子センター母性胎児部門は5階へ移転した。
2003(平成15)年医学部、歯学部、生体防御医学研究所の3つの附属病院が統合し、九州大学病院となった。
2008(平成20)年4月第9代教授として、生体防御医学研究所教授の和氣徳夫が転任した。
2011(平成23)年1月環境発達医学研究センターが設立された。
2012(平成24)年8月加藤聖子順天堂大学医学部准教授が第10代教授として赴任し、現在に至っている。

歴代教授とその研究

初代教授 高山尚平(1905(明治38)年4月~1906(明治39)年10月)

高山尚平が初代教授として教室としてのスタートを切ったが、その翌年には、高山教授は京都帝国大学教授に転任した。

第2代教授 今淵恒寿(1910(明治43)年5月~1925(大正14)年8月)

1910(明治43)年に第二代教授に就任し、以降1925(大正14)年8月に至るまでの15年間、教室の礎石を作る努力を傾注した。1913年産婆養成所の設立、同1916年ラジウム科の新設、1923年レ線深部治療器械ジュピターの設置などを行った。

第3代教授 白木正博(1926(大正15)年10月~1936(昭和11)年5月)

白木教授は、世に「白木のレントゲン」と膾炙される放射線学の権威であり、X線深部治療器械の開発と整備に努め、レントゲン診断並びに治療の基礎的、臨床的研究に幾多の業績を残した。1928(昭和3)年の第26回日本産科婦人科学会では「子宮癌の放射線療法」を宿題報告として発表した。1936年10月、白木教授は東京帝国大学教授に転出した。

第4代教授 馬屋原茂(1936(昭和11)年12月~1946(昭和21)年7月)

白木教授時代の教室研究の主テーマである子宮癌と放射線療法の問題を継承し、放射線診断学の分野を大きく発展させ、1941(昭和16)年には宿題報告「レントゲン線による骨盤測定法に関する研究」を発表した。

第5代教授 木原行男(1947(昭和22)年3月~1958(昭和33)年3月)

木原教授は、産婦人科領域における血液型不適合の問題、とくにRh因子に関する研究を行い、1954(昭和29)年日本産科婦人科学会総会において宿題報告を担当した。しかし、教室が担当校となった福岡市における最初の第10回日本産科婦人科学会総会を目前に控えた1958年3月、木原教授は急逝された。

第6代教授 古賀康八郎(1958(昭和33)年10月~1968(昭和43)年4月)

古賀教授は、着任の翌年の第15回日本医学会総会及び第11回日本産科婦人科学会総会において「子宮頸癌患者の内分泌機能に関する研究」と題する特別講演と宿題報告を行った。また、新生児溶血性疾患に関する研究も白川講師(元福岡大学医学部教授)、久永講師(元保健学科教授)らによって継承された。ME機器の導入による産婦人科診断学の開発が前田講師(元鳥取大学医学部教授)らにより精力的になされた。1964年11月には第1回日本産科婦人科学会臨床大会を主催した。

第7代教授 滝一郎(1968(昭和43)年9月~1981(昭和56)年4月)

滝教授は杉森講師(元佐賀医科大学学長)らと子宮癌発生と内分泌変調に関する実験的及び臨床的研究、子宮癌の細胞学的及び組織学的研究と初期癌に対する合理的軽減療法の開発、凍結療法、CO2レーザー療法の導入と放射線療法の改良、新しい化学療法の導入などを行った。1973年には第14回日本臨床細胞学会総会を、また1975年には第7回日本電子顕微鏡学会を担当し、後者では子宮内膜間質の電顕像に関する会長講演を行った。1978年には、第30回日本産科婦人科学会総会を主催した。滝教授は1981年4月退官され、大阪警察病院院長として赴任された。

第8代教授 中野仁雄(1982(昭和57)年3月~2005(平成17)年3月)

中野教授は、1981(昭和56)年に本邦初の胎児穿刺法を用いた胎児水腫の子宮内胎児治療例を報告した。小柳助教授(前発達病態医学教授)らは、超音波断層法を応用した胎児中枢神経系機能評価法を確立し、生理的な胎児中枢神経機能の発達及び子宮内中枢機能異常の診断法を提唱し、1991(平成3)年、第43回日本産科婦人科学会総会のシンポジウムで、「高次神経機構成熟との連関からみたヒト胎児行動の発達過程に関する研究」を発表した。中野教授は平成元年第55回日本超音波医学会、1994年第12回日本周産期学会、1995年第10回日本更年期医学会、1998年第34回日本新生児学会、第55回日本産科婦人科学会総会を主催した。中野教授は1999年から4年間病院長、2004年から1年半副学長を務めた。

第9代教授 和氣徳夫 (2006(平成18)年4月~2012(平成24)年3月)

和氣教授は、全国より嚢胞化絨毛の検体を収集するシステムを確立し、胞状奇胎の発生機構やその続発症の分子機構を明らかにし、それまで肉眼的に行われてきた診断法に遺伝学的解析や免疫組織染色の手法を取り入れ、「絨毛性疾患取り扱い規約」の改訂に貢献した。その成果を2011年第63回日本産科婦人科学会で「嚢胞化絨毛のゲノム研究 基礎から臨床へ」と題する特別講演で発表した。2009年第15回世界絨毛性疾患会議を主催した。2012年3月退官し、同年4月、環境発達医学研究センター特任教授に就任した。

第10代教授 加藤聖子 (2012(平成24)年8月~現在)

婦人科癌の発生機構の関与するRasを介するシグナル伝達経路の解析や子宮内膜・子宮体癌幹細胞の同定とその生物学的特性の解析を行ってきた。現在、癌幹細胞のマーカーの同定や癌幹細胞を標的とした治療法の開発や子宮内膜幹細胞を用いた再生医療への応用の研究を展開している。

1903(明治36)年 京都帝国大学福岡医科大学創設
1905(明治38)年 婦人科学産科学講座開講
1911(明治44)年 九州帝国大学設立に伴い、九州帝国大学医科大学に改称
1913(大正2)年 産婆養成科新設
1919(大正8)年 九州帝国大学医学部に改称
1932(昭和7)年 温泉治療学研究所(別府温研)設置
1939(昭和14)年 九州帝国大学臨時附属医学専門部設置
1947(昭和22)年 九州大学医学部に改称
1949(昭和24)年 附属医院を附属病院に改称
1951(昭和26)年 医学部附属看護学校設置
1952(昭和27)年 附属医学専門部廃止. 医学部附属助産婦学校設置
1955(昭和30)年 九州大学大学院医学研究科設置
1971(昭和46)年 九州大学医療技術短期大学部設置
1978(昭和53)年 医療技術短期大学部専攻科設置、助産婦学校廃止. 附属病院に分娩部設置
1982(昭和57)年 温研、癌研、生体防御医学研究所に改組、拡充
1986(昭和61)年 医学研究科を医学系研究科に改組、補充
1989(平成元)年 附属病院周産母子センター設置、分娩部を廃止し周産母子センター母性胎児部門に改組
1997(平成9)年 大学院重点化による医学系研究科改組により九州大学医学部婦人科学産科学講座は九州大学大学院医学研究院-生殖発達医学専攻-生殖常態病態学講座-生殖病態生理学として改編
周産母子センター母性胎児部門に母体胎児集中治療室を新設
2000(平成12)年 九州大学大学院に学府(大学院生の教育研究組織)と研究院(教官の研究組織)を設置
2002(平成14)年 新病院第Ⅰ期棟(南棟)開院
2003(平成15)年 九州大学医学部附属病院、歯学部附属病院、生体防御医学研究所附属病院の3病院が統合し、九州大学病院となる
2004(平成16)年 国立大学法人九州大学となる
2008(平成20)年 周産母子センター母性胎児部門を総合周産期母子医療センター母性胎児部門に改組
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