お知らせ

2011.06.09

東日本大震災における検案活動-法医学分野 池田典昭教授

 
写真1:被災地の状況
 3月11日発生の大震災およびその後の津波被害において、宮城県と福島県で2度にわたって検案活動を行ったのでその内容を報告します。

 今回の派遣は日本法医学会理事長からの依頼によるもので、警察庁と日本法医学会との大量災害発生の際の出動に関する取り決めに基づいて行われたものです。現地の警察本部長と警察庁刑事局長から理事長に依頼状が出た後、災害時検案支援医師として委嘱されました。3月15日に依頼を受け、その日のうちに教室の臼元洋介助教を福島に派遣しました。私自身は学会の講演等を済ませ震災一週間後の18日に山形に入り、宮城県の各被災地で6日間検案を行いました(写真1:被災地の状況)。

 当時仙台にはホテルは全くなく、当初学会より9名が派遣され、途中より臼元助教を含め応援5名が福島での検案を終えて来てくれました。14名で山形市内に泊まり、朝6時半に山形県警の車両で出発、午前9時前に宮城県警察本部に着き、そこより女川、石巻、東松島、岩沼、南三陸町等10ヶ所に分かれて宮城県警の車両で検案場所に向かいました。まだ高速道路の一部が不通で、ガソリン待ち車両等もあり、渋滞がひどく、遠方では2時間以上の道のりでした。私は最初の3日間6名で石巻市の旧青果市場(写真2)で活動しましたが、初日に中に入ったとたんに足がすくんだのをおぼえています。
 体育館より広い空間でしたが、大きく2つに区切り、片方には数百の御遺体が並べられ、片方では警察官がブースを作って検視をしていました(写真3:検視ブース)。

写真2:検案が行われた石巻市の旧青果市場

写真3:検視ブース
 警視庁や大阪府警、山形県警等、多い時は10ブースを使い、御遺体の洗浄、所持品の整理、検視を行っており、我々は検視後の死体検案、身元確認のための試料採集を行いました。検案場所は電気、ガス、水道がなく、自家発電を使い、薄暗い中で、給水車からの少量の水をバケツに汲んで、タオルで泥だらけの御遺体をきれいにし、検案をするという作業を繰り返しました。一日の作業は日没前には終了しなければならないため、11時すぎに始めた検案は遅くても5時には終えざるを得ず、そこからまた5時間かけて山形に戻りました。そのため、6名で行った検案は1人30~40体が限度で、3日で数百体の御遺体を検案させていただきましたが、搬入される御遺体も多く、初日、2日目の検案終了時には御遺体安置場所の減らない御遺体を見て自分は何をしているのだろうと涙が出ました。4日目以降は名取、岩沼等の仙台空港周辺から南の地区の検案をしました。こちらは御遺体の数も少なく、何より良かったのはすでに棺が用意されている所が多く、少しほっとしました。

 私の山形からの帰福後も日本法医学会は継続して検案医の派遣を続けています。4月に入ってすぐですが突然同級生の放射線医学研究所、明石真言理事(前同緊急被ばく医療研究所センター長)から電話があり、福島の原発周辺の御遺体の検案について警察庁より相談を受けているが、どうなっているのか、お前は行かないのかと言われました。宮城の検案で精神的に疲れているのでと答えましたが、そうも言っていられず4月14日、福島第一原発から10キロ圏内の浪江町での捜索が始まった日から6日間福島で検案を行いました。30キロ圏内の南相馬市のホテルから相馬市の検案場所まで通いました。
 宮城での検案との最大の違いは、検案前に除染として屋外で御遺体を徹底的に水洗いし、そのあと日本放射線技師学会から派遣された技師さんが全身の放射線量を測定し、その後検案をすること、御遺体の死後変化が進行しているため、身元確認のための正確な年齢推定と試料採取が検案の主目的となっていることでした。


 今回の二度の派遣で強く感じたことは日本における死因究明制度、死体検案制度に大きな不備があることです。阪神大震災と比較されますが、決定的に違うのは傷病の程度と神戸には監察医制度があったことです。今回の地震では家屋倒壊による傷害者は少なく津波による急死者が多数いました。一万人の死者にはその倍以上のご家族がいます。その方達にとっては、一刻も早く御遺体を検案して御家族のもとにお返しすることが最も必要な医療です。それに関しては早くから被災地に入っていた救命救急医は役に立ちませんし、我々も監察医制度がないために効率的な検案ができませんでした。死者に対する日本の医療の現状がよくわかった日々でした。



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