キャンパス風景

1. 大森通り

大森 治豊 ~邦内臓外科の開祖~

大森治豊先生は1852年(嘉永五年)11月10日、江戸神田三河町生まれ、山形県南村山郡上ノ山町出身。1879(明治十二)年10月、東京大学医学部(1886(明治十九)年に東京帝国大学と改称)を卒業。同年12月、福岡医学校の設立に伴い赴任され、患者の治療のみならず、医師の養成、開業医の啓蒙に尽力された。明治十八(1885)年4月、帝王切開術を施行し仮死状態にあった赤ん坊の気管切開を行い見事に蘇生させた。1886(明治十九)年にはこの帝王切開を含めた開腹例100例をまとめ「心腹切解一百例」を発表し、1891(明治二十四)年に医学博士の学位が授与されている。また、県立福岡病院時代の地方巡回診療、県立福岡病院の移転、さらには医科大学を目指した活動もその業績として特筆される。1899(明治三十二)年に佐藤三吉、田代義徳両氏とともに第1回日本外科学会の開催に尽力された。1903(明治三十六)年には県立福岡病院を母体とした京都帝国大学福岡医科大学(九州大学医学部の前身)が新設され、同年4月には福岡医科大学長兼附属医院長に任ぜられ外科学講座教授に就任された。1904(明治三十七)年にはもう一つの外科学講座が新設されることとなり、三宅速先生が赴任され、外科学は、大森、三宅両教授による2講座制となった。1906(明治三十九)年に自ら第7代日本外科学会会長を務められたのち、同年8月病を得て退官された。墓所は臨済宗大徳寺派の崇福寺にあり、毎年教授以下医局員が墓参している。九州大学医学部の基礎を築かれた先生の功績は、医学部同窓庭園の銅像として今もその栄誉を讃えられている。また、出身の山形県上山市にも銅像が建立されている。
前原 喜彦
(消化器・総合外科学分野(旧第2外科)教授)
 

2. 宮入通り

宮入 慶之助 ~寄生虫学発展の功労者~

宮入慶之助は、明治35(1902)年ドイツのレフラー教授の研究室に留学し、明治37(1904)年京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学医学部)教授に就任した。 当時の日本の低い保健状況を痛感され、博士は衛生学の中で特に寄生虫の研究に重点をおかれた。博士は鈴木稔助教授とともにまだ生活環の不明であった日本住血吸虫の中間宿主の探索をし、1913年ついに佐賀県鳥栖市で小巻貝を見いだし、これが目指す生物であることを実験で証明した。この貝は後にミヤイリガイという和名で呼ばれるようになった。

 この発見は世界的に重要なもので、このことを知った英国のライパー博士がアフリカに分布する他の2種の住血吸虫の中間宿主貝を見つけるきっかけとなった。後に英国の熱帯病理学者ブラックロック教授は宮入博士をノーベル賞候補に推したが、受賞は実現しなかった。ミヤイリガイ発見を記念し、鳥栖市近郊に学勲碑が建てられている。
 
多田 功
(寄生虫分野 名誉教授)
 

3. 久保通り

久保 猪之吉 ~日本耳鼻咽喉科学の開拓者~

久保猪之吉教授は、明治33(1900)年に東京帝国大学医科大学を卒業後、ドイツ留学を経て明治40(1907)年九州帝国大学医科大学教授に就任した。久保教授は、日本で初めて食道直達鏡を行ったことで広くその名前を知られている。 他にも無響室の建設や音声言語障害治療科の創設、術後性頬部嚢腫の発見と命名、外鼻や耳介の整形手術、平衡機能の研究など耳鼻咽喉科学において画期的な研究と診療の体制を確立するという優れた業績を残した。

 また、久保教授の偉業を記念して造られた「久保記念館」には、耳鼻咽喉科に関連する数多の資料が収められている。この久保記念館は、世界的にも類を見ない貴重な標本、世界でも数点しか現存しない書物、耳鼻咽喉科の歴史をしめす機械・機具類などを一堂に集めた大変貴重な博物館である。
 
中川 尚志
(耳鼻咽喉科学分野 教授)
 

4. 稲田通り

稲田 龍吉 ~ワイル病病原体の発見者~

稲田龍吉博士は、明治33(1900)年東京帝国大学医科大学を首席で卒業後、明治35(1902)年ドイツ留学、明治38(1905)年帰国とともに福岡医科大学(現九州大学医学部)第一内科初代教授に就任した。

大正3(1914)年ワイル病病原体を発見。大正4(1915)年9月「日本黄疸出血性スピロヘータ病論」と題して発表した。その内容は病原体の発見から感染源、感染経路、臨床、病理、診断、治療及び予防に至る完璧な内容であった。大正9(1920)年東京帝国大学内科学教授として転任。昭和19(1944)年文化勲章受章、昭和25(1950)年逝去。

稲田博士らが大正3(1914)年に分離したIctero No.1株は、その後我が国の学者によって維持され、分離から76年を経て、平成2(1990)年大阪で開催されたレプトスピラ分類委員会で病原性レプトスピラの基準株として承認された。昭和63年に公開されたノーベル財団の資料によれば、稲田博士は井戸博士(第一内科、第2代教授)とともに、大正8年(1919)にノーベル医学賞受賞候補であった。 しかし同年、井戸博士は腸チフスのため38歳で夭折。このため、最終選考を前に受賞の機会は失われた。
 
赤司 浩一
(九州大学病態修復内科(旧第一内科)教授)
 

5. 田原通り

田原 淳 ~哺乳動物心臓の電気的刺激伝導路の発見者~

田原 淳先生は、哺乳動物心臓の電気的刺激伝導路の発見者として世界的に有名であり、その偉業を讃えてその途中の房室結節を“田原結節”とも呼称している。この仕事は、1903年(九大医学部開設と同年)~1906年のMarburg大学病理学教室(Aschoff教授)留学時になされたものであり、1906年に“Das Reitzleitungssystem des Saugetierherzens”として発表されている。

 この業績は、当時の心臓収縮に関する筋原説、神経原説の議論に対して前者が正しいことを証明したものであり、さらにその後の心臓生理学や病理学、そして臨床研究発展の基礎となった画期的な成果であり、「20世紀の偉業」の一つと言っても過言ではない。

 田原先生は明治41年(1908)に九大(当時京都帝国大学福岡医科大学)に教授として赴任され、大正3年(1914)に学士院恩賜賞を受けておられる。なお、先生は明治6年(1873)7月5日、大分県東国東郡西安岐村瀬戸田(現安岐町)にお生まれになり、生誕100年を記念して養子先の同県中津町と九大病理学教室が建立した記念碑が福岡市にある。
 
居石 克夫
(病理病態学(旧 病理学教室第一講座) 名誉教授)
 

6. 橋本通り

橋本 策

  橋本 策(ハカル)先生(1881-1934)は明治14年三重県阿山郡西柘植村(現伊賀町)の医家に生まれ、旧第三高等学校を経て九州大学医学部(旧京都帝国大学福岡医科大学)に進み、第1回生として1907年に卒業された。外科学第一講座(三宅 速教授)在局中にリンパ球浸潤に富む特異な甲状腺腫に着目、大正元年(1912年)、ドイツの外科学雑誌に報告した。ドイツ留学されたが第一次世界大戦のために帰国、帰郷して医業を継いだが昭和9年盛業半ばで腸チフスのため急逝された。後年その独立性が認められ、さらに自己免疫病という概念の登場とともに、その代表的疾患となった「橋本病」にその名を残している
 
中村 雅史(臨床・腫瘍外科分野(旧第一外科)教授)
田中 雅夫 (下関市立市民病院理事長)
佐藤 裕 (国東市民病院管理者)

作成者:森山 大樹(国際医療部(臨床・腫瘍外科分野))
 
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