キャンパス風景

19. 大森 治豊 先生像

大森治豊先生は、明治十二年東京帝国医科大学を卒業、十八年福岡医学校校長して着任、二十一年県立福岡病院長に就任された。三十年同病院移転一周年に際し、 先生は大学設立の雄大な構想を語り、以後その実現に尽瘁され、三十六年四月ついにこの地に福岡医科大学の創立をみた。このとき先生は推されて初代学長に就任され、 九州大学の基礎を築かれたが、四十二年に惜しくも病のため退官、四十五年二月十九日逝去された、これによりさき四十三年五月先生の不滅の功績を讃えて、 医書を片手にした講義姿の寿像が建立された。この像は昭和十八年第二次世界大戦中、金属不足のため撤去のやむなきに至ったが、二十八年九州大学医学部五十周年にあたり、 胸像として復元された。その後全身像再建を希望する声がたかまり、七十周年記念事業として装いを新たにした立像がここに建立された。 九州大学創立の偉大な功労者である先生の偉容を再び学園の中枢に仰ぎ見るを得たことは後進の大きな喜びである。
昭和四十八年十一月二十四日
九州大学医学部七十周年記念会
-台座 説明文より
 

20. 久保 猪之吉 先生


久保猪之吉教授は、明治33(1900)年に東京帝国大学医科大学を卒業後、ドイツ留学を経て明治40(1907)年九州帝国大学医科大学教授に就任した。久保教授は、日本で初めて食道直達鏡を行ったことで広くその名前を知られている。 他にも無響室の建設や音声言語障害治療科の創設、術後性頬部嚢腫の発見と命名、外鼻や耳介の整形手術、平衡機能の研究など耳鼻咽喉科学において画期的な研究と診療の体制を確立するという優れた業績を残した。

また、久保教授の偉業を記念して造られた「久保記念館」には、耳鼻咽喉科に関連する数多の資料が収められている。この久保記念館は、世界的にも類を見ない貴重な標本、世界でも数点しか現存しない書物、耳鼻咽喉科の歴史をしめす機械・機具類などを一堂に集めた大変貴重な博物館である。
中川 尚志(耳鼻咽喉科学分野 教授)

21. 医学博士 稲田 龍吉 先生像

稲田龍吉博士は、明治33(1900)年東京帝国大学医科大学を首席で卒業後、明治35(1902)年に心臓病の研究のためドイツに留学、明治38(1905)年帰国とともに福岡医科大学(現九州大学医学部)第一内科初代教授に就任した。

着任当時九州地方では、発熱・黄疸・出血を伴う死亡率の高い疾患が風土病として知られていた。稲田は、井戸泰(後に九州大学第一内科第2代教授)とともにこの疾患をワイル氏病と診断し、その病原体について研究を開始した。 大正3(1914)年、ついにその病原体を世界に先駆けて分離・同定し、その継代培養にも成功。米国ロックフェラー研究所機関誌であるJournal of Experimental Medicine 誌にその詳細を発表した。 周到な研究方針と該博な学識に基づいたこれらの研究は、その続報も加えて、病原体の発見から感染源、感染経路、臨床、病理、診断、治療及び予防に至る完璧なものであった。 当時同研究所の花形であった野口英世は稲田らの一連の研究に深い感銘を受け、米国のワイル氏病病原体も同一であることを追試し、属名をレプトスピラと提唱した。 これを正式名称として現在も用いている。昭和63年に公開されたノーベル財団の資料により、稲田博士は井戸博士とともに、大正8年(1919)にノーベル医学賞受賞候補になっていたことが明らかになった。 しかし同年、井戸博士は腸チフスのため38歳で夭折。このため、最終選考を前に受賞の機会は失われた。

大正9(1920)年東京帝国大学内科学教授として転任。東京大学においても潰瘍性大腸炎10例をまとめ、初めて疾患概念として提唱するなど、広く内科学を究めた。昭和19(1944)年文化勲章受章、 昭和25(1950)年脳腫瘍のため逝去。稲田博士らが大正3(1914)年に分離したIctero No.1株は、その後我が国の学者によって維持され、分離から76年を経て平成2(1990)年大阪で開催されたレプトスピラ分類委員会で 病原性レプトスピラの基準株として承認された。
 
赤司 浩一(九州大学病態修復内科(旧第一内科)教授)

 

22. 医学博士 武谷 廣 先生

武谷廣先生ハ明治四十三年一月十九日福岡医科大学教授ニ任セラレ内科学第二講座ヲ担任セラル爾来昭和十年六月五日迄 教授ノ職ニ在ル事二十有六年昭和十年七月十一日九州帝国大学名誉教授ノ名稱ヲ授ケラル
昭和二十八年秋再建
-台座 説明文より

内科学第二講座初代教授の中金一が病魔に倒れたため、当時内科学第三講座助教授であった武谷廣が1910(明治43)年に内科学第二講座の第2代教授となった。以降、1935(昭和10)年まで教室を主宰した。臨床を大切にして臨床上重要な問題に関しては詳細な臨床観察と的確な動物実験をもって研究を進めることを旨とし、“臨床の二内科”としての基礎を築いた。
なお武谷先生胸像の背後にそびえる基礎研究A棟は、1931(昭和6)年に合同内科教室として竣工した建物である。
武谷廣先生略歴
1902(明治35)年 東京帝国大学医科大学卒業
1905(明治38)年2月
 〜1910(明治43)年
京都帝国大学福岡医科大学内科学第三講座助教授
1906(明治39)年11月
 〜1909(明治42)年1月
ドイツ留学(チュービンゲン大学)。エルンスト・フォン・ロームベルグ教授に内科学を、パウル・クレメンス・フォン・バウムガルテン教授に病理学を学ぶ。
1910(明治43)年1月
 〜1935(昭和10)年6月
九州帝国大学医科大学内科学第二講座教授
1935(昭和10)年7月 九州帝国大学名誉教授
1941(昭和16)年1月 逝去
北園 孝成(病態機能内科学分野教授)
 

23. 吉田 とめ 女史之像

吉田とめ女史は、明治二十八年福岡県立病院看護養成所に入学、当時の病院長であった医学博士大森治豊先生の信任厚く、直ちに東京赤十字病院へ内地留学に推され,帰学後の明治三十六年四月、福岡医科大学創立されるや看護婦長を命ぜられ引きつづき総取締りとなり、歴代の院長に仕えて看護婦養成所の発展に尽力されました。

その後各科の新設に伴い、眼科、皮膚科、耳鼻咽喉科の看護婦長を歴任され、明治四十一年、九州大学佛教育青年会を発足するや、しばしば看護婦にも修養講話会を催され若葉会と命名され、看護婦の修養と親睦の会として今日に発展し本学看護婦の象徴となっています。女史は人格高潔、世人の信望も厚く又稀に見る俳人として句集「木賊」「九十九集」を出版されるなど趣味の豊かな女性でございました。
女史は昭和八年後進に道をゆずられ、余生は福岡市平尾山荘で読書、句作などに親しまれました。退官後も雑誌「若葉」の発行など、生涯を本学の看護婦道の向上のため尽力されましたが、昭和三十八年一月二十九日九十二才の高齢で没せられました。同年五月、本会創立六十周年記念祝典に当り記念事業の一として胸像を建立し、創始者としての功績を讃えることになりました。偉大なりし女史の温容は永遠に私共の敬慕の的となり、後進看護婦の進む道を示されるものと信じます。
 
昭和四十三年春 九州大学医学部附属病院看護婦若葉会建立
-台座 説明文より
 
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