キャンパス風景

7. 医学部正門

明治36年(1903年)に京都帝国大学福岡医科大学として発足した九州帝国大学医学部は、昭和3年(1928年)創立25周年を迎え、記念事業の1つとして医学部正門が建てられました。
この正門は、病院地区キャンパスの整備、改修の遷移と共に姿を変え、医学部を象徴する門として、現在の場所に設置されています。
 

8. 正門門衛所

九州大学医学部は京都帝国大学福岡医科大学として明治36年(1903)創立され,九州帝国大学医科大学(1911),九州帝国大学医学部 (1919) の名称を経て,昭和22年 (1947)より現在の名称となる。

  この正門門衛所は医学部構内に遺されている唯一の木造建築物である。残念ながら正確な建築年月日の記録はないが,明治36年 (1903) の地図には既に記載されている。面積は27.2 m2 (8.25 坪),平屋である。外壁は下見板張りで,フード状の庇は弯曲した腕木で支えられて,当時の木造建築としては最新の工夫がみられる。内部も当時の面影が残っている。

  医学部の歴史を偲ぶよすがとして,創立時の場所に保存するものである。
医学部同窓会
 

9. 九州大学 医学歴史館

九州大学医学歴史館は九州大学医学部同窓会の寄附によって建設され、九州大学と医学部同窓会が共同運営のもと、平成27年(2015年)4月4日に開館式典を行いました。医学歴史館では、医学部創立以来の貴重な史料や業績を多数展示しています。

医学歴史館は明治36年(1903年)3月大学創立時に建てられた解剖学講堂を復元したもので、この木造階段教室は新入生が最初に医学の雰囲気を感じる、象徴的な建物でした。 病院キャンパスの整備にともない、昭和51年(1976年)医学部同窓会によって旧中央講堂のすぐ隣に移築保存されていましたが、平成9年(1997年)新病院が建設されることになり、旧中央講堂とともに解体されてしまいました。九州大学医学部講内にのこった創設当時の面影が感じられる建築物であっただけでなく、福岡県内にのこる木造洋風建築物としても最も古いものの一つでした。

医学歴史館は、松尾芭蕉の「不易」(いつまでも変わらないこと)という言葉を理念に、思索の場を提供するものです。この理念のもと、九州大学医学部に関わる貴重な資料を収集保存し、調査研究を行い、その成果を展示することによって、医学教育・研究を支援するとともに、広く社会に九州大学医学部の医学・医療の歴史を紹介し、親しんでいただくことを大切な使命としています。
 
(文責:九州大学医学歴史館)
 
  • 開館日時
    開館日:毎週水曜日~日曜日 10:00〜16:30(入館は16:00まで)
    年末年始(12月28日〜1月5日)のほか、資料整理等のため臨時休館する場合があります。
  • 九州大学医学歴史館
    住所:福岡市東区馬出3-1-1   TEL/FAX:092-642-4856
 

10. 九州大学医学部 創立七十五周年記念庭園

医学部七十五周年記念事業のひとつとして、医学部同窓会から寄贈された(6033平米を有する)庭園です。皮膚科、泌尿器科と耳鼻咽喉科学教室があった木造建築の跡地に昭和53年11月に完成しました。

日本庭園の傳統を基調とし、山形の起伏、大刈込や遊歩道の姿に光琳模様の曲線美を活かしつつ、築山には全九州から渉猟した常緑落葉の樹林に加えて、五ツ木渓谷産の青石からなる石崖と渓谷を配して、九重、祖母や阿蘇の三山五岳に擬して、九州の風土を再現したものです。

大森通り沿いの刈込に三十七種の久留米つつじを混植しつつ、外来前の平刈込には長崎くまのつつじ一色を配して、初春から新緑の候にかけて刻々に移りゆく鮮やかな色彩の変化が、人々の目を楽しませます。

築山を繞る石垣の一部に、地下鉄工事の際に得られた福岡城の築城石が用いられ、そして庭園の西北側には巨匠カール・ミレスの不朽の名作「神の手」が聳えています。

医学部同窓会

 

11. 至誠の渓流(武谷健二先生石碑)

七十五周年記念庭園の南側にある、大森治豊先生像の傍らに、「至誠の渓流」と名づけられた渓流があります。 この渓流は九州大学附属医学専門部同窓会である「至誠会」が、開校三十周年記念事業として造成したものです。

医学専門部は昭和14年(1939年)6月に開校し、昭和27年(1952年)を最後に、計835名の卒業生を送り出しました。閉校して久しい25周年目の総会において、開校三十周年記念事業として、訪れた患者さんの癒しとなるような池の造作が企画されましたが、病院新築との兼ね合いから着工には至らず、ようやく七十五周年記念庭園の造園の際に、「至誠の渓流」として実現しました。

「至誠の渓流」記念碑の記銘は、第26代医学部長、武谷健二先生の筆によるもので、碑台には大正4年(1915年)にこの地に新築され昭和51年(1976年)に取り壊された耳鼻科教室の土台を使用しています。
 
医学部同窓会

12. 神の手

医学部創立75周年記念庭園の西北にそびえたつカール・ミレスの「神の手は」庭園の創立にあたり、これに最もふさわしい象徴的造形として医学部同窓会有志、第二外科教室同門の熱意によって寄贈されました。
カール・ミレス(1875-1955)はスウェーデンの生んだ20世紀最大の彫刻家の一人で、初期にはロダンの印象派的影響を強く受けましたが、のちに、中世あるいは古代ギリシヤの表現主義的作風をとり入れて独自の境地を拓き、アメリカに移住して幻想的にして力強い多くの名作を残しました。なかでもこの「神の手」は世界の至宝とも言われる傑作です。彼は晩年眼を患い、失明の恐怖に悩みつつスウェーデンに帰り、死去の前年1954年、これを制作しました。神の手の上でひたすら天来の光を求めている人こそミレス自身の悲願の姿でしょう。
井口 潔
(消化器・総合外科学分野(旧第2外科)名誉教授)
 

13. 慰霊塔「崇高な精神」

久保通りの並木通り手前に建立された慰霊塔「崇高な精神」は、医学・歯学の教育・研究のため、自らのご遺体を提供された全ての御霊に対し、感謝と尊敬の念を表す証として平成21年3月19日に完成しました。

建立にあたり計画、デザインを、現代彫刻を専門分野とし、生を生涯のテーマとして追求し活躍する、九州大学芸術工科研究院の石川幸二教授が担当しています。
  

14. ヒポクラテスの木

ギリシャのコス島にスズカケノキの巨木があり、この木の下で西暦紀元前四百年ころ医聖ヒポクラテスが医学を教えたと伝えられています。  
新潟の蒲原宏博士夫妻がわざわざコス島に渡りその木の実を採取して帰られ八株を育てられました。 そのうちの一株を貰い受け、この木と共に本学が発展することを祈念し、ここに定植いたしました。
 
一九七三年十一月十四日 寄贈者 天児民和
ヒポクラテスの木 ー定植の記念碑よりー

ヒポクラテスとは医聖、医学の父と称される人物で、古代ギリシャのコス島で医学の指導を行いました。それまでの迷信や呪術から医学を切り離し、科学的な医学へと発展させた功績で知られ、ヒポクラテスの医師の倫理性や客観性を重んじる思想は、医の世界で「ヒポクラテスの誓い」として現代まで受け継がれています。
 
中島 康晴
(整形外科学分野 教授)

15. ナイチンゲールの誓詞の碑

われはわが手に託されたる
人びとの幸のために身をささげん
ナイチンゲール誓詞より

昭和58年、九州大学医療技術短期大学部は、昭和23年公布の保健婦助産婦看護婦法により、九州大学看護学校と改称された年から数え35周年を迎えた。九州大学看護師教育は、明治36年の医学部創立と同時に発足し、その後、改称、短期大学への昇格を経て、現在の医学部保健学科に続く。
35周年を記念し、この間の卒業生(985名)は、看護教育の更なる発展を願って、医療短期大学の玄関前に庭を築き、ヤマモモの木の下にナイチンゲール誓詞(第六章)の碑を建てた。(この碑文は、九州大学医療技術短期大学部岡本陽子姉の筆蹟による。)

※ナイチンゲール誓詞とは、ナイチンゲールの偉業を讃え作成された、看護に携わる看護師としての必要な考え方、心構えを示したものです。
 
 

16. 釜掛の松

天正15年(1587年)、九州平定を終え筥崎宮に滞陣した豊臣秀吉は、小寺休夢(福岡藩の藩組黒田如水の叔父)らと和歌を詠じ、茶人の千利休や博多の豪商神屋宗湛らと茶会を催しました。その際、利休は秀吉の命により、この地の松に鎖をつるして雲龍の小釜をかけ、白砂の上に散り敷いた松葉を集めて湯をわかしたと伝えられています。
 
碑より転載
 

17. 長塚節 (ながつかたかし) 逝去の地

長塚節(1879年-1915年)は、正岡子規に歌の指導を受けたアララギ派の歌人であり、子規の没後、短歌雑誌『アララギ』の創刊に携わりました。また、作家としても小説『土』を執筆し、農民文学の確立に大きく貢献しました。明治45年(1912年)、喉頭結核を患い、高浜虚子門下の俳人でもある九州大学病院の久保猪之吉博士のもとで治療を続けましたが、大正4年(1915年)、その甲斐もなく37歳で亡くなりました。
碑より転載
 

18. 郭沫若 (かくまつじゃく)先生 顕彰碑

郭 沫若(1892-1978)

中国四川省楽山出身。1918年九州帝国大学医学部入学、23年卒業。21年詩集『女神』を出版、また文学グループ創造社を結成し、中国ロマン主義文学の旗手となった。歴史学、古代思想、文字学などの分野でも一流の業績をあげ、革命家としても活躍、新中国設立後は副総理、中国科学院長に任じた。本年は恰かも本学留学90周年にあたる。これを記念し碑を建てて顕彰する。
 
2008年3月
碑より転載
 
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